日本にも世界に誇れるような偉人は非常に多く、このサイトでは300人以上の偉人を選んでいます。強いて、10人の偉人中の偉人を選ぶとすれば、次のようになります。
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日本にも世界に誇れるような偉人は非常に多く、このサイトでは300人以上の偉人を選んでいます。強いて、10人の偉人中の偉人を選ぶとすれば、次のようになります。
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過去の日本の歴史をつくってきた偉人には、日本国の歴史に大きく影響した、織田信長や徳川家康、豊臣秀吉などがいます。近年の歴史に大きく貢献した偉人には、坂本竜馬がいます。 |
筆者は、個人的には、テレサ・テンや松尾和子が好きだったですが、現在では五木ひろしや都はるみ、小林旭などの歌曲をよく聴きます。 |
◆〔日本の偉人〕の紹介リスト。 |
アントニオ猪木 |
アントニオ猪木は、日本を代表する元プロレスラーのひとりで実業家、政治家でもあります。愛称を〔アントン〕といい、新日本プロレス時代のキャッチフレーズは〔燃える闘魂〕、日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは〔若獅子〕でした。 |
赤﨑勇(赤崎勇) |
赤﨑勇は、日本の化学工学者で、工学博士です。名城大学大学院理工学研究科終身教授、名城大学窒化物半導体基盤技術研究センター長、松下技研株式会社半導体部長、名古屋大学工学部教授などを歴任した。 |
天野浩 |
天野浩は、日本の電子工学者、工学博士で、半導体工学の研究が専門である。名古屋大学大学院工学研究科教授、同大学赤﨑記念研究センター長、名城大学LED共同研究センター運営委員を歴任している。 |
安藤百福 |
安藤百福は、世界初の一般食品としてのインスタントラーメン「チキンラーメン」を発明したことで知られる。日清食品株式会社の創業者であり、世界初となるカップ麺「カップヌードル」を開発した。 |
安倍晋三 |
安倍晋三は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員であり、内閣総理大臣を二度にわたって務めている。第一次阿部内閣時は体調を崩し無残な政治を行ったが、二度目の政権時には、いわゆるアベノミクスという政策を掲げ、長年デフレで悩んできあ日本の経済を立て直ししつつある。 |
安倍晴明 |
安倍晴明は、平安時代の陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。 |
芥川龍之介 |
芥川 龍之介は、日本の小説家で、号は澄江堂主人、俳号は我鬼という。彼の作品には短編が多く、文章構成には、論理的によく整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。 |
新井白石 |
新井白石は、江戸時代中期の旗本であり政治家・学者である。無役の旗本であったが、六代将軍・徳川家宣の幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代を築いた。 |
青山剛昌 |
青山剛昌は、日本の漫画家である。日本大学芸術学部美術学科絵画コースを卒業している。1986年小学館新人コミック大賞入選、第38回小学館漫画賞児童部門受賞などに入賞している。多くの漫画作品があるが、中でも『名探偵コナン』シリーズは有名で、TVでも連続放映されている。 |
青木昆陽 |
青木昆陽は、江戸時代中期の儒学者であり蘭学者でもある。京都の儒学者伊藤東涯に学び、江戸に帰府して開塾している。評定所儒者、書物奉行であり、救荒食物としてサツマイモの栽培を推進した。一般には〔甘藷先生〕と称されている。 |
青木周蔵 |
青木周蔵は、明治、大正期の日本の外交官であり政治家である。何度かの外務大臣を歴任している。 |
青江三奈 |
青江三奈は、東京都江東区砂町出身の歌手で、ハスキーヴォイスで演歌・歌謡曲などを歌った。代表曲に『恍惚のブルース』『伊勢佐木町ブルース』『札幌ブルース』『長崎ブルース』『新宿サタデーナイト』『池袋の夜』『国際線待合室』『夜の瀬戸内』『木屋町の女』『大田ブルース』などがある。 |
浅井慎平 |
浅井慎平は、愛知県瀬戸市生まれの写真家で、1954年に広告写真の登竜門である日本広告写真家協会賞を受賞し、ビートルズ来日時に密着写真集を発刊、評判となりました。その後も湘南をはじめ世界各地の海の写真を発表しています。 |
浅井長政 |
浅井長政は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将である。 |
浅野長矩 |
浅野長矩は、播磨赤穂藩の第3代藩主であり、官位は従五位下内匠頭である。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼ばれる。 |
相田みつを |
相田みつをは、最近の人ですが、味わいのある言葉を残した人として有名です。彼の作品は暖簾や色紙に特有な文字として残されています。彼の代表的な作品には『にんげんだもの』『おかげさん』『ひとりしずか』『一生燃焼』『一生感動』『一生不悟』などがあります。 |
足利尊氏 |
足利尊氏は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将である。室町幕府の初代征夷大将軍で足利将軍家の祖である。元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵の際、鎌倉幕府軍を率いてその鎮圧のため上洛したが、幕府への反乱を起こし、六波羅探題を滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させた。 |
天草四郎 |
天草四郎は、一般には天草四郎時貞として知られる。江戸時代初期のキリシタン大名で幼少時より聡明でカリスマ性のある人物とされ、小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化されていた人物である。 |
明智光秀 |
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。織田信長の重臣の一人であったが、信長に冷遇されたことにより、「敵は本能寺にあり」の号令のもと、本能寺の変を起こし信長を滅ぼし、一時は京都を手中に収めた。 |
いかりや長介 |
日本のコメディアン・俳優・ベーシスト・タレント。「ザ・ドリフターズ」(略称:ドリフ)の3代目リーダーで、本名は碇矢長一で愛称は「長さん」と呼ばれた。 |
イチロー |
イチローは、本名、鈴木一朗と称するプロ野球選手(外野手)で、「Ichiro」「Ichiro Suzuki」「イチロー・スズキ」などとも呼ばれる。日本での愛称は「イチ」「天才バッター」、アメリカでは「魔法使い(Wizard)」「安打製造機(Hit Machine/Hitting Machine)」などと称されている。 |
伊藤博文 |
日本の武士・長州藩士・政治家で、長州藩の私塾、松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後、岩倉使節団の副使・参議兼工部卿などを務め、大日本帝国憲法の起草に貢献した。初代以降、全四代にわたって内閣総理大臣を務めた。また、初代枢密院議長・初代貴族院議長・初代韓国統監を歴任した。1909年、ハルビンで朝鮮民族主義活動家の安重根によって暗殺された。69歳だった。 |
伊能忠敬 |
江戸時代の商人・測量家。寛政12年(1800年)~文化13年(1816年)の足かけ17年間、日本全国を測量し、当時の世界史上でも稀にみる精度で『大日本沿海輿地全図』を完成させた。これにより日本全国の正確な地図が完成した。 |
井伊直弼 |
井伊直弼は、幕末の譜代大名で近江彦根藩の第15代藩主である。幕末期、江戸幕府の大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。 |
井深大 |
井深大は、日本の電子技術者で実業家で、盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人である。大学卒業後、写真化学研究所(PCL)に入社し、自ら発明した「走るネオン」という製品がパリ万博博覧会で金賞を獲得した。 |
一休宗純 |
室町時代の臨済宗の僧一休宗純の愛称。自由奔放な性格の持ち主で、その生涯に様々な説話を残すとともに、ちょっとした奇行なども多かったと伝えられる。仏教の戒律で禁じられた飲酒や肉食を好むばかりか、女性をも愛したとされている。江戸時代に説話『一休咄』が作られ、頓知で有名となる。 |
稲盛和夫 |
稲盛和夫は、日本の実業家であり後のKDDIとなる京セラ・第二電電の創業者である。1959年、社員8人で、後の京セラとなる京都セラミツクを設立し、1966年には社長に就任した。 |
岩倉具視 |
岩倉具視は、日本の公家で政治家である。当初は公武合体に努め、後に討幕運動に参加した。明治維新後は右大臣となり,特命全権大使として欧米を視察している。帰国後征韓派を退け、内治優先・天皇制確立の政策を遂行した。 |
岩沢正作 |
岩沢正作は、明治~昭和時代前期に活躍した考古学者で、『赤城山廻遊案内』という書籍を書いています。群馬県内の中学などで博物学を教えるかたわら県内出土の土器や石器を収集・研究した学者でした。彼の研究が、約100年後に群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、火山灰層から甲(よろい)を着た人骨の発見へと繋がったのでした。 |
犬養毅 |
犬養毅は、日本の政治家である。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁、文部大臣、逓信大臣、内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣などを歴任した。 |
五木ひろし |
五木ひろしは、1971年の『よこはま・たそがれ』でデビュー以来、非常に多くのヒット曲を歌う人気歌手です。ヒット曲には、『千曲川』『おまえとふたり』『ふたりの夜明け』『契り』『細雪』『浪花盃』『長良川艶歌』『山河』『凍て鶴』『おしろい花』『夜明けのブルース』『博多ア・ラ・モード』など多数があります。 |
今川義元 |
今川義元は、戦国時代の武将である。駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名で、今川氏第11代当主である。合理的軍事改革などで今川氏を戦国大名にまで転身させた。 |
糸川英夫 |
糸川英夫は、日本の工学者で専門分野は航空工学、宇宙工学である。有名なペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれている。 |
石ノ森章太郎 |
石ノ森章太郎は、日本の漫画家、特撮作品原作者である。SF漫画や学習漫画など多くの作品を量産し「漫画の王様」「漫画の帝王」と称される |
石原裕次郎 |
日本の俳優・声優・歌手。司会者やモデル・実業家・ヨットマンとしても知られる、現在で言うマルチタレントとして活躍した。石原軍団総帥、石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長。愛称をタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージローなどと親しまれ、没後数十年を経た現在でもファンの心に深く残っている。 |
石川さゆり |
石川さゆりは、日本の演歌歌手である。小学1年の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動し歌手を志すようになる。中学校3年時、フジテレビの「ちびっ子歌謡大会」で合格し、連続ドラマ『光る海』レギュラー出演するようになる。 |
石川啄木 |
石川啄木は、日本の歌人であり詩人である。与謝野鉄幹の知遇を得て詩人としてデビューした。 |
石田三成 |
石田三成は、安土桃山時代の武将で大名である。豊臣氏の家臣で、豊臣政権の五奉行の一人である。 |
泉鏡花 |
泉鏡花は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した日本の小説家である。尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』で評価を得るようになり、『高野聖』で人気作家として世に知られる。 |
板垣退助 |
板垣退助は、日本の武士で土佐藩士であり政治家である。自由民権運動の主導者として知られている。 |
宇沢弘文 |
宇沢弘文は、日本の経済学者で、特に専門は数理経済学で、東京大学名誉教授である。意思決定理論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などの功績で知られる。 |
宇野重吉 |
宇野重吉は日本の俳優で演出家である。滝沢修らと共に劇団民藝を創設し、第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界で活躍した名優として知られる。リアリズムを基調とした近代的な芸を貫いていた。長男に俳優の寺尾聰がいる。 |
上杉謙信 |
戦国時代の越後国の武将・戦国大名。〔越後の虎〕とか〔越後の龍〕〔軍神〕などと称されている。越後国の守護代を務めていた長尾氏の出で、初名は〔長尾景虎〕として知られる。越後国を統一し産業を振興して繁栄に導いた。他国救済の要請のもとに多数回出兵し戦に挑んだ。武田信玄、北条氏康、織田信長などとの多くの戦いを繰り広げたが、中でも武田信玄とは川中島で五回の戦をしている。 |
上田秋成 |
上田秋成は、江戸時代後期の読本作者であり歌人、茶人、国学者、俳人として知られている。怪奇小説が有名で、中でも怪異小説『雨月物語』は超有名である。 |
植村直己 |
日本の登山家・冒険家・探検家。1941年、農家の末っ子として生まれる。少年期に学校行事で蘇武岳に登ったのを切っ掛けに山に登るようになる。明治大学に入ると山岳部に入部して登山に没頭し、海外の山への憧れをつのらせる。ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと資金稼ぎのためにアメリカで働くなどの苦労を重ねる。1965年、明治大学のゴジュンバ・カン登頂隊に途中参加し登頂を果たし、続いてマッターホルンやアフリカ最高峰キリマンジャロ、南米最高峰アコンカグアの単独登頂に成功する。更に、エベレスト南東稜から登頂に成功する。1970年にマッキンリー単独登頂を成功させ、世界初の五大陸最高峰登頂者となった。1984年、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたが、その後消息不明となる。 |
