源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟であり、平安時代末期の武将である。仮名は九郎、実名は義經という。河内源氏の源義朝の九男で、幼名を牛若丸と呼ばれた。 兄・頼朝が平氏打倒の挙兵すると参戦し、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅亡させる。その後、頼朝の許可なく官位を得たりして逆鱗に触れ、逃亡先の藤原泰衡のもとで追い詰められ衣川館で自刃する。この悲劇の故に、多くの伝説や物語が残っている。
◆〔源義経〕のプロフィール。
〔通称〕 ・源 義経(みなもと の よしつね)
〔本名〕 ・源 義経(みなもと の よしつね) ・源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である。
〔実名〕義經(義経) 〔改名〕牛若、遮那王、義經、義行、義顕 〔別名〕九郎、判官、廷尉、豫州(仮名)
〔栄典〕 ・従五位下 ・左衛門尉 ・検非違使 ・伊予守
〔時代〕 ・平安時代末期~鎌倉時代初期
〔生誕〕平治元年(1159年) 〔生誕地〕日本
〔死没〕文治5年閏4月30日(1189年6月15日)(享年31歳没) 〔没地〕岩手県平泉町 衣川館で自刃 〔戒名〕捐館通山源公大居士 〔墓所〕 ・宮城県栗原市判官森(伝胴塚) ・神奈川県藤沢市白旗神社(伝首塚)
〔職業〕 ・平安時代末期の武将
〔ジャンル〕 ・平家滅亡 ・鎌倉幕府
〔氏族〕 ・清和源氏為義流(河内源氏)
〔業績〕 ・平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。 ・治承・寿永の乱で、異母兄の源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、それに馳せ参じて、一ノ谷の合戦、そして屋島、壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させる最大の功労者となった。 ・しかし、その後、頼朝の許可を得ることなく、官位を得たことで頼朝の逆鱗に触れ、藤原泰衡を頼って逃亡するが、遂には追い詰められ衣川館で自刃して果てる。 ・実の兄弟に打ち滅ぼされた悲劇は、人々の同情をかい、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説や物語を残すこととなる。
〔源義経の名言〕
・