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〔日本の偉人〕

〔さ〕で始まる日本の偉人

 

 古来より現代に至るまで日本にも多くの〔さ〕で始まる偉人がいて、彼らは偉大な業績を残し、日本の文化の変革に大きく寄与しました。

サトウ八チロー 佐久間象山 佐藤栄作
佐藤春夫 佐藤勝彦 坂上田村麻呂 坂田昌一
坂本竜馬 最澄 真田幸村 西条八十

 佐久間象山は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家です。若年期に経学と数学を熱心に学び、天保4年に江戸で朱子学を学びました。



 私塾「象山書院」を開き儒学を教えるなど幾多のエピソードがあります。折しも来航したペリー艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て失敗すると松代での蟄居を余儀なくされます。元治元年、一橋慶喜に招かれ上洛し公武合体論と開国論を説いたが、不逞の輩の手にかかり暗殺されました。

 これらの人たちの他にも、坂口安吾や坂口謹一郎、西園寺公望、西郷隆盛、斉藤茂吉などの偉人がいます。



〔さ〕で始まる偉人概要

〔さ〕で始まる偉人概要の説明。

サトウハチロー

 サトウハチローは、東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町出身の日本の詩人・童謡作詞家・作家である。戦後一世を風靡した『リンゴの唄』の作詞者としてよく知られている。

 無数の抒情的作風の詩が多く、中でも母親への思慕の詩を多く残したが、実生活ではいわゆる不良少年で、放蕩生活、奇行が多かったという。野球少年だったことで高校野球やプロ野球に造詣が深い。父親とはそりが悪く、中学時代は、落第や勘当、留置場入りをしたという。

 後に、西條八十に弟子入りして童謡を作り始め、数々の雑誌や読売新聞などに掲載されるようになる。戦後初めての映画『そよかぜ』の挿入歌として『リンゴの唄』を作詞し、並木路子が歌って一世を風靡した。

佐久間象山

 佐久間象山は、江戸時代後期の松代藩の下級武士出身の兵学者・朱子学者・思想家である。若年期に経学と数学を熱心に学んだとされ、これが彼の洋学吸収に大きく益したとされる。

 天保4(1833)年、江戸に出て儒学の第一人者・佐藤一斎に師事して、詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に〔二傑〕と称されるにほどになる。天保10(1839)年、江戸で私塾〔象山書院〕を開き儒学を教えていたが、象山が仕える松代藩主が海防掛になったことで、兵学を学ぶことになった。

 象山は、西洋兵学を習得し『海防八策』を献上、大砲の鋳造にも成功して名を挙げた。しかし、嘉永7(1854)年、再来航したペリー艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て失敗した際、連座して入獄、更に蟄居することとなる。10年後、一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、尊王攘夷派の志士により暗殺される。

佐藤栄作

 日本の鉄道官僚・政治家。第61~63代総理大臣・内閣官房長官・衆議院議員・郵政大臣・電気通信大臣・建設大臣・北海道開発庁長官・大蔵大臣・通商産業大臣・科学技術庁長官などを歴任。ノーベル平和賞を受賞している。1967年12月11日の衆議院予算委員会の答弁において、非核三原則「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」を表明したことで知られる。

佐藤春夫

 佐藤春夫は、和歌山県東牟婁郡新宮町出身の近代日本の詩人・作家であり、明治末期から昭和まで活躍した。彼の活動分野は多岐にわたり、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌全域に及んでいる。『三田文学』に才気あふれる詩文を発表している。

 中学校在学中に、校友会誌や新聞へ短歌や詩を投稿して選に入っている。明治42年には『スバル』創刊号に短歌を発表した。後には絵画もするようになり、第二回「二科展」に『自画像』と『静物』の二点が入選している。代表作品に『殉情詩集』、小説『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』などがある。

佐藤勝彦

 佐藤勝彦は、香川県坂出市出身の宇宙物理学者で、専門分野は宇宙論である。東京大学名誉教授、日本学士院会員であり、大学共同利用機関法人自然科学研究機構長、明星大学理工学部客員教授を歴任している。

 佐藤は、京都大学理学部に入学し、物理学科及び大学院理学研究科物理学第2専攻天体核物理学研究室で林忠四郎に師事して学んだ。超新星におけるニュートリノの影響を研究するなど、理論物理学の標準理論の研究を天文学分野に応用した研究を推進してきた。

 1981年、アラン・ハーヴェイ・グースとほぼ同時期に、〔インフレーション宇宙論〕を提唱したことで知られる。将来のノーベル賞の有力な候補である。

最澄

 最澄は、近江国滋賀郡古市郷生れの平安時代の僧で、日本の天台宗の開祖である。真偽のほどは確たる証拠がないが、最澄の先祖は古代中国より、応神天皇の時代に日本に渡来したいわれ、後漢孝献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)と称される人物とされている。

 最澄は、宝亀9年(778年)、12歳で近江国分寺で出家して行表の弟子となり、14歳のとき最澄と名乗るようになった。22歳で薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立する。804年、中国明州に留学し天台教学、禅、密教を学ぶ。806年、日本の天台宗を開宗する。