内村鑑三 |
内村鑑三は、日本のキリスト教思想家であり文学者、伝道者、聖書学者である。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えたことで知られる。 |
梅原龍三郎 |
梅原龍三郎は、日本の洋画家である。ヨーロッパで油彩画を学び、日本の伝統的な美術技法である桃山美術や琳派、南画などを自由に取り入れることで、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を創作した。昭和の一時代に日本洋画界の重鎮として君臨した。 |
栄西 |
栄西は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、明菴栄西とも呼ばれる。生地は備中国賀陽郡、現在の岡山県加陽郡は現在加賀郡吉備中央町とされる。 臨済宗の開祖であり建仁寺を開山した。また、天台密教葉上流の流祖である。廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られている。 |
円空 |
円空は、江戸時代前期の行脚僧であり木彫りの仏像を製作する名人であった。日本全国を行脚して歩き、各地に「円空仏」と呼ばれる独特な作風の仏像を残している。推定では、円空は生涯に約12万体の仏像を彫ったとされ、現在までに約5350体が発見されている。 多くの仏像を残したが、それぞれに同じものはなく個性的な作風となっている。彼はまた仏像以外にも多くの和歌や大般若経の扉絵なども残している。 |
遠藤周作 |
遠藤周作は、日本の小説家であり随筆や文芸評論や戯曲も手がけたことで知られる。父親の仕事の関係で幼少時代は満州で過ごし、その後はカトリックの洗礼を受けている。 代表作に『白い人』『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。 |
江戸川乱歩 |
江戸川乱歩は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家であり推理作家である。現実世界でも探偵として探偵事務所に勤務していた経歴を持っている。
戦後は推理小説専門の評論家としても活躍した。日本推理作家協会初代理事長を務めた。 |
江崎玲於奈 |
江崎玲於奈は、日本の物理学者である。1947年に東京帝国大学を卒業すると現在の富士通テンに入社、真空管の陰極からの熱電子放出の研究を行い、1956年には現在のソニーに移籍し、半導体を研究した。 ゲルマニウムPN接合の研究中にトンネル効果の影響で、電圧を上げるほど逆に電流が減少する負性抵抗現象を発見した。これにより新しい電子デバイスであるトンネルダイオードが誕生した。その功績により1973年、ノーベル物理学賞を受賞している。 |
王貞治 |
王貞治は、日本生まれで中華民国籍の元プロ野球選手でありプロ野球の監督である。現役時代に一本足打法と呼ばれる独特の打法で、通算本塁打868本を記録した。同時代の長嶋茂雄とともにON砲として活躍し、巨人軍のV9に貢献した。現役引退後は巨人、ダイエー・ソフトバンクで監督を歴任した。 |
岡潔 |
岡潔は、日本の数学者で、奈良女子大学名誉教授、理学博士である。フランス留学時代に多変数複素函数論に出会い生涯を通じて研究し、発展途上であった多変数解析函数論の研究で大きな業績を残した。 岡潔は、その時代の数学の三つの大問題を解決したことで知られている。中でも、ハルトークスの逆問題(レヴィの問題)の解決は有名である。彼の功績は、たった一人の数学者によるものとは信じられないほどのものであったという。 |
岡倉天心 |
岡倉天心は、福井藩の武家の子として横浜に生まれた日本の思想家で文人である。現在の東京藝術大学の前身の一つである東京美術学校の設立に大きく貢献したほか、日本美術院を創設したことで知られる。 |
岡田紅陽 |
岡田紅陽は、新潟県出身、早稲田大学卒の日本の写真家である。1923年の関東大震災の被害状況を東京府の嘱託として撮影したことで有名である。 |
岡本太郎 |
岡本太郎は、日本の芸術家であり、絵画、彫刻、陶芸、書道、写真、著述業に業績がある。昭和5~15年にフランスで学び、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流がある。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作した。 |
沖田総司 |
幕末の武士・新撰組一番隊組長及び撃剣師範。文久3年、浪士組結成に参加して上洛し、近藤勇に従い新選組を結成し、一番隊組長となる。芹沢鴨暗殺や大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺など手がけたとされる。元治元年の池田屋事件でも近藤らと共に最初に池田屋に切り込んだが、奮戦中、喀血により戦線離脱したといわれる。体調悪化の後、病死した。享年は22歳、24歳、27歳と3説があるが定かでない。 |
仰木彬 |
福岡県出身のプロ野球選手・プロ野球監督・野球解説者。西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍した野球選手で、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任。阪神大震災後に『がんばろうKOBE』の合言葉のもと快進撃を果たした。 |
小津安二郎 |
小津安二郎は、日本の映画監督で脚本家である。〔小津調〕と呼ばれる独特の映像世界を創りだし、多くの作品を発表し、日本ばかりでなく世界からも高く評価されている。 |
小尾信彌 |
小尾信彌は、日本の天文学者で天体物理学を専門としている。東大理学部天文学科卒業後、技官として東京天文台(現・国立天文台)で活動し、戦後の東京天文台における観測装置復旧の最初期の技術者であった。小学校時代の同級生に同じ天文学者の村山定男がいる。 |
小野小町 |
小野小町は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話をもち、後世に能や浄瑠璃などの題材ともなったが、小野小町像とされる絵や彫像は現存しない。 |
小野妹子 |
小野妹子は、近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身の飛鳥時代の政治家で外交家である。『日本書紀』によれば大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。 |
小渕恵三 |
小渕恵三は、群馬県出身の日本の政治家である。衆議院議員、総理府総務長官、沖縄開発庁長官、内閣官房長官、外務大臣、内閣総理大臣、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁、自由民主党総裁などを歴任した。長らく竹下登の側近として活躍し、円満な性格から「人柄の小渕」の異名をもっている。 |
織田信長 |
戦国時代から安土桃山時代の武将・戦国大名。天下布武をとなえ、天下統一を目前にしたが重臣明智光秀に反旗を許し本能寺で自害。 |
太田清蔵 |
太田清蔵(5代目)は、現在の福岡県福岡市出身の日本の実業家である。元東邦生命保険会長・社長を歴任した。東邦生命社長の傍ら、大丸を福岡に誘致するなど、福岡市の経済発展に大きく貢献した。 |
大塩平八郎 |
大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者、陽明学者で、大坂町奉行組与力である。天保の大飢饉の時代、各地で百姓一揆が多発し大坂でも米不足が起こっていた。平八郎は奉行所に民衆の救援を提言したが拒絶され、仕方なく自らの蔵書を売却した資金で救済に努めた。 |
大久保利通 |
日本の武士で薩摩藩士・政治家。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで〔維新の三傑〕と称される。維新十傑の1人でもある。文久2年、久光を擁立し京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向し、やがて久光の側近となる。公武合体路線から武力倒幕路線を指向するようになる。小松、西郷らとともに倒幕を計画したが、江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、王政復古のクーデターを実行。明治時代になり、初代内務卿の実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、富国強兵を唱え殖産興業政策を推進した。 |
大隈重信 |
大隈重信は、日本の武士、佐賀藩士であり、尊皇攘夷派志士として活躍した。明治維新後、明治3年に参議となる。6年大蔵省事務総裁、ついで大蔵卿に就任する。征韓論争後、財政の責任者として大久保利通を補佐した。 |
大石内蔵助 |
江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。俗称は大石内蔵助だが本名は大石良雄である。元禄赤穂事件で有名となり、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で名を残した。 |
尾崎行雄(尾崎咢堂) |
尾崎行雄は、日本の政治家であり尾崎咢堂とも呼ばれる。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、「憲政の神様」「議会政治の父」と称される。 |
尾崎放哉 |
尾崎放哉は、日本の俳人で、種田山頭火らと並び自由律俳句の最も著名な俳人の一人とされる。東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険に勤務し出世コース真っ只中のエリートだったが、突然その生活を捨てて、俳句三昧の生活を送るようになる。 |
尾崎豊 |
日本のミュージシャン、シンガーソングライター。破滅的なパフォーマンス、心の内面を抉り出すような歌詞に、真実の愛や夢を託した生きざまが、1980年代の若者に共感を与え、カリスマ的存在となった。満26歳の若さで突然死亡した。その後、現在まで多くのミュージシャンやファンに影響を与えている。 |
春日八郎 |
春日八郎は、日本の流行歌歌手・演歌歌手である。戦後、歌謡曲から演歌の時代に変わろうとする時代、歌謡界で燦然と輝いた。 |
加藤大治郎 |
埼玉県浦和市出身のオートバイロードレースレーサー。愛称の「大ちゃん」「大治郎」で知られる。15歳でバイクレーサー・サーキートレーサーとしてデビューし、チーム〔ホンダ〕に属し、ホンダのオートバイで活躍するようになる。九州選手権など多くのロードレースでGPチャンピオンなどを獲得した。最終勝利は2001年のブラジルGPだった。 |
河鍋暁斎 |
河鍋暁斎は、下総国古河出身で、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師であり日本画家である。反骨精神の持ち主で多くの戯画や風刺画を残した。 |
蟹江一太郎 |
蟹江一太郎は、東海市名和町の農家出身であり、トマトケチャップメーカーで知られる〔カゴメ〕の創業者である。カゴメのブランド・ステートメントは「自然を、おいしく、楽しく」だという。 |
柿本人麻呂 |
柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人である。山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。三十六歌仙の一人でもある。 |
角川春樹 |
角川春樹は、富山県中新川郡水橋町出身の実業家であり映画監督、映画プロデューサー、俳人、冒険家である。角川春樹事務所会長兼社長、幻戯書房会長を務める。「俺の魂はスサノオノミコト」だと主張し毎日、祝詞とお経をあげ「私は絶対だ。私は完全だ。私は神なのだ。」と唱えているという。 |
葛飾北斎 |
葛飾北斎は、江戸時代後期の浮世絵師で化政文化を代表する一人で、葛飾派の祖である。あらゆる森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を残している。版画だけでなく肉筆浮世絵でも傑作を残している。 |
鎌田實 |
鎌田實は、東京都杉並区出身の医師であり作家、ピースボート水先案内人である。東京医科歯科大学医学部を卒業し医師として破産寸前の長野県茅野市にある諏訪中央病院に赴任し「住民とともに作る地域医療」の最前線に取り組んできた。 |
鴨長明 |
鴨長明は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人であり随筆家である。京都で賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜(ねぎ)の家に生まれた。 |
勝海舟 |
勝海舟は、江戸時代末期から明治時代初期の武士であり幕臣・政治家である。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。勝海舟は幼名を麟太郎と称し、しばしば勝麟太郎と呼ばれる。 |
川合玉堂 |
川合玉堂は、日本の明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家である。1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村で筆墨紙商の長男として生まれる。 |
川端康成 |
川端康成は、大阪府大阪市北区此花町出身の小説家である。川端康成は、幼くしてほとんど全ての近親者を亡くして育ったが、中学2年のとき作家を志すようになる。17歳の頃に『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになる。 |
岸信介 |
岸信介は、日本の政治家であり官僚である。満州国総務庁次長、商工大臣、衆議院議員、自由民主党幹事長、外務大臣、内閣総理大臣、皇學館大学総長などを歴任した。 |
菊池寛 |
菊池寛は、香川県香川郡高松出身の小説家であり劇作家、ジャーナリストである。文藝春秋社を創設した実業家として知られる。芥川賞、直木賞の設立者でもある。 |
北原白秋 |
北原白秋は、日本の詩人であり童謡作家、歌人である。生涯に数多くの童謡や短歌を残し現在でも歌い継がれているが、詩や童謡、短歌以外にも、多数の校歌や新民謡も残している。白秋は、近代の日本を代表する詩人の一人であり、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれている。 |
