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〔日本の偉人〕

〔け〕で始まる日本の偉人

 

 古来より現代に至るまで日本にも何人かの〔け〕で始まる偉人がいて、彼らはそれなりの業績を残し、日本の文化の変革に大きく寄与しました。

継体天皇 桂昌院 月照 顕如
建礼門院 建春門院 剱持松二


 建礼門院とは平徳子の院号である。父を平清盛、母を平時子として生まれたのが平徳子で、彼女は高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだ。壇ノ浦の戦いで安徳天皇は入水し死去するが、徳子は助けられ京へ送還されて出家する。

 継体天皇は、日本の第26代天皇であり、在位は継体天皇元年2月4日(507年)~継体天皇25年2月7日(531年)でした。


 現在の皇室の初代天皇は、継体天皇であるとの議論が盛んであり、それ以前のヤマト王権の支配者たちとの血縁関係は定かではないとされています。

 継体天皇には、数多くの呼び名が残されています。

 『日本書紀』では男大迹王とあり別名で彦太尊、『古事記』では袁本杼命と記され、『筑後国風土記』では逸文に雄大迹天皇、『上宮記』逸文に乎富等大公王と記されるなどしています。



〔け〕で始まる偉人概要

〔け〕で始まる偉人概要の説明。

継体天皇

 継体天皇は、日本の第26代天皇で、在位は継体天皇元年2月4日(450年?)~同25年2月7日(531年3月10日?)である。

 『古事記』や『日本書紀』の記述によれば、継体天皇は応神天皇5世の子孫とされ、近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、母の故郷である越前国高向で育てられ、男大迹王として5世紀末の越前地方を統治していた。

 現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が存在し、それ以前のヤマト王権との血縁関係については定かではない。

桂昌院

 桂昌院は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母であり、通称〔お玉の方〕と称される。

 桂昌院の生まれ、育ちは、低い身分の出身だったとされている。西陣織屋の娘とか畳屋の娘、あるいは八百屋の娘などとされているが、定かではない。

 寛永16年(1639年)に家光の側室であるお万の方に仕え、家光に見初められて側室となる。正保3年(1646年)に綱吉を産んでいる。

月照

 月照は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶である。月照は、文化10(1813)年、大阪の町医者の家に生まれ、叔父のつてで京都の清水寺成就院に入り、やがて成就院の住職になる。尊皇攘夷に傾倒し、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派となったため、大老井伊直弼から危険人物と見なされた。

 安政5(1858)年に始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷隆盛と薩摩藩に逃れたが、薩摩藩からは厄介者扱いで保護を拒否される。月照は西郷とともに入水し死去した。西郷は命を取りとめた。

顕如

 顕如は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧である。武将織田信長の宿敵として知られ、信長を仏敵と定め決戦を挑んだ。

 顕如は天文12(1543)年、本願寺第十世証如の長子として誕生まれ、12歳にして本願寺を継職し教団を運営し、教団の最盛期を築いた。圧倒的な差のある軍事力しかなかったが、調略により信長打倒包囲網を結成して10年以上もの間信長に抵抗した。世にいう一向一揆である。顕如の死後には、秀吉や家康にも絡む多くの成り行きがあり、本願寺は西本願寺と東本願寺に分かれ、現在に至っている。

建礼門院

 平徳子は、父を平清盛、母を平時子との間に生まれた。高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んでいる。平徳子は、安徳天皇が即位すると国母となる。建礼門院とは平徳子の院号である。

 平清盛と安徳天皇が没すると、木曽義仲軍に都を追われ、有名な壇ノ浦の戦いで安徳天皇と時子は入水し安徳天皇は死去し平家は滅亡する。徳子は助けられ京へ送還されて出家する。大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。

建春門院

 平滋子は、後白河天皇の譲位後の妃であり、高倉天皇の生母である。建春門院とは平滋子の院号である。

 平滋子は、康治元年(1142年)に生まれ、平正盛の娘・政子(若狭局)に養育され、鳥羽法皇の娘・上西門院に女房として仕えた。聡明で美貌を誇り、後白河天皇に見初められ寵愛を受ける。

剱持松二

 剱持松二は、東京都出身の将棋棋士である。若手棋士に度々勝ってしまう事があり、〔若手潰し〕との異名もある。その人柄から、大山康晴からも升田幸三からもかわいがられた。2000年に引退したが、引退棋士昇段規定により2013年に九段に昇段した。

 1961年度は東西対抗勝継戦で優勝、1962年・1963年には順位戦連続昇級して現役プロとしてのピークを迎えた。逸話として、1988年度の順位戦C級1組で、直後に竜王位を獲得する羽生善治に勝ち、結果として頭ハネで昇級を阻止したという。