通称 |
サトウ ハチロー |
本名 |
佐藤 八郎(さとう はちろう) |
別名 |
〔別名〕(多数)
・陸奥速男 ・山野三郎 ・玉川映二 ・星野貞志
・清水操六 ・清水士郎 ・並木せんざ ・清水洋一郎
・江川真夫 ・熱田房夫 ・倉仲佳人 ・倉仲房雄
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称号 |
〔称号〕
・紫綬褒章受章
・勲三等瑞宝章
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時代 |
明治時代・大正時代・昭和時代 |
生誕 |
〔生誕〕1903年(明治36年)5月23日
〔生誕地〕東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町(現在の東京都新宿区市谷薬王寺町)
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死没 |
〔死没〕1973年(昭和48年)11月13日(70歳没)
〔死没地〕東京都中央区明石町
〔墓所〕雑司ヶ谷霊園
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国籍 |
日本国 |
言語 |
日本語 |
居住地 |
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学歴 |
〔学歴〕
・旧制早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)中退
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職業 |
〔職業〕
・詩人
・童謡作詞家
・歌謡曲作詞家
・作家
〔活動期間〕1919年 - 1973年
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分野 |
〔ジャンル〕
・歌曲(作詞)
・童謡
・歌謡曲
・校歌
・詩集
・随筆
・小説
・小説
・少年少女小説
・ユーモア小説
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所属 |
・同人誌『文党』
・同人誌『銅鑼』
・日本コロムビア専属
・日本作詩家協会会長
・日本童謡協会会長
・日本音楽著作権協会会長
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業績 |
・戦後日本で一世を風靡した「リンゴの唄」の作詞者として知られる。
・童謡や歌謡曲をはじめ、多くの曲の詩を書いた。
・「木曜会」を主宰、月刊誌『木曜手帖』を出した。門下から吉岡治、宮中雲子、名取和彦、若谷和子、安藤晃子、宮田滋子など多くの詩人を輩出した。
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作品 |
〔童謡(作詞)〕
『秋の子』
『お山の杉の子』
『ちいさい秋みつけた』
『かわいいかくれんぼ』
『うれしいひなまつり』
『めんこい仔馬』
『スカンクカンクプー』
『子狸ポポンコの話』
『アイウエオの歌』
『カブトガニの唄』
〔歌謡曲(作詞)〕
『リンゴの唄』
『麗人の唄』
『二人は若い』
『あゝそれなのに』
『うちの女房にゃ髭がある』
『花売り娘』
『ホームラン・ブギ』
『目ン無い千鳥』
『誰かさんと誰かさん』
『勝利の日まで』
『祖国の花』
『ずずんとずずんと』
『黒いパイプ』
『夢淡き東京』
『浅草