北里柴三郎 |
北里柴三郎は、熊本県阿蘇郡小国町出身の医学者、医学博士であり細菌学者である。私立伝染病研究所創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園創立者兼運営者、私立北里研究所創立者兼初代所長多数を歴任した。 |
北島三郎 |
北島三郎は、昭和時代から平成時代の日本を代表する演歌歌手で、演歌界の長老であり、大御所である。多くの内弟子を育て、他の歌手への楽曲の提供もしている。 |
木下杢太郎 |
木下杢太郎は、静岡県賀茂郡湯川村出身の皮膚科の医学者であり、大学医学部教授を歴任している。また詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家であり、南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと称されるきらびやかな詩や戯曲を残している。 |
木戸孝允 |
木戸孝允(桂小五郎)は、日本の武士、長州藩士であり、幕末から明治時代にかけての政治家である。明治維新の元勲とされ西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。 |
空海 |
空海は、唐より真言密教を持ち帰って真言宗を開いた、平安時代初期の僧で、弘法大師として知られる。真言宗の開祖であり、高野山金剛峰寺を開いた。823年には、東寺を与えられ真言密教の道場とした。更に、828年には、庶民のための学校となる綜芸種智院を建設した。 |
熊谷守一 |
熊谷守一は、岐阜県恵那郡付知村出身の日本の画家である。1900年に東京美術学校西洋画家選科へ進む。1905年に、美術学校卒業後に樺太調査団に参加し、アイヌの人々の生活に触れ、自然に生きる姿に感動したという。 |
黒澤明 |
黒澤明は、日本の映画監督、世界にその名ありと知られた日本映画史上の巨匠である。躍動的・感動的な映像表現や人道的精神に徹した作風に特徴があり、日本のみならずその後の世界の映画界で〔世界のクロサワ〕と呼ばれ多大な影響を与えた。 |
草野心平 |
草野心平は、福島県石城郡上小川村出身の詩人である。5人の兄弟の次男として生まれ、1919年に中学を中退し上京する。その後、中国の広東嶺南大学に進学するが、排日運動により帰国し、この頃より詩作を始める。 |
楠木正成 |
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将である。鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ったころ幕府には恩賞を与える実力もなく権威は失墜していた。民は重税に苦しみ、世は乱れ、後醍醐天皇が幕府打倒を目指し京都で挙兵する。これを支援した数少ない武将のひとりが楠木正成であった。 |
継体天皇 |
継体天皇は、日本の第26代天皇で、在位は継体天皇元年2月4日(450年?)~同25年2月7日(531年3月10日?)である。 |
桂昌院 |
桂昌院は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母であり、通称〔お玉の方〕と称される。 |
月照 |
月照は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶である。月照は、文化10(1813)年、大阪の町医者の家に生まれ、叔父のつてで京都の清水寺成就院に入り、やがて成就院の住職になる。尊皇攘夷に傾倒し、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派となったため、大老井伊直弼から危険人物と見なされた。 |
顕如 |
顕如は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧である。武将織田信長の宿敵として知られ、信長を仏敵と定め決戦を挑んだ。 |
建礼門院 |
平徳子は、父を平清盛、母を平時子との間に生まれた。高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んでいる。平徳子は、安徳天皇が即位すると国母となる。建礼門院とは平徳子の院号である。 |
建春門院 |
平滋子は、後白河天皇の譲位後の妃であり、高倉天皇の生母である。建春門院とは平滋子の院号である。 |
剱持松二 |
剱持松二は、東京都出身の将棋棋士である。若手棋士に度々勝ってしまう事があり、〔若手潰し〕との異名もある。その人柄から、大山康晴からも升田幸三からもかわいがられた。2000年に引退したが、引退棋士昇段規定により2013年に九段に昇段した。 |
近衛文麿 |
近衞文麿は、日本の政治家である。後陽成天皇の12世孫にあたり、五摂家の近衞家の第30代目当主である。 貴族院議員になった後、火曜会を結成し、大政翼賛会を設立もした。貴族院副議長、貴族院議長、内閣総理大臣、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣、国務大臣などの要職を歴任した。三度にわたり内閣総理大臣として国政にあたった。外交政策では大東亜共栄圏建設を掲げ、日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。 |
近藤勇 |
江戸時代末期の武士。豪農に生まれ幼名を藤五郎と称した後の近藤勇は、天然理心流剣術道場・試衛館に入門し腕前を認められ、流派一門の宗家を継ぐ。 |
古賀政男 |
古賀政男は、日本の昭和期の代表的作曲家で数多くの流行歌を作曲し、多数の歌手に提供している。中でも藤山一郎や美空ひばり、村田英雄などに提供した名曲は現在でも絶大な人気がある。 |
古関裕而 |
古関裕而は、作曲家である。1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選して、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家として知られる。生涯に作曲した曲数は五千曲に及ぶという。 |
小柴昌俊 |
小柴昌俊は、日本の物理学者である。1987年、大マゼラン雲内に発生した超新星「SN 1987A」の爆発に伴うニュートリノを検出したことで知られる。 |
小泉純一郎 |
小泉純一郎は、1942年、横須賀市で小泉家の長男として生まれた、日本の政治家である。小泉家は母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務めたほどの家であったが、戦後には公職追放にあい、経済的には苦労したとされている。 |
小泉八雲 |
小泉八雲は、ギリシャ出身の新聞記者・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家・日本民俗学者である。出生名のパトリック・ラフカディオ・ハーンとしても知られる。 |
小泉八雲 |
小泉八雲は、ギリシャ出身の新聞記者・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家・日本民俗学者である。出生名のパトリック・ラフカディオ・ハーンとしても知られる。 |
小泉武夫 |
小泉武夫は、福島県小野町の酒造家出身の日本の農学者・発酵学者・文筆家である。東京農業大学農学部醸造学科卒業後、博士論文「酵母の生成する香気に関する研究」で東京農業大学農学博士号を取得している。専門分野は発酵学、食品文化論、醸造学である。 |
小池邦夫 |
小池邦夫は、松山のミカン農家の次男として生まれた芸術家であり、絵手紙の創始者である。小池邦夫は、幼少時、故郷松山の大山積神社の鳥居に彫られた三輪田米山の書に惹かれ、書家を志したという。 |
小平邦彦 |
小平邦彦は、東京都出身で最終学歴を、東京帝国大学理学部数学科および物理学科卒業の数学者である。 |
小林一茶 |
小林一茶は、信濃北部の北国街道柏原宿の中農の長男として生まれた、江戸時代を代表する俳諧師の一人である。14歳で江戸へ奉公に出たが、25歳の時に小林竹阿に師事して俳諧を学び、29歳で故郷に戻り、翌年より36歳まで、俳諧修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。 |
小林誠 |
小林誠は、愛知県名古屋市出身の理論物理学者である。小林の専門分野は原子物理学の中の素粒子理論であり、中でも〔CKM行列:カビボ・小林・益川行列(Cabibbo-Kobayashi-Maskawa matrix)〕や〔小林・益川理論〕の功績で知られている。 |
小林旭 |
小林旭は、日本で活躍する俳優であり歌手であるが、柔道五段でゴルフの達人でもあり、恰好もクールで通称では〔マイトガイ〕と呼ばれている。 |
小村寿太郎 |
小村壽太郎は、日向国飫肥藩の下級藩士・小村家の長男として生まれた、日本の政治家であり外交官である。彼は、東京大学の前身である大学南校に入学、第1回文部省海外留学生としてハーバード大学へ留学し法律を学んだ。 |
サトウハチロー |
サトウハチローは、東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町出身の日本の詩人・童謡作詞家・作家である。戦後一世を風靡した『リンゴの唄』の作詞者としてよく知られている。 |
佐久間象山 |
佐久間象山は、江戸時代後期の松代藩の下級武士出身の兵学者・朱子学者・思想家である。若年期に経学と数学を熱心に学んだとされ、これが彼の洋学吸収に大きく益したとされる。 |
佐藤栄作 |
日本の鉄道官僚・政治家。第61~63代総理大臣・内閣官房長官・衆議院議員・郵政大臣・電気通信大臣・建設大臣・北海道開発庁長官・大蔵大臣・通商産業大臣・科学技術庁長官などを歴任。ノーベル平和賞を受賞している。1967年12月11日の衆議院予算委員会の答弁において、非核三原則「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」を表明したことで知られる。 |
佐藤春夫 |
佐藤春夫は、和歌山県東牟婁郡新宮町出身の近代日本の詩人・作家であり、明治末期から昭和まで活躍した。彼の活動分野は多岐にわたり、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌全域に及んでいる。『三田文学』に才気あふれる詩文を発表している。 |
佐藤勝彦 |
佐藤勝彦は、香川県坂出市出身の宇宙物理学者で、専門分野は宇宙論である。東京大学名誉教授、日本学士院会員であり、大学共同利用機関法人自然科学研究機構長、明星大学理工学部客員教授を歴任している。 |
最澄 |
最澄は、近江国滋賀郡古市郷生れの平安時代の僧で、日本の天台宗の開祖である。真偽のほどは確たる証拠がないが、最澄の先祖は古代中国より、応神天皇の時代に日本に渡来したいわれ、後漢孝献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)と称される人物とされている。 |
坂口安吾 |
坂口安吾は、新潟県新潟市出身で東洋大学印度哲学倫理学科卒業の小説家・評論家・随筆家である。純文学のほか歴史小説や推理小説なども書いている。随筆では時代風俗や古代の歴史におよぶような作品も多く残している。 |
坂口謹一郎 |
坂口謹一郎は、新潟県高田出身の農芸化学者である。〔酒の博士〕の異名をもち、発酵や醸造に関する研究では世界的権威とされている。日本学士院会員であり、東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長を歴任した。 |
坂上田村麻呂 |
坂上田村麻呂は、天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男あるいは三男として出生した平安時代の武官である。中央では近衛府の武官を務め、793年の陸奥国の対蝦夷戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。 |
坂田昌一 |
坂田昌一は、1911年、東京出身の物理学者であり、湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。坂田学派と呼ばれる多数の弟子を育てたことで知られ、中でも後にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、益川敏英らが有名である。 |
坂本竜馬 |
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士である。後の海援隊となる亀山社中を結成。薩長同盟の実現、大政奉還の成立に尽力し倒幕および明治維新成立に貢献した。 |
坂本冬美 |
坂本冬美は、和歌山県西牟婁郡上富田町出身の演歌歌手である。NHKの勝抜き歌謡天国和歌山大会で名人となり、当時審査員をしていた猪俣公章の内弟子となって、1987年に『あばれ太鼓』で歌手デビューを果たした。 |
真田幸村 |
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男で、実名は真田信繁である。幸村は戦国乱世時代の最後を飾る英雄として知られ、大阪夏の陣では3500人の兵を引き連れて徳川家康の本陣まで攻め込み家康の苦しめた。その後、史実を基にして、多くの物語が創作され、真田十勇士を従えて奮戦する英雄的武将・真田幸村として広く知られるようになった。 |
西園寺公望 |
西園寺公望は、清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純の次男として出生した、日本の公家であり政治家・教育者である。2歳のとき、清華家の西園寺師季の養子となり家督を相続した。孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳以降は御所に出仕するようになり、後の明治天皇の近習となる。 |
西郷隆盛 |
日本の武士・薩摩藩士・軍人・政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び「維新の三傑」と呼ばれる。維新十傑の1人。上野公園に銅像があり、観光客に親しまれている。 |
西条八十 |
西條八十は、東京府東京市牛込区牛込払方町出身の詩人で作詞家・仏文学者である。西條は、旧制早稲田中学在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぎ文学で身を立てると決心する。中学時代から英語を学び、早稲田大学文学部英文科を卒業する。 |
斉藤茂吉 |
斎藤茂吉は、山形県南村山郡金瓶出身の歌人であり精神科医である。伊藤左千夫門下で大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物として知られる。茂吉は小学校卒業後、進学する経済的余裕はなかったが、東京浅草の医院に跡継ぎがなくその養子として、15歳で上京し、学業も続け医師となる。 |
