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〔日本の偉人〕

〔ふ〕で始まる日本の偉人



 古来より現代に至るまで日本にも〔ふ〕で始まる多くの偉人がいる。彼らは偉大な業績を残し、日本の文化の変革に大きく貢献した。

フランク永井 福田赳夫 藤原定家 藤原不比等
藤原鎌足 藤原啓 藤子不二雄 藤城清治
藤沢周平 蕗谷虹児 福井謙一 福沢諭吉

 福澤諭吉は、日本の武士であり蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者でもある。慶應義塾を創設し専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。



 福沢之木は、これらの業績により、明治六大教育家として知られている。また、1984年からは彼の肖像が一万円紙幣の表面に採用されている。

 蕗谷虹児は、大正~昭和時代の挿絵画家であり詩人である。誕生は明治31年で、尾竹竹坡(ちくは)に日本画を学び、後に竹久夢二の紹介により『少女画報』に連載された『花物語』の挿絵を担当したのを最初に、それ以降は少女雑誌や婦人雑誌の挿絵を描いた。また、抒情詩や小説も発表していて、童謡の『花嫁人形』の作詞で知られている。


 藤沢周平は、山形県鶴岡市出身の日本の小説家である。江戸時代の下級武士層や庶民層の機微や哀歓を描く小説が得意でした。特に〔海坂藩(うなさかはん)〕という架空の藩を舞台にして多くの作品を残した。

 代表作には 『暗殺の年輪』 や 『海鳴り』 『白き瓶』 『蝉しぐれ』 などがある。また、オール讀物新人賞や直木三十五賞、吉川英治文学賞など多くの文学賞を受賞している。



〔ふ〕で始まる偉人概要

〔ふ〕で始まる偉人概要の説明。

フランク永井

 フランク永井は、昭和時代中期を代表するムード歌謡歌手である。当時の歌謡は、流行歌と呼ばれた時代だったが、フランクは、独特の低音の魅力で視聴者を魅惑し、当時の歌謡界に極めて大きな足跡を残した。

 幼少時に父親を亡くしたが、裕福な母親のもとで育てられた。母親は映画館を経営していたので、頃から歌手への強い憧れを抱いていたといわれる。戦後の混乱期に上京しアメリカ進駐軍キャンプ地でトレーラーの運転手などしながら、アメリカ軍のクラブ歌手として小遣い稼ぎをしていた。「素人のど自慢」年間ベストワンを獲得して歌手となる。

 フランク永井のヒット曲には、『西銀座駅前』『東京午前三時』『有楽町で逢いましょう』『君恋し』『羽田発7時50分』『おまえに』『霧子のタンゴ』『夜霧に消えたチャコ』『夜霧の第二国道』『俺は淋しいんだ』『東京ナイト・クラブ』など多数がある。彼に魅了された隠れファンは、今なお多数存在し、カラオケでは必ず誰かが歌うほどである。

福田赳夫

 福田赳夫は、明治38年(1905年)群馬県群馬郡金古町足門出身の大蔵官僚であり政治家である。幼少時より神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業、第一高校を経て東京帝国大学法学部へ進学した。

 衆議院議員、農林大臣、大蔵大臣、外務大臣、行政管理庁長官、経済企画庁長官、内閣総理大臣などを歴任した。昭和52年(1977年)に起きたダッカ日航機ハイジャック事件において「人命は地球より重い」という言葉を残して、人質解放のために身代金の支払いに応じた。人質は救出したが、テロリストの脅迫に屈したとして国際的批判を甘んじた。その後、日中平和友好条約の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行い、アジア開発銀行の設立や福田ドクトリンへと結実した。

藤原定家

 藤原定家は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家であり歌人である。激動の時代に生きながら、藤原氏一族の御子左家の歌道の絶対的地位を確立した。  18歳~74歳までの56年間、克明な日記『明月記』を残している。安倍晴明一族が克明に観察し伝承された〔かに星雲〕での超新星爆発を記録していて、近年天文学における貴重な資料となっている。孫の一人、冷泉為相は現存する冷泉家の始祖となる。

藤原不比等

 藤原不比等は、斉明天皇5年(659年)生まれの、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿である。不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜わり藤原氏の始祖となった藤原鎌足の次男である。

 文武天皇2年(698年)以降、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くようになる。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。大宝律令の編纂に関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に施行を前に病死した。