坂口安吾

 坂口安吾は、新潟県新潟市出身で東洋大学印度哲学倫理学科卒業の小説家・評論家・随筆家である。純文学のほか歴史小説や推理小説なども書いている。随筆では時代風俗や古代の歴史におよぶような作品も多く残している。

 戦前から文壇に登場していたが、戦後になって著わした『堕落論』『白痴』により無頼派・新戯作派の作家として一世を風靡した。

 新潟市の海岸に坂口安吾の碑があり、碑文には『ふるさとは 語ることなし 安吾』と彫られている。

坂口謹一郎

 坂口謹一郎は、新潟県高田出身の農芸化学者である。〔酒の博士〕の異名をもち、発酵や醸造に関する研究では世界的権威とされている。日本学士院会員であり、東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長を歴任した。

 東京帝国大学農学部卒業後、助手、講師、助教授を経て、1939年に教授となった。微生物の培養に用いられる坂口フラスコを発明した功績がある。歌人としても有名で、新春歌会始の召人を務めたことがある。

坂上田村麻呂

 坂上田村麻呂は、天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男あるいは三男として出生した平安時代の武官である。中央では近衛府の武官を務め、793年の陸奥国の対蝦夷戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。

 801年には、征夷大将軍として総指揮をとり敵対する蝦夷を制した。その後、胆沢城や志波城を築いている。優れた武人として尊崇され、菅原道真が文であれば、坂上田村麻呂は武の代表的存在として崇められた。

坂田昌一

 坂田昌一は、1911年、東京出身の物理学者であり、湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。坂田学派と呼ばれる多数の弟子を育てたことで知られ、中でも後にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、益川敏英らが有名である。

 1933年、京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、理化学研究所、大阪帝国大学講師、京都帝国大学講師を経て名古屋帝国大学教授となる。1963年、牧二郎・中川昌美と共にニュートリノ振動を予測するポンテコルボ・牧・中川・坂田行列 (PMNS行列) を発表した。

坂本竜馬

 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士である。後の海援隊となる亀山社中を結成。薩長同盟の実現、大政奉還の成立に尽力し倒幕および明治維新成立に貢献した。

坂本冬美

 坂本冬美は、和歌山県西牟婁郡上富田町出身の演歌歌手である。NHKの勝抜き歌謡天国和歌山大会で名人となり、当時審査員をしていた猪俣公章の内弟子となって、1987年に『あばれ太鼓』で歌手デビューを果たした。

 2002年以降、一時膵臓病治療のために休業していたがその後、歌手活動に復帰している。NHK紅白歌合戦には2013年までに通算25回の出場した。彼女の代表曲には『能登はいらんかいね』『火の国の女』『夜桜お七』『あばれ太鼓』『また君に恋してる』などがある。

真田幸村

 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男で、実名は真田信繁である。幸村は戦国乱世時代の最後を飾る英雄として知られ、大阪夏の陣では3500人の兵を引き連れて徳川家康の本陣まで攻め込み家康の苦しめた。その後、史実を基にして、多くの物語が創作され、真田十勇士を従えて奮戦する英雄的武将・真田幸村として広く知られるようになった。

西園寺公望

 西園寺公望は、清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純の次男として出生した、日本の公家であり政治家・教育者である。2歳のとき、清華家の西園寺師季の養子となり家督を相続した。孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳以降は御所に出仕するようになり、後の明治天皇の近習となる。

 戊辰戦争では官軍の方面軍総督となり、フランス留学後には伊藤博文の腹心の部下となり、第1~4次伊藤内閣では毎回入閣している。その後は伊藤の立憲政友会の総裁に就任し、明治39年以降は総理大臣として第1次、第2次西園寺内閣を率いた。大正5年には元老となっている。

西郷隆盛  日本の武士・薩摩藩士・軍人・政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び「維新の三傑」と呼ばれる。維新十傑の1人。上野公園に銅像があり、観光客に親しまれている。

西条八十

 西條八十は、東京府東京市牛込区牛込払方町出身の詩人で作詞家・仏文学者である。西條は、旧制早稲田中学在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぎ文学で身を立てると決心する。中学時代から英語を学び、早稲田大学文学部英文科を卒業する。

 大学在学中に、日夏耿之介らと同人誌『聖盃』を刊行し、1919年には自費出版により第一詩集『砂金』を発表して、象徴詩人として注目される。

 西条八十の作品には、『東京行進曲』『青い山脈』『蘇州夜曲』『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』『王将』などがある。児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡も発表している。

斉藤茂吉

 斎藤茂吉は、山形県南村山郡金瓶出身の歌人であり精神科医である。伊藤左千夫門下で大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物として知られる。茂吉は小学校卒業後、進学する経済的余裕はなかったが、東京浅草の医院に跡継ぎがなくその養子として、15歳で上京し、学業も続け医師となる。

 中学時代に佐佐木信綱の『歌の栞』を読み感動して短歌の世界に入り、自らも創作を始める。正岡子規の歌集を読むと感動し歌人を志して左千夫に弟子入りする。生涯で17冊の歌集を残し、1万8千首ほどの詠んでいる。