ジャイアント馬場 |
日本のプロレスラー・プロ野球選手・タレントで、全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任。日本のプロレス界史上で最大の巨体の持ち主で、力道山やアントニオ猪木と並んで有名な人物である。 |
司馬遼太郎 |
司馬遼太郎は、大阪府大阪市生出身の小説家でありノンフィクション作家、評論家である。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞し作家としての頭角を現した。 |
志賀直哉 |
志賀直哉は、宮城県石巻市生まれ、東京府育ちの明治から昭和にかけて活躍した小説家である。白樺派を代表する小説家のひとりで、後の時代の多くの日本人作家に影響を与えたとされる。志賀直哉の祖父は、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山の開発をした人物であり、。二宮尊徳の門人だったという。 |
柴田勝家 |
柴田勝家は、大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で出生したとされる、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり大名である。織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を治めていた。信秀の死後は、織田信行(信勝)に家老として仕える。 |
十返舎一九 |
十返舎一九は、駿河国府中出身の江戸時代後期の戯作者、浮世絵師である。有名な『東海道中膝栗毛』の作者として知られ、日本で最初に文筆のみで生計を立てた人物として知られる。 |
渋沢栄一 |
渋沢栄一は、天保11年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村に生まれた、幕末から大正初期にかけての日本の武士、幕臣であり官僚、実業家でもある。第一国立銀行や東京証券取引所など多くの企業の設立に関わり、日本資本主義の父ともいわれている。 |
親鸞 |
親鸞は、承安3年(1173年)、現在の法界寺、日野誕生院付近で出生した、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧である。浄土真宗の宗祖とされる。法然を師と仰ぎ、法然による〔浄土往生を説く真実の教え〕の教えを終生に渡って実践し、さらに高めるよう努力した。 |
聖徳太子 |
飛鳥時代の皇族で政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称がある。推古天皇の治世下、蘇我馬子と協調し国際的緊張のなかで遣隋使を派遣し大陸の進んだ文化や制度をとり入れ冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇中心の中央集権国家体制を確立した。 |
島崎藤村 |
島崎藤村は、信州木曾の中山道馬籠出身の詩人であり小説家である。『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版したことで知られる。 |
島津久光 |
島津久光は、重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主であり、幕末から明治時代初期での日本の政治家である。幕末の薩摩藩での事実上の最高権力者として公武合体運動を推進したことで知られ、明治新政府では内閣顧問、左大臣を歴任している。 |
島木赤彦 |
島木赤彦は、明治9年(1876年)長野県諏訪郡上諏訪村角間生まれの明治・大正時代のアララギ派歌人である。家は元々は諏訪藩士であったが、父親は明治維新後には教員をしていた。赤彦は貧しいながらも自然や優しい家族のもとで伸び伸びと育った。 |
島倉千代子 |
島倉千代子は、日本の演歌、歌謡曲の世界を代表する歌手のひとりである。昭和30年代、アイドル的存在として一世を風靡し、その後も極めて長い期間にわたって日本の歌謡世界で活躍した。 |
白瀬矗 |
白瀬矗は、文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村出身の陸軍軍人であり南極探検家である。軍人としての最終階級は陸軍輜重兵中尉であった。8歳の頃、平田篤胤の高弟とされる蘭学者の佐々木節斎の寺子屋に入り、読み書きソロバンや四書五経、そしてコロンブスやマゼランの地理探検の話などを学ぶ。11歳の頃には、北極圏の話を聞き、探検家を志すようになる。 |
白川英樹 |
白川英樹は、1936年、東京府出生の日本の化学者である。東京工業大学工学博士、筑波大学名誉教授、日本学士院会員であり、「導電性高分子の発見と発展」により、2000年にノーベル化学賞を受賞した。 |
東海林太郎 |
東海林太郎は、戦前を代表する日本の歌手である。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動の姿勢で歌う独特な歌唱スタイルで知られている。学業終了後、1923年に南満州鉄道に入社するも、左翼的思想から左遷され、帰国して、一時期中華料理店を経営する。声楽を学び、音楽コンクールで入賞して歌謡界に入った。 |
杉原千畝 |
日本の官僚、外交官。杉原は、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していたが、当時、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、ポーランドから避難してきた難民に、大量のビザを発給した。当時の日本の外務省からの訓令に反したものだったが、これにより、約6000人ほどの避難民が救済された。難民の多くはユダヤ系であったことで、「日本のシンドラー」と呼ばれることがある。 |
杉田玄白 |
江戸時代の蘭学医。医師として開業すると共に、天真楼という医学塾を開く。長崎からオランダの医学書を持ち帰った前野良沢らと共に、千寿骨ヶ原において死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに驚愕する。仲間とともに『ターヘル・アナトミア』を和訳して、有名な『解体新書』として刊行した。 |
杉文 |
杉文は、江戸時代末期から大正時代にかけての日本の女性で、幕末の思想家・吉田松陰の妹である。一度は松陰門下の久坂玄瑞と結婚したが、俗にいう〔禁門の変〕で夫が自害したことで未亡人となる。 禁門の変とは、元治元年7月19日に京都で起きた武力衝突事件で、蛤御門の変あるいは元治の変、元治甲子の変とも呼ばれている。 後に、姉の元夫である楫取素彦と再婚し、楫取美和子を名乗る。夫は群馬県令や貴族院議員を歴任したことで知られる。尚、杉文を主人公にした大河ドラマ『花燃ゆ』が2015年に放送されている。 |
鈴木貫太郎 |
鈴木貫太郎は、和泉国大鳥郡伏尾新田出身の海軍軍人であり政治家である。爵位は男爵であり軍人としての階級は海軍大将であった。海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの顕職を歴任した。 明治10年(1877年)に前橋市に転居し、明治17年には海軍兵学校に入学し、日清戦争に従軍、明治31年海軍大学校を卒業した。後に、二・二六事件で襲撃されるも一命を取り留め、次々と要職を歴任し、第42代内閣総理大臣に就任した。 |
鈴木章 |
鈴木章は、北海道鵡川村出身の日本の化学者である。北海道大学理学部化学科卒業、北海道大学大学院理学研究科化学専攻博士課程修了し、「ヒドロフェナンスレン誘導体の合成」の研究で理学博士を取得している。 1979年、芳香族化合物の合成法として重要な〔鈴木・宮浦カップリング〕を発表した。これは、金属パラジウム触媒の作用で、炭素を効率よく結合させる画期的合成法であり、2010年にノーベル化学賞を受賞している。 |
鈴木大拙 |
鈴木大拙は、石川県金沢市本多町の旧金沢藩藩医の家に出生した、文学博士であり、仏教学者である。禅についての研究に優れ、これを英語で著わし日本の禅文化を広く海外に知らしめたことで知られる。 |
鈴木梅太郎 |
鈴木梅太郎は、静岡県榛原郡堀野新田村の農家で出生した、戦前の日本の農芸化学者である。帝国大学農科大学農芸化学科を卒業し、東京帝国大学教授を務め、理化学研究所の設立者のひとりでもある。 梅太郎は、米糠を脚気の予防に使えることを発見した事で知られる。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者である。 |
菅原道真 |
菅原道眞は、平安時代の貴族であり学者、漢詩人、政治家である。道眞の出生は定かではないが、奈良市にある喜光寺に残る伝えでは、現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。 道真は幼少時より詩歌の才能を発揮し、18歳で文章生(もんじょうせい)になったという。その後も次々と出世し、宇多天皇に重用され右大臣にまで昇進した。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが道真の建議により遣唐使は停止となった。 しかし、時の左大臣藤原時平と折り合いが悪く、大宰府へ左遷され現地で没した。その死後に天変地異が多発したことで、朝廷に祟りをもたらしたとされる。現在では学問の神として親しまれている。 |
関孝和 |
関孝和は、日本の江戸時代の数学者(和算家)である。関孝和の生誕地は上野国藤岡と江戸との2説があるがはっきりはしない。彼は若くして、吉田光由の『塵劫記』を独学し高度な数学を学び、甲斐国甲府藩の徳川綱重・綱豊(後の6代将軍徳川家宣)に仕えて勘定吟味役となる。 |
世阿弥 |
世阿弥は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師である。父の観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成し多くの書を残した。この能は観世流として現代に受け継がれている。 |
清少納言 |
清少納言は、平安時代の女流作家であり歌人である。随筆「枕草子」の作者として有名である。清少納言は、梨壺の五人の一にして著名歌人とされた清原元輔を父親とし、『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父を曽祖父に持って生まれた。 |
雪舟 |
雪舟は、室町時代に活動した禅僧で水墨画家である。備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。その後、遣明船に同乗して明に渡り、李在より中国の画法を学んだとされる。 |
千利休 |
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも呼ばれる。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠とされる。 |
蘇我入鹿 |
蘇我入鹿は、飛鳥時代の豪族である。大和朝廷の有力な大臣であったが、大化の改新の前夜〔乙巳の変〕において討たれた。その後、蘇我氏が凋落する始まりとなった。 |
蘇我馬子 |
蘇我馬子は、飛鳥時代の貴族で政治家である。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。その後の時代、大化の改新の前夜〔乙巳の変〕において討たれることになる蘇我入鹿は孫である。 |
孫正義 |
孫正義は、在日韓国人実業家の次男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で生まれた、日本の実業家である。1990年に日本に帰化している。 |
伊達政宗 |
伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、陸奥仙台藩の初代藩主である。幼少時に疱瘡(天然痘)に罹患したことで右目を失明したため、隻眼となり後世独眼竜と呼ばれる。 |
高橋是清 |
高橋是清は、日本の幕末の武士、仙台藩士で明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家である。立憲政友会第4代総裁、大蔵大臣、第20代内閣総理大臣を務めた。財政家であり総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。 |
高杉晋作 |
高杉晋作は江戸時代後期の長州藩士である。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。長州藩奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕へと向かわせた。 |
高村光雲 |
高村光雲は、日本の仏師であり彫刻家である。江戸下谷に町人兼吉の子として生まれ、1863年から仏師の高村東雲の徒弟となり、後に東雲の姉エツの養子となり、高村姓となる。 |
高村光太郎 |
高村光太郎は、東京府東京市下谷区下谷西町出身の詩人であり彫刻家、画家である。『道程』『智恵子抄』等の詩集で有名であり、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられている。 |
高浜虚子 |
高浜虚子は、愛媛県温泉郡長町新町出身の明治・昭和期の俳人であり小説家である。ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。1888年、伊予尋常中学に入学、正岡子規に師事し俳句を教わるようになり、子規より虚子の号を授かる。 |
高峰譲吉 |
高峰譲吉は、現在の富山県高岡市出身の科学者、工学博士、薬学博士であり実業家である。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校を卒業した。理化学研究所の設立者の一人として知られる。 |
高木貞治 |
高木貞治は、岐阜県大野郡数屋村出身の日本の数学者で、東京帝国大学教授、第1回フィールズ賞選考委員、文化勲章受章者である。 |
高野辰之 |
高野辰之は、長野県下水内郡豊田村の豪農出身の国文学者であり作詞家である。高野辰之は、1897年長野県尋常師範学校を卒業し上京、東京帝国大学で上田萬年に師事して国文学を学んだ。1910年には東京音楽学校教授となる。 |
高倉健 |