 それ以外の鎌足の子孫は鎌足の元の性である中臣中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを行うこととなった。

藤原鎌足

 藤原鎌足は、生前には中臣鎌足と呼ばれた飛鳥時代の政治家であり、日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖として知られる。鎌足は、後に天智天皇となる中大兄皇子の腹心として活躍した大化の改新における中心人物である。

 彼は、元々は中臣氏の出身であり、初期には中臣鎌子と名乗っていたが、後に中臣鎌足に改名した。彼の臨終に際し、大織冠とともに藤原姓を賜っている。これが、藤原氏の始祖とされる所以である。

 このため、生存中の彼は中臣鎌足であり、死後の彼を指す場合には藤原鎌足と呼ぶ。『藤氏家伝』には、彼を称して「偉雅、風姿特秀」と記されているという。

藤原啓

 藤原啓は、明治32年(1899年)岡山県備前市穂浪に生まれた日本の陶芸家である。1970年に人間国宝に認定された。少年期から俳句や小説の才を発揮し、1915年に『文学世界』に応募した短編が1等を獲得する。

 その後、『文学世界』の編集者などを経て、一時は作家を目指すが、1937年には自分の文学才能に見切りをつけ、翌年には40歳にして三村梅景に師事し備前陶芸の道を歩み始める。1970年、重要無形文化財「備前焼」保持者に認定され、1972年、勲四等旭日章を受章した。

藤子不二雄

 藤子不二雄は、日本の漫画家ユニットである。本名では、藤本弘と安孫子素雄という二人の漫画家がコンビを組み、結成したユニットである。どちらが描いた作品でも作者としては「藤子不二雄」のペンネームを用いていた。

 しかし、互いの作風に変化もあり、ユニットを解消した後は、「藤本→藤子・F・不二雄」と「安孫子→藤子不二雄(〇内にAを書く)」のペンネームを用いている。

 代表作には、『オバケのQ太郎』(共作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)など多数がある。

藤城清治

 藤城清治は、大正13年(1924年)東京府生まれの影絵作家である。キャラクター「ケロヨン」の原作者として知られる。藤城は、幼少時より画才を認められ、12歳の時には、仙波均平に水彩画、エッチング、油絵の指導を受ける。また、慶應の児童文化研究会にて人形劇と出会っている。昭和19年には海軍予備学生になり、翌年には少尉任官する。指人形を使い慰問演芸会を行ったという。

 昭和21年(1946年)に小澤愛圀より人形劇・影絵の手ほどきを受ける。その後、人形劇と影絵の劇場「ジュヌ・パントル(後に木馬座)」を結成し、活躍を始める。『暮らしの手帖』で長期にわたる影絵連載開始をしたほか、多くの絵本や作品を出している。

藤沢周平

 藤沢周平は、山形県鶴岡市出身の日本の小説家である。江戸時代の下級武士層や庶民層の機微や哀歓を描く小説が得意であった。特に〔海坂藩(うなさかはん)〕という架空の藩を舞台にして多くの作品を残している。

 代表作には『暗殺の年輪』や『海鳴り』『白き瓶』『蝉しぐれ』などがある。また、オール讀物新人賞や直木三十五賞、吉川英治文学賞など多くの文学賞を受賞している。

蕗谷紅児

 蕗谷虹児は、大正~昭和時代の挿絵画家であり詩人である。誕生は明治31年で、尾竹竹坡(ちくは)に日本画を学び、後に竹久夢二の紹介により『少女画報』に連載された『花物語』の挿絵を担当したのを最初に、それ以降は少女雑誌や婦人雑誌の挿絵を描いた。

 抒情詩や小説も発表していて、童謡の『花嫁人形』の作詞をして知られている。

福井謙一

 福井謙一は、明治51年(1918年)奈良県生駒郡平城村生まれの日本の化学者である。1941年、京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、その後も京都大学工学部燃料化学科教授などを経て、1980年には京都大学を退官し京都大学名誉教授となっている。

 1952年に、〔フロンティア軌道理論〕を発表して世界の化学界に大きな衝撃を与えた。この理論は、フロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相により分子の反応性が支配されることを解明した理論である。この業績により1981年にノーベル化学賞を受賞した。

福沢諭吉

 福澤諭吉は、日本の武士であり蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者でもある。慶應義塾を創設し専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。

 これらの業績により、明治六大教育家として知られている。また、1984年からは彼の肖像が一万円紙幣の表面に採用されている。