高倉健は、福岡県中間市出身の映画俳優であり歌手である。日本を代表する映画スターとして半世紀以上にわたって君臨した。1955年、映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェース第2期生として東映への入社を果たす。採用から僅か1か月半で主役デビューすることが決まり、翌年に『電光空手打ち』主役デビューする。 |
滝沢馬琴 |
滝沢馬琴は、正式な名は、曲亭馬琴であり、江戸時代後期の読本作者である。明和4年、江戸深川の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。 |
沢庵宗彭 |
沢庵宗彭は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持である。一般的に沢庵漬けの考案者と言われている。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。 |
谷崎潤一郎 |
谷崎潤一郎は、東京府東京市日本橋区出身で、明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで活躍した小説家である。日本国内だけでなく海外からもその作品の芸術性の高さが評価されている。近代日本文学を代表する小説家の一人である。 |
竹久夢二 |
竹久夢二は、日本の画家であり詩人である。独特なタッチで非常に多くの抒情的な美人画を描き、それは「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家である。 |
田山花袋 |
田山花袋は、当時の栃木県邑楽郡館林町生れの小説家である。この地は現在は群馬県になっている。 |
田沼意次 |
田沼意次は、江戸時代中期の旗本であり後に大名となった、江戸幕府老中である。遠江相良藩の初代藩主であり相良藩田沼家初代でもある。 |
田中角栄 |
田中角栄は、日本の政治家であり第64・65代内閣総理大臣・建築士・衆議院議員・郵政大臣・大蔵大臣・通商産業大臣などを歴任した。 |
田中耕一 |
田中耕一は、日本の化学者でありエンジニアである。東北大学名誉博士である。ソフトレーザーによる質量分析技術を開発し、2002年にノーベル化学賞を受賞した。受賞以降は、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中とされる。 |
武田信玄 |
武田信玄は、戦国時代の武将であり甲斐の守護大名・戦国大名である。甲斐の守護を務めた武田信虎は甲斐の統一を果たし戦国大名となるが、その嫡男である信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。 |
平将門 |
平将門は、平安時代中期の関東の豪族である。平将門は、上総の国の国司として赴任するが、任期後もその地に居座り勢力を拡大し、その地の権益を守る為に武士団を形成する。 |
平清盛 |
平清盛は、平安時代末期の武将で公卿である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱での功績で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱では最終的に勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任ぜられる。 |
太宰治 |
太宰治は、日本の小説家であり作家である。昭和11年、最初の作品集『晩年』を刊行、その後、『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』などの作品を残したが、昭和23年に山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺を図り死去した。作風は新戯作派、無頼派と呼ばれた。 |
近松門左衛門 |
近松門左衛門は、江戸時代前期の元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者である。元々は竹本座に属する浄瑠璃作者である。一度は歌舞伎狂言作者に転向したものの再度浄瑠璃に戻って活躍した。 |
千葉周作 |
千葉周作は、江戸時代後期の武士、剣術家であり、北辰一刀流の創始者である。千葉周作の遠い先祖は、桓武平氏良文流、板東八平氏の一つの名門千葉氏で、北辰流千葉常胤である。 |
円谷英二 |
円谷英二は、特撮監督の専門家で、映画・特撮の監督・映画監督・撮影技師・発明家である。昭和期の特殊撮影技術に一風を吹き込み一世を風靡した。 |
坪内逍遥 |
坪内逍遥は、尾張藩領美濃国加茂郡太田宿生まれで、主に明治時代に活躍した日本の小説家であり評論家、翻訳家、劇作家でもある。父から漢学書を読まされ、少年期には貸本屋に通って読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しみ、特に滝沢馬琴に心酔したという。 |
壺井栄 |
壺井栄は、香川県小豆郡坂手村出身の小説家であり詩人である。1899年、醤油樽職人の岩井藤吉の五女として生まれ、貧困で苦労するが、坂手小学校、内海高等小学校を卒業する。その後、郵便局や役場で働き、1925年には上京、26歳のとき、プロレタリア作家・壺井繁治と結婚する。 |
堤義明 |
堤義明は、日本の実業家で西武鉄道グループの元オーナーである。東京に実業家の堤康次郎と内縁関係にある石塚恒子の間に生まれる。父は西武グループの基礎を一代で築き上げた堤康次郎であり、幼少時より父親からスパルタ教育により帝王学を教育されて育った。 |
土屋文明 |
土屋文明は、群馬県群馬郡群馬町上郊村出身の歌人であり国文学者である。幼少期に叔父から俳句の手ほどきを受け、旧制高崎中学在学中から俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿していた。 |
鶴田浩二 |
鶴田浩二は、日本の俳優であり歌手である。昭和時代を代表する映画スターとして活躍し、数多くの映画やドラマに主演した。歌手としても独特な歌い方で多くのヒットを残した。 |
寺田寅彦 |
寺田寅彦は、高知県出身の戦前の日本の物理学者であり随筆家、俳人である。地球物理学関連で潮汐の副振動の観測などを行った。1913年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)により帝国学士院恩賜賞を受賞している。 |
手塚治虫 |
日本の漫画家でアニメーター、アニメーション監督、医学博士。戦後日本でのストーリー漫画の第一人者とされ、その後の日本漫画界発展の基礎を作った。『鉄腕アトム』や『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などの超ヒット作を残し、〔マンガノ神様〕と評された。 |
朝永振一郎 |
朝永振一郎は、東京生まれ京都育ちの日本の物理学者である。湯川秀樹とは中学校~大学卒業まで同級であった。京都帝国大学理学部物理学科を卒業、1931年にドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。 |
東郷青児 |
東郷青児は日本の洋画家である。夢見るような甘い女性像に人気があり、昭和の美人画家として一世を風靡した。「二科会のドン」とも呼ばれていた。 |
東郷平八郎 |
東郷平八郎は、日本の武士で薩摩藩士・軍人・元帥海軍大将である。明治時代、日本海軍の指揮官として日清戦争、日露戦争の大勝利を導いた。これら勝利により日本は〔世界の五大国〕の一員となるまでに存在感を示すようになった。 |
東條英機 |
東條英機は、日本の政治家であり陸軍軍人、陸軍大臣である。内閣総理大臣、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣などを歴任している。 |
徳川家康 |
徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり戦国大名である。江戸幕府の初代征夷大将軍となり、三英傑の一人と呼ばれる。。家系は三河国の国人土豪・松平氏であるが、本姓は源氏だとされる。 |
徳川吉宗 |
徳川吉宗は、江戸幕府第8代将軍である。徳川家康の曾孫にあたる。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 |
徳川光圀 |
徳川光圀は、水戸藩初代藩主徳川頼房の三男であり徳川家康の孫に当たり、水戸藩2代目藩主であり『水戸黄門』として知られる。 |
徳田秋声 |
徳田秋声は、現在の金沢市横山町出身の小説家である。幼少時は病弱で小学校へも遅れて入学するほどであった。高等中学校に入学のころから読書に目覚め小説家を目指すようになった。 |
徳富蘇峰 |
徳富蘇峰は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリストであり思想家、歴史家、評論家である。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られ、小説家徳冨蘆花の兄にあたる。 |
豊臣秀吉 |
豐臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で天下人・関白・太閤であり、三英傑の一人とされる。尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。当初、織田信長に仕官し、逸話では草履取りなどをしながら次第に頭角を現し、出自より実力を重んじる信長に気に入られ目覚ましい勢いで出世していった。 |
豊田喜一郎 |
豊田喜一郎は、静岡県敷知郡吉津村山口生まれの経営者、技術者、トヨタ自動車創業者である。1920年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業し、経営者を志し、東京帝国大学法学部で学んだ。 |
豊田佐吉 |
豊田佐吉は、日本の発明家で実業家である。豊田紡織、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所を創業し、トヨタグループの創始者である。 |
利根川進 |
利根川進は、愛知県名古屋市生まれの生物学者である。東京都立日比谷高等学校を卒業後、京都大学理学部化学科、同大学院理学研究科に進み、同大学ウイルス研究所の渡辺格に師事したが、渡辺の薦めにより分子生物学研究のためにカリフォルニア大学サンディエゴ校へと留学する。 |
永井荷風 |
永井荷風は、出身の小説家である。荷風は、芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみがあるだけでなく、漢学や日本画や書にまで通じていた。 成人することには、江戸時代の名作である『水滸伝』や『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などを読み漁る生活をしていた。1897年に家族と上海旅行に行き、帰国後に処女作となる『上海紀行』を発表した。 永井荷風の代表作には『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』『腕くらべ』『墨東綺譚』『つゆのあとさき』等がある。 |
夏目漱石 |
夏目漱石は、日本の小説家・評論家・英文学者であり、俳号は愚陀仏。大学時代に正岡子規と出会い俳句を学んだ。 |
夏目雅子 |
夏目雅子は、1957年、六本木の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれた、日本の女優である。小学校3年生のとき、TVドラマ『チャ子ちゃんハーイ!』を見て女優を志すようになる。 |
中臣鎌足 |
中臣鎌足は、飛鳥時代の政治家である。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖として知られる。鎌足は、後に天智天皇となる中大兄皇子の腹心として活躍し、大化の改新における中心人物である。 |
中川一政 |
中川一政は、1893年生まれの、東京府東京市本郷生まれの洋画家であり、美術家・歌人・随筆家である。成人した頃、巽画会展への出品作品が岸田劉生に見出されて画家を志した。洋画を初め、水墨画・版画・陶芸・詩作・和歌・随筆・書と多彩な作品を残した。 |
中曽根康弘 |
中曽根康弘は、群馬県高崎市生まれ、東京帝国大学(現・東京大学)出身の日本の大政治家である。長い期間にわたり、衆議院議員、科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官、内閣総理大臣、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁などの要職を歴任した。特に3期にわたり内閣総理大臣として君臨し、世界にしられる政治家として活躍した。 |
中村修二 |
中村修二は、日本の愛媛県西宇和郡出身であるが、後にアメリカ国籍を取得しアメリカ人となった技術者であり電子工学者である。2014年度、赤崎勇・天野浩とともに、ノーベル物理学賞受賞した。 |
中谷宇吉郎 |
中谷宇吉郎は、石川県江沼郡片山津町出身の物理学者であり随筆家である。大正11年(1922年)、東京帝国大学理学部物理学科に入学し寺田寅彦に教えを受ける。卒業後、理化学研究所で寺田研究室の助手となる。北海道帝国大学理学部教授、北海道大学理学部教授などを歴任した。 |
長岡半太郎 |
長岡半太郎は、慶応元年(1865年)生まれで長崎県大村市出身の物理学者である。明治15年(1882年)、東京大学理学部に進学し、教授山川健次郎や助教授田中舘愛橘、イギリス人教師ノットに学んだ。その後、大学院に進み、更に助教授に就任した。ドイツに留学し帰国後、教授に就任し多くの弟子たちを育てた。 |
南部陽一郎 |
南部陽一郎は、明治54年(1921年)、福井県福井市出身で、1970年にアメリカに帰化した日系アメリカ人理論物理学者である。専門は素粒子理論で東京大学で理学博士を取得している。シカゴ大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授、立命館アジア太平洋大学アカデミック・アドバイザーであり、 |
似鳥昭雄 |
似鳥昭雄は、1944年、樺太生まれで終戦後は札幌市で育った、日本の実業家である。株式会社ニトリの創業者で同社代表取締役社長を務めている。北海道工業高等学校卒業後、札幌短期大学卒業、北海学園大学編入を経て、1966年に北海学園大学経済学部を卒業した。 |
新渡戸稲造 |
新渡戸稲造は、文久2年(1862年)盛岡藩の当時奥御勘定奉行であった家に出生した、日本の教育者であり思想家である。明治6年(1873年)に東京外国語学校英語科に入学し、札幌農学校を経て、東京大学選科入学する。 |
新島襄 |
新島襄は、天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で出生した、日本の宗教家であり教育者である。明治六大教育家の1人とされ、現在の同志社大学の前身である同志社英学校を興したことで知られる。 |
西村京太郎 |
西村京太郎は、昭和5年(1930年)東京府荏原郡荏原町生まれの日本の推理作家である。トラベルミステリーの第一人者で、十津川警部の生みの親として知られている。現在の東京都立産業技術高等専門学校卒業後、臨時人事委員会に就職するが、11年後に退職して私立探偵、警備員などを経て作家生活を始める。 |
西田幾多郎 |
西田幾多郎は、明治3年(1870年)、石川県宇ノ気町森で出生した、日本を代表する哲学者である。幾多郎は江戸時代には大庄屋を務めた豪農の家に生まれた。石川県専門学校に学んだころ、哲学へ関心を持つようになる。 |
西澤潤一 |
西澤潤一は、昭和元年(1926年)宮城県仙台市で出生した、日本の工学者である。専門分野は電子工学・通信工学で、半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の開発で独創的な業績を挙げる。上智大学特任教授、東北大学総長、岩手県立大学学長、首都大学東京学長を歴任した。半導体研究の黎明期から従事し数多くの成果を上げ、「ミスター半導体」とも呼ばれる。 |
二宮尊徳 |
江戸時代後期の農政家・思想家。「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した思想家である。戦前から戦後しばらくの間は道徳教育の絶好の教材として広く国民に親しまれた。 |
日親 |
日親は、応永14年(1407年)上総国で出生した、室町時代の日蓮宗の僧である。「不受不施義」を初めて唱えたとされる。父親の実弟である日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427年)には上洛して、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。著作に『折伏正義抄』『立正治国論』『埴谷抄』『伝燈抄』『本法寺縁起』がある。 |
日蓮 |
日蓮は、貞応元年(1222年)、現在の千葉県鴨川市で出生した鎌倉時代の仏教の僧であり、鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖である。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。 |
額田王 |
額田王は、飛鳥時代の日本の皇族・歌人で、天武天皇の妃とされています。万葉集や日本書紀などの史料により「額田女王王」や「額田姫王」「額田部姫王」とも記されています。 |
根岸英一 |
根岸英一は、日本の化学者である。1935年、満州国新京で誕生し日本統治時代の朝鮮京城府城東区で育った。 |
根津嘉一郎 |
根津嘉一郎は、甲斐国山梨郡正徳寺村生まれの日本の政治家であり実業家である。東武鉄道や南海鉄道など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わり、「鉄道王」とも呼ばれる。 |
乃木希典 |
乃木希典は、日本の武士、長府藩士であり軍人、教育者である。軍人の階級としては陸軍大将であったため「乃木大将」または「乃木将軍」などと呼ばれることも多い。。出雲源氏佐々木氏の子孫と称し源希典との署名もよく用いた。 |
野依良治 |
野依良治は、日本の化学者である。専門分野は有機化学で、学位は工学博士である。2001年に「キラル触媒による不斉反応の研究」によりノーベル化学賞を受賞している。 |
野口英世 |
野口英世は、福島県出身の細菌学者である。現在の日本医科大学修了後、ペンシルベニア大学医学部を経てロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に専念し黄熱病や梅毒等の研究で知られる。黄熱病の研究中に自身も罹患していしまいガーナのアクラ死去した。51歳であった。 |
野村胡堂 |
野村胡堂は、岩手県紫波郡彦部村の農家の次男として生まれた小説家である。また、作家、音楽評論家でもある。小学校時代より『絵本太閤記』や『水滸伝』を熱心に読んだという。 |
華岡青洲 |
華岡青洲は、宝暦10年(1760年)華岡直道の長男として紀伊国那賀郡名手荘西野山村で生まれた、江戸時代の外科医である。世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させたことで知られている。 |
原敬 |
原敬は、安政3年(1856年)現在の盛岡市本宮で盛岡藩士の次男として生まれた、日本の外交官であり政治家である。原敬は、後の時代には「平民宰相」と呼ばれ親しまれてきたが、原家は上級武士の家柄であった。 |
長谷川町子 |
長谷川町子は、大正9年(1920年)佐賀県小城郡東多久村で生まれた、日本初の女性プロ漫画家である。そのユーモラスの中に温かみと楽しさ、時に涙を誘うその作品は、戦前戦後、そして現在まで、多くの子供たちや大人たちに夢を与え続けている。 |
萩原朔太郎 |
萩原朔太郎は、明治19年(1886年)群馬県東群馬郡北曲輪町で生まれた、日本の詩人である。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。 |
浜田広介 |
浜田広介は、明治26年(1893年)山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた、日本の童話作家である。日本児童文芸家協会初代理事長を務めた。また、坪田譲治、小川未明とともに児童文学界の三種の神器と呼ばれた。 |
林忠彦 |
林忠彦は、大正7年(1918年)山口県で出生した日本の写真家である。木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人とされ、終戦後の日本の風俗や風景など多くの写真を残した。また、多くの文士の写真も残している。 |
林芙美子 |
林芙美子は、明治36年(1903年)門司市小森江で生まれた、日本の小説家である。幼少時代は貧しい育ちだったためか、社会の底辺に生きる庶民を慈しむような名作を残した。 |
濱口雄幸 |
濱口雄幸は、明治3年(1870年)土佐国長岡郡五台山で生まれた、日本の大蔵官僚であり政治家である。出生時に「幸雄」と命名されたのだが、出生届けを出しに行った父親が酒を飲み酩酊していて、誤って「雄幸」と記入したため、このような名前になった。 |
広瀬宰平 |
広瀬宰平は、文政11年(1828年)近江国野洲郡八夫村出身の明治期の大阪財界の大立者であり、初代住友総代理人である。広瀬は幼名を幼名駒之助と言ったが明治維新後宰平と改名した。 |
広瀬武夫 |
広瀬武夫は、明治元年(1868年)豊後国竹田で出生した、日本の海軍軍人である。日露戦争時に有名なエピソードがあり、戦前は軍神として神格化される存在であった。 |
広中平祐 |
広中平祐は、昭和6年(1931年)山口県玖珂郡由宇町生まれの日本の数学者である。日本人で2人目のフィールズ賞受賞者として知られる。フィールズ賞は、数学分野の有名な賞であり、数学のノーベル賞と称される。 |
土方歳三 |
幕末期の幕臣・新選組副長。新選組時代、局長近藤勇の補佐役として数々の事件で武名を轟かせる。新選組では鬼の副長と称された。旧幕軍側指揮官の一人として転戦し、戊辰戦争最後の戦場、箱館五稜郭防衛戦にて戦死。 |
東山魁夷 |
東山魁夷は、明治41年(1908年)横浜市出生の日本の画家であり著述家である。昭和を代表する日本画家の一人とされ、文化勲章受章者、千葉県市川市名誉市民である。 |
日野富子 |
日野富子は、永享12年(1440年)山城(京都府)生まれの室町時代後期から戦国時代前期の女性であり、室町幕府8代将軍足利義政の正室である。 |
卑弥呼 |
中国の史書『魏志倭人伝』などに記されている倭国の王(女王)であり、都を邪馬台国においたとされる。封号は親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。邪馬台国の存在地には諸説あり、詳しいことは現在でもわかっていない。 |
樋口一葉 |
樋口一葉は、明治5年(1872年)東京生まれの小説家である。中島歌子に歌や古典を学び、半井桃水に小説を学んだ。 |
菱川師宣 |
菱川師宣は、元和4年(1618年)安房国平郡保田本郷で出生した、近世日本の画家である。江戸初期に活動した浮世絵師の一人であり、しかも、浮世絵を確立した人物、最初の浮世絵師である。しばしば「浮世絵の祖」と称される。 |
平賀源内 |
平賀源内は、享保13年(1728年)讃岐国寒川郡志度浦出生の江戸時代中頃に活躍した本草学者であり地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家である。 |
平櫛田中 |
平櫛田中は、明治5年(1872年)岡山県後月郡の田中家に生まれた、日本の彫刻家である。井原市名誉市民、福山市名誉市民、小平市名誉市民となっている。 |
平山郁夫 |
平山郁夫は、昭和5年(1930年)広島県豊田郡瀬戸田町生まれの日本画家であり教育者である。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者である。 |
フランク永井 |
フランク永井は、昭和時代中期を代表するムード歌謡歌手である。当時の歌謡は、流行歌と呼ばれた時代だったが、フランクは、独特の低音の魅力で視聴者を魅惑し、当時の歌謡界に極めて大きな足跡を残した。 |
福田赳夫 |
福田赳夫は、明治38年(1905年)群馬県群馬郡金古町足門出身の大蔵官僚であり政治家である。幼少時より神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業、第一高校を経て東京帝国大学法学部へ進学した。 |
藤原定家 |
藤原定家は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家であり歌人である。激動の時代に生きながら、藤原氏一族の御子左家の歌道の絶対的地位を確立した。
18歳~74歳までの56年間、克明な日記『明月記』を残している。安倍晴明一族が克明に観察し伝承された〔かに星雲〕での超新星爆発を記録していて、近年天文学における貴重な資料となっている。孫の一人、冷泉為相は現存する冷泉家の始祖となる。 |
藤原不比等 |
藤原不比等は、斉明天皇5年(659年)生まれの、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿である。不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜わり藤原氏の始祖となった藤原鎌足の次男である。 |
藤原鎌足 |
藤原鎌足は、生前には中臣鎌足と呼ばれた飛鳥時代の政治家であり、日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖として知られる。鎌足は、後に天智天皇となる中大兄皇子の腹心として活躍した大化の改新における中心人物である。 |
藤原啓 |
藤原啓は、明治32年(1899年)岡山県備前市穂浪に生まれた日本の陶芸家である。1970年に人間国宝に認定された。少年期から俳句や小説の才を発揮し、1915年に『文学世界』に応募した短編が1等を獲得する。 |
藤子不二雄 |
藤子不二雄は、日本の漫画家ユニットである。本名では、藤本弘と安孫子素雄という二人の漫画家がコンビを組み、結成したユニットである。どちらが描いた作品でも作者としては「藤子不二雄」のペンネームを用いていた。 |
藤城清治 |
藤城清治は、大正13年(1924年)東京府生まれの影絵作家である。キャラクター「ケロヨン」の原作者として知られる。藤城は、幼少時より画才を認められ、12歳の時には、仙波均平に水彩画、エッチング、油絵の指導を受ける。また、慶應の児童文化研究会にて人形劇と出会っている。昭和19年には海軍予備学生になり、翌年には少尉任官する。指人形を使い慰問演芸会を行ったという。 |
藤沢周平 |
藤沢周平は、山形県鶴岡市出身の日本の小説家である。江戸時代の下級武士層や庶民層の機微や哀歓を描く小説が得意であった。特に〔海坂藩(うなさかはん)〕という架空の藩を舞台にして多くの作品を残している。 |
蕗谷紅児 |
蕗谷虹児は、大正~昭和時代の挿絵画家であり詩人である。誕生は明治31年で、尾竹竹坡(ちくは)に日本画を学び、後に竹久夢二の紹介により『少女画報』に連載された『花物語』の挿絵を担当したのを最初に、それ以降は少女雑誌や婦人雑誌の挿絵を描いた。 |
福井謙一 |
福井謙一は、明治51年(1918年)奈良県生駒郡平城村生まれの日本の化学者である。1941年、京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、その後も京都大学工学部燃料化学科教授などを経て、1980年には京都大学を退官し京都大学名誉教授となっている。 |
福沢諭吉 |
福澤諭吉は、日本の武士であり蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者でもある。慶應義塾を創設し専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。 |
平和勝次 |
平和勝次は、竹原中学校卒業後には大阪に出て、浪曲師冨士月子に弟子入りし、〔若葉トリオ〕に参加していた。その後は漫才師として松竹芸能に所属しお笑い歌謡ショーなどを演じていた。 |
弁慶 |
弁慶こと武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧兵であり、源義経の郎党である。怪力無双の荒法師として名高く、京都、五条の大橋で源義経と出会い家来となった。 |
遍照 |
遍昭は、平安時代前期の僧侶であり、歌人で六歌仙および三十六歌仙の一人となっている。小倉百人一首などでは僧正遍昭と称されている。 |
細井平洲 |
細井平洲は、享保13年(1728年)現在の愛知県東海市の農家に生まれた江戸時代の儒学者である。幼少時より学問に親しみ、一時期京都や長崎に遊学する。宝暦元年(1751年)24歳のとき、江戸で私塾、嚶鳴館を開き、武士や町民、農民に学問を広めた。 |
細川ガラシャ |
細川ガラシャは、永禄6年(1563年)明智光秀と妻・煕子の間に三女として生まれ、珠と呼ばれた、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性である。細川忠興の正室であり、キリシタンとして知られる。明治期以降、キリスト教徒たちが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれている。 |
細川たかし |
細川 たかしは、北海道虻田郡真狩村の出身の演歌歌手である。彼は、井沢八郎の『北海の満月』を聴き歌手を目指すようになる。初期には札幌すすきのクラブで歌うところを芸能プロダクションに見いだされた。 |
法然 |
法然は、長承2年(1133年)現在の岡山県久米郡久米南町に生まれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。 |
北条時宗 |
北条時宗は、1251年、鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれた、鎌倉時代中期の武将であり政治家である。その時代は、世界帝国を誇ったモンゴル帝国が日本国に圧力を掛ける時代であり、鎌倉幕府第8代執権に就任した。 |
北条政子 |
北条政子は、保元2年(1157年)伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。頼朝が鎌倉に武家政権を樹立した以降は御台所と呼ばれた。 |
北条早雲 |
北条早雲は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将であり、戦国大名となった後北条氏の祖である。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒となった。 |
堀越二郎 |
堀越二郎は、1903年群馬県藤岡市に生まれた日本の航空技術者である。新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。 |
堀江貴文 |
堀江貴文は、日本の実業家である。堀江は小学校時代に家にあった百科事典を読み漁り多くの知識を習得したという。そのためか小学校時代は学業成績は優秀であったが、いわゆる優等生ではなかった。彼は、偉人ではなかったかも知れないが、時代の寵児であった。 |
堀江謙一 |
堀江謙一は、1938年、大阪市生まれの海洋冒険家(ソロセーラー・ヨットマン)である。コールサイン〔JR3JJE〕を持つアマチュア無線家でもある。1962年、小型ヨット「マーメイド号」により西宮~サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海に成功したことで知られる。 |
堀辰雄 |
堀辰雄は、明治37年(1904年)、東京府東京市麹町区生まれの日本の小説家である。それまでの日本の小説がとかく私小説的であったものを、西洋流の創作としてのロマン小説という文学形式を確立しようとした作家である。 |
本多光太郎 |
本多光太郎は、明治3年(1870年)、愛知県碧海郡矢作町生まれの物理学者、金属工学者(冶金学者)である。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、世界に先駆けて創始した。鉄鋼の世界的権威者であり「鉄の神様」「鉄鋼の父」などと呼ばれる。 |
本田宗一郎 |
本田宗一郎は、日本の実業家・技術者・本田技研工業の創業者(HONDAの創設者)である。尋常高等小学校を卒業すると自動車修理工場のアート商会へ丁稚奉公に入り、修行して自動車修理と運転技術を体得する。 |
本田美奈子 |
本田美奈子は、日本の歌手で女優である。2000年代にはクラシックとのクロスオーバーにも挑んだ。歌手を夢見ていた母親の影響で、幼い頃からいつも歌が好きだった。 |
益川敏英 |
益川敏英は、愛知県名古屋市中川区生まれの理論物理学者で、専門は素粒子理論である。益川敏英は、名古屋大学で坂田昌一研究室に所属し「粒子と共鳴準位の混合効果について」という博士論文で理学博士号を取得した。 |
間宮林蔵 |
間宮林蔵は、江戸時代後期の幕府隠密をつとめた役人であり探検家でもある。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」とも呼ばれている。 |
松井秀喜 |
松井秀喜は、石川県能美郡根上町出身の元プロ野球選手で外野手である。愛称の「ゴジラ」で知られる選手で日本だけでなく、アメリカメジャーリーグでも大活躍した。 |
松下幸之助 |
松下幸之助は、日本の実業家で発明家である。現在のパナソニック(旧:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた創設者・経営者として知られる。 |
松田優作 |
山口県下関市生まれの俳優・歌手。刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。その後、東映セントラルフィルム作品や角川映画作品でアクションスターとして人気を得て、演技はとして知られるようになる。卓越した演技力だけでなく、勇敢で人情に厚い人間性にカリスマを発揮した。主演ドラマ『探偵物語』は続く人たちに多くの影響を与えたとされる。アメリカ映画『ブラック・レイン』への出演で念願のハリウッドデビューを飾ったが、がんが発覚、延命治療を拒み病死した。40歳だった。 |
松尾芭蕉 |
江戸時代前期の俳諧師・歌人で蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立。東北、北陸地方を旅して、多くの印象的な俳句を残し、後世では俳聖として世界的にも知られるようになる。紀行文に『おくのほそ道』がある。 |
松尾和子 |
松尾和子は、東京都大田区蒲田に生まれ、箱根で育った女性歌謡曲・演歌歌手である。戦後、ジャズに興味を抱き、あるバンドの専属歌手として進駐軍キャンプやナイトクラブで歌っていた。赤坂のクラブで歌っているところをフランク永井にスカウトされ歌手となった。 |
松平定信 |
松平定信は、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる、江戸時代中期の大名で老中職を務めた。陸奥白河藩第3代藩主、定綱系久松松平家第9代当主でもある。 |
松本清張 |
松本清張は、日本の小説家である。松本清張の作風は、犯罪を引き起こす動機を重視する推理小説として知られる。 |
正岡子規 |
正岡子規は、明治時代を代表する文学者の一人であり俳人、歌人、国語学研究家として知られる。「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句の作者として有名である。俳句や短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面での創作活動により、日本の近代文学に多大な影響を与えたとされる。 |
前田青邨 |
前田青邨は、岐阜県中津川市出身の日本画家である。彼は、歴史画が得意で古来からの大和絵の伝統を引き継いだ武者絵や肖像画、花鳥画の作品も残した。特に鎧兜の精密な描写による武者絵は見事だとされる。 |
宮崎駿 |
宮﨑駿はアニメーション作家で映画監督・漫画家でもあります。スタジオジブリに映画監督としていくつかの人気アニメ映画を作成しました。主な作品には、『ルパン三世 カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『紅の豚』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』などがあります。 |
宮沢賢治 |
日本の詩人・童話作家。郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、エスペラント語で岩手を意味する言葉として、イーハトーブと名付けた言葉を創作した。生前は無名であったが、没後に草野心平らにより作品群が紹介され国民的作家となった。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『ポラーノの広場』『グスコーブドリの伝記』などの作品を残した。 |
宮本武蔵 |
江戸時代初期の剣術家・兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。また、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。自筆とされる有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状には「宮本武蔵玄信」と記している。 |
源義経 |
平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經。河内源氏の源義朝の九男で、幼名を牛若丸と呼ばれた。兄・頼朝が平氏打倒の挙兵すると参戦し、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅亡させる。その後、頼朝の許可なく官位を得たりして逆鱗に触れ、逃亡先の藤原泰衡のもとで追い詰められ衣川館で自刃。この悲劇の故に多くの伝説や物語が残る。 |
源頼朝 |
源頼朝は平安時代末期~鎌倉時代初期の武将でる。平氏打倒の兵を挙げ鎌倉を本拠として関東を制圧する。源義仲や平氏を滅ぼし、芸詩討伐に活躍した源義経をも追放、最終的に全国を平定しました。1192年には征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開き、その後江戸幕府崩壊までの680年間にわたる武家政権の時代を築きました |
御木本幸吉 |
御木本幸吉は、日本の実業家で、真珠の養殖技術を開発し、真珠産業の基礎をつくりました。世界に絶大なブランド力を誇る御木本真珠店の創業者となり、真珠王と呼ばれました。 |
三橋美智也 |
三橋美智也は、日本の民謡歌手・演歌歌手で、民謡で鍛え上げられた艶やかで伸びのある美声で戦後日本の歌謡史に燦然と輝きました。伸びやかな高音の魅力は今なお絶大な人気を誇っています。彼のヒット曲には、『哀愁列車』『おさらば東京』『古城』『リンゴ村から』『星屑の町』『武田節』『達者でナ』『母恋吹雪』『おんな船頭唄』『あゝ新撰組』『一本刀土俵入り』『お花ちゃん』『夕焼けとんび』『ご機嫌さんよ達者かね』『あの娘が泣いてる波止場』など多数があります。 |
三船久蔵 |
三船久蔵は、日本の柔道家で講道館柔道十段となり、しばしば三船十段と尊称されます。大日本武徳会柔道範士であり、小柄ながら〔空気投げ〕などの新技を編み出し〔名人〕の称を受けました。〔柔道の神様〕と崇められることもあります。 |
三島由紀夫 |
三島由紀夫は、日本の小説家であり、劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者です。戦後の日本文学界を代表する作家の一人で、代表作に小説の『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』、戯曲の『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがあります。晩年には民兵組織〔楯の会〕を結成し、会員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを起こし、切腹して果てました。世間に大きな衝撃を残しました。 |
三波春夫 |
三波春夫は、新潟県三島郡越路町出身の日本の演歌歌手である。彼の歌唱の雰囲気は長編歌謡浪曲と呼ばれる類の歌謡曲で、朗々と歌う姿が印象深い。 |
三木谷浩史 |
三木谷浩史は、兵庫県神戸市出身の実業家である。楽天株式会社の創業者で代表取締役会長兼社長、コボ社取締役、楽天ブックス会長など多くの企業の会長などを務めている。 |
水戸黄門 |
徳川光圀は、水戸藩初代藩主徳川頼房の三男であり徳川家康の孫に当たり、水戸藩2代目藩主。『水戸黄門』として知られる。藩主時代、寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地探検などを行う。儒学を奨励、彰考館を設け『大日本史』を編纂した。この書物編纂のために家臣を諸国に派遣したり、隠居後に水戸藩内を巡視したなどから、後世の『水戸黄門漫遊記』と呼ばれる逸話の主となった。 |
水木しげる |
水木しげるは、鳥取県境港市出身の漫画家である。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさに可愛がられ、彼女が語り聞かせた妖怪話の強い影響を受けたという。 |
水野忠邦 |
水野忠邦は、江戸時代後期の大名で老中職を務めた。いわゆる賄賂作戦で幕府の重臣にまで上り詰めた人物である。将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年に大坂城代となり、西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。最終的には本丸老中、勝手御用掛を兼ねて老中首座となった。 |
都はるみ |
都はるみは、日本の歌謡界を代表する女性演歌歌手である。幼少時より芸能好きの母親から浪曲と民謡の特訓を受け育ち、繊細で唸るようなこぶし回しという特有な歌唱法を身につけた。 |
南方熊楠 |
南方熊楠は、日本の博物学者、生物学者、民俗学者である。彼は18言語を操り〔歩く百科事典〕と称されるほどの特異な人物であった。その言動は奇抜で人並み外れていたため多くの逸話を残している。 |
美空ひばり |
昭和の歌謡界を代表する日本の歌手で女優。女性として初の国民栄誉賞を受賞。代表曲に『柔』『川の流れのように』『悲しい酒』『真赤な太陽』『リンゴ追分』『みだれ髪』『港町十三番地』など多数がある。 |
向井千秋 |
向井千秋は、群馬県館林市出身で日本人女性初の宇宙飛行士である。彼女は慶應義塾大学医学部卒、医学博士、外科医である。1985年8月10日、NASAより宇宙飛行士3人の発表があり、向井は、実験担当のペイロードスペシャリスト(PS:搭乗科学技術者)に任命された。 |
紫式部 |
平安時代中期の女性作家で歌人で、『源氏物語』の作者とされる。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選している。 |
室生犀星 |
室生犀星は、石川県金沢市生まれの詩人で小説家である。彼は私生児として生まれ、生後間もなく生家近くの真言宗寺院に引き取られ、実の両親に会ううこともなく成長した。 |
村岡花子 |
村岡花子は、誕生名を安中はなという日本の翻訳家で児童文学者である。児童文学の翻訳を得意とし、『赤毛のアン』の翻訳で知られる。 |
村山定男 |
村山定男は、東京府出身の天文学者である。火星の観測や、隕石の研究を専門分野としていた。小惑星3220番の〔村山〕は、彼に因んで命名されている。 |
村上鬼城 |
村上鬼城は、日本の俳人え司法代書人でもある。鳥取藩士、小原平之進の長男として生まれる。11歳の時に母方の村上家の養子となり村上姓を名乗るようになる。 |
村上春樹 |
村上春樹は、京都府京都市伏見区生まれで、現代の日本を代表する小説家でありアメリカ文学翻訳家でもある。早稲田大学第一文学部演劇科卒業後、1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞し作家デビューを果たした。 |
村田清風 |
村田清風は、長門国大津郡三隅村沢江生まれの武士で長州藩士家老である。藩校明倫館で優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となる。その後、藩主毛利斉房の小姓として仕え、斉房から5代毛利敬親の代まで藩の要職を歴任する。 |
村田英雄 |
村田英雄は、演歌歌手であり俳優である。浪曲師雲井式部一座の浪曲師であった両親から生まれ、幼少時4歳にして浪曲師の卵となり、『中山安兵衛婿入り』で初舞台を踏んでいる。 |
棟方志功 |
棟方志功は、青森県出身の板画家であり、20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人とされる。彼は版画を「板画」と称し木版の特徴を生かす作品を作成している。 |
武者小路実篤 |
武者小路実篤は、日本の小説家であり詩人・劇作家・画家でもある。学習院高等学科卒業後、1906年に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学、翌年には同級生の志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。更に翌1908年、回覧雑誌『望野』を創刊、1910年には文学雑誌『白樺』を創刊し、白樺派を名乗った。 |
陸奥宗光 |
陸奥宗光は、日本の政治家であり外交官、武士(紀州藩藩士)である。明治初期の版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えたとされ、伊藤内閣の外務大臣時、不平等条約の改正に辣腕を振るったことでも知られる。 |
明治天皇 |
明治天皇は、は、日本の第122代天皇です。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者と仰がれ、江戸時代の終焉にともなう明治時代の日本を指導しました。戦前・戦中においては〔明治大帝〕や〔明治聖帝〕〔睦仁大帝〕とも称されていました。 |
最上義光 |
最上義光は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名で最上氏第11代当主で、出羽山形藩の初代藩主である。伊達政宗の伯父にあたり、関ヶ原の戦いでは東軍で戦い、最上家を57万石の大大名に成長させた。 |
森鴎外 |
森鴎外は、石見国津和野出身の明治・大正期の小説家であり評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚である。大学卒業後、陸軍軍医になり陸軍省派遣留学生としてドイツに4年間留学した。帰国後には小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表、文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動を始めた。 |
森田昭夫 |
盛田昭夫は、日本の技術者、実業家である。大阪帝国大学理学部物理学科卒業し、太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に戦時科学技術研究会で後に盟友となる井深大と知り合う。終戦後の1946年年(昭和21年)に、井深大らとソニーの前身となる東京通信工業株式会社を設立して取締役に就任した。 |
本居宣長 |
本居宣長は、江戸時代の国学者・文献学者・医師である。自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに〔国学の四大人(しうし)〕の一人と称されている。 |
毛利元就 |
毛利元就は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名である。 |
毛利衛 |
毛利衛は、北海道出身の宇宙飛行士で、専門は真空表面科学、核融合炉壁材料、宇宙実験である。1992年には、スペースシャトルエンデバー号にペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として搭乗した。更に2002年には二度目の宇宙飛行に参加した。ミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)として、レーダーによる地球地形の精密な観測を行った。 |
やなせたかし |
やなせたかしは、日本の漫画家で絵本作家、詩人である。官立旧制東京高等工芸学校図案科卒業後、田辺製薬で働いていたが、戦時中は日中戦争に出征したり、陸軍軍曹として暗号の解読に携わった経験がある。 |
山岡鉄舟 |
山岡鉄舟は、幕末から明治時代の幕臣であり政治家、思想家である。剣・禅・書の達人としても知られる。明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。 |
山下清 |
山下清は、日本中を放浪しながら絵画を描いたことで知られる日本の画家である。山下清は、幼少時に重篤な消化不良で生命の危機にあい、その後遺症として軽い言語障害や知的障害を受けることになった。 |
山中伸弥 |
山中伸弥は、1993年大阪市立大学大学院医学研究科修了、医学博士である日本の医学者であり〔iPS細胞〕の発明者として知られる天才である。京都市名誉市民、東大阪市名誉市民などの称号が与えられている。 |
山田耕筰 |
山田耕筰は、日本の作曲家で指揮者で、山田耕作とも書かれる。日本初の管弦楽団を造るなど日本における西洋音楽の普及に努めた。国際的な音楽家で、日本だけでなく欧米でもよく知られている。 |
山田風太郎 |
山田風太郎は、日本の小説家である。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人とされ、伝奇小説、推理小説、時代小説の三分野で非常に多くの作品を残した。 |
山田方谷 |
山田方谷は、幕末期の儒家で陽明学者である。陽明学と朱子学を学び、それぞれの利点と欠点を会得したとされる。 |
山本五十六 |
日本の海軍軍人で第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。1943年、前線視察の際、日本軍の暗号を分析・解読した米軍機により攻撃されブーゲンビル島上空で戦死した。米軍が解読した暗号電報は「武蔵」から発信された電文であった。 |
山縣有朋 |
山縣有朋は、日本の武士、長州藩士であり陸軍軍人、政治家である。内務大臣、内閣総理大臣、元老、司法大臣、枢密院議長、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長、陸軍大将などを歴任した。 |
八木秀次 |
八木秀次は、日本の電気工学者で実業家である。通称、八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。この発明により〔八木アンテナ社〕を創業し初代社長となった。八木アンテナは現在でもTV受信用アンテナとして使用されている。 |
柳田国男 |
柳田國男は、日本の民俗学者である。日本民俗学の開拓者で、現在の兵庫県神崎郡福崎町の医者の家に出生した。民俗学の多数の著作があり現在でも愛読される。 |
湯川秀樹 |
湯川秀樹は、京都府京都市出身の日本の理論物理学者である。1935年に、原子核内部では、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子が存在すべきだと理論的に予言した。 |
由井正雪 |
由井正雪は、江戸時代前期の日本の軍学者である。由井正雪は17歳にして江戸の親類のもとに奉公へ出るが、楠木正成の子孫を称する軍学者の楠木正辰の弟子となり、その娘と結婚して婿養子となる。そして、神田連雀町で楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。 |
横井庄一 |
横井庄一は、日本の陸軍軍人であり評論家である。彼の最終階級は陸軍軍曹であり、勲七等青色桐葉章の栄典を授与されている。戦時中、グアム島で戦っていたが太平洋戦争の終結を知らず、終戦から28年目に、アメリカ領グアム島において地元猟師により発見された残留日本兵である。 |
横溝正史 |
横溝正史は、現在の兵庫県神戸市中央区東川崎町生まれの日本の小説家で推理作家である。大正9年、神戸二中を卒業後、第一銀行神戸支店に勤務したが、翌年に雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』が入選作となった。 |
吉川英治 |
吉川英治は、神奈川県生まれの日本の小説家である。幅広い読者層を有したことから「国民文学作家」といわれる作家である。 |
吉村作治 |
吉村作治は日本の工学博士であり考古学者、早稲田大学名誉教授である。サイバー大学客員教授、東日本国際大学専任教授副学長などを歴任した。日本でのエジプト考古学の第一人者であり、衛星写真分析などを駆使するハイテク技術により遺跡発掘を行う手法を用いて活躍している。 |
吉田兼好 |
吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人であり遁世者、歌人、随筆家である。出家したことから兼好法師とも呼ばれる。 |
吉田松陰 |
幕末の思想家。日本の武士・長州藩士・思想家・教育者・兵学者・地域研究家。一君万民論で、「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と唱え、国家は天皇が支配するものとした。万民は天皇の下に平等であるが、万民は天皇のために死に物狂いで尽くさなければならないと説いた。これは幕府の権威を否定する過激な思想であった。 |
吉田正 |
吉田正は、茨城県日立市出身の国民歌謡作曲家であり、生涯にわたって作曲を続け作曲数は2400曲を越えるとされる。 |
吉田茂 |
日本の外交官・政治家で、第45・48~51代総理大臣、多くの大臣議席などを歴任した。第二次大戦後の混乱期に日本の政治を指導し、戦後日本の礎を築いた。1953年2月28日の衆議院予算委員会において、吉田茂首相は社会党右派の西村栄一議員に対して「バカヤロー」との暴言を吐き、3月14日の衆議院解散となった。この解散は俗に「バカヤロー解散」と呼ばれる。 |
与謝野晶子 |
日本の歌人・作家・思想家で、夫は与謝野鉄幹であり、共に文化学院創設。1901年、女性が性愛をあからさまに表現するなどあり得ない時代に、官能をおおらかに詠いあげるような情熱的作品が多い歌集『みだれ髪』を発表した。日露戦争期には、『君死にたまふことなかれ』を歌っている。『源氏物語』の現代語訳でも知られている。 |
与謝蕪村 |
与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津国東成郡毛馬村で出生の江戸時代中期の日本の俳人であり画家である。摂津国東成郡毛馬村は現在の大阪市都島区毛馬町だが、それ以上の詳しい出自は分かっていない。 |
頼山陽 |
頼山陽は、江戸時代後期の歴史家であり思想家、漢詩人、文人でもある。頼山陽もまた幼少時より詩文の才能を発揮し歴史に深い興味を抱いた。突如脱藩を企てたりして一時的に廃嫡のうえ蟄居幽閉されたが、その間、学問に専念することとなり、彼の名を世に残すことになる著作『日本外史』を著わした。簡明な記述と情熱的な文章で幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えた。 |
力道山 |
力道山は、日本のプロレスラーである。もともとは大相撲の力士出身で、戦後の日本のプロレス界の礎を築き、プロレス界に燦然と輝いたレスラーで、日本プロレス界の父と呼ばれている。その時代、日本ではTV放送がようやく民間でも見られるようになった時代で、ラジオ屋さんの店頭には大勢の人が集まりプロレスを観戦したものである。 |
李香蘭 |
李香蘭は、戦時中の中国と満州国、日本、そして戦後の香港で俳優・歌手として活躍した日本人である。終戦後には山口淑子の芸名で芸能活動を再開し日本や米国、香港で活躍した。 |
良寛 |
良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶であり歌人、漢詩人、書家です。良寛は、全国各地で天災・凶作・悪疫のために餓死者が多発、米騒動が頻発したのを目のあたりにして、人間の救いを求めて出家します。
『散る桜 残る桜も 散る桜』 |
留守政景 |
留守政景は、伊達晴宗の三男、伊達政景として誕生し、父親である晴宗の政略により、奥州の名族である留守氏の養子となり留守政景と名乗りました。戦国時代~江戸時代初期の武将であり、留守氏第18代当主となり、実家である伊達家の勢力拡大に貢献しました。 |
冷泉為相 |
冷泉為相は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿であり歌人です。所領をめぐる争いがあり鎌倉幕府に訴えるなどした際、鎌倉における歌壇を指導し「藤ヶ谷式目」を作るなど鎌倉連歌の発展に貢献したという。『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。 |
蓮如 |
蓮如は室町時代の浄土真宗の僧侶で本願寺第8世です。本願寺中興の祖と呼ばれ、蓮如上人と尊称されることも多い人です。その時代、本願寺は親鸞直系の寺院ながら衰退著しく滅亡寸前だったのを、蓮如が再興し現在の本願寺教団の礎を築きました。 |
魯山人 |
魯山人は、日本の芸術家で、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていました。多くの分野で活躍した中でも、美食家としての腕前は格別で、日本の料理史に名を残しました。 |
渡部潤一 |
渡部潤一は、日本の天文学者で太陽系天文学を専門とする理学博士であうる。国立天文台副台長、総合研究大学院大学物理科学研究科天文科学専攻教授を歴任している。2006年、国際天文学連合の「惑星の定義委員会」が冥王星を惑星から除外する決定を下した時の最終メンバーの1人となった。 |
渡辺崋山 |
渡辺崋山は、江戸時代後期、三河国田原藩の藩士の武士であり画家である。後に家老職をしている。崋山の幼年期は藩士の生まれとはいえ極貧に喘ぐものであり、日々の食事にも事欠き有様だったという。 |
ヲノサトル |
ヲノサトルは、秋田県出身の作曲家でミュージシャンである。東京学芸大学大学院修了後、現代音楽作曲家として活動を開始した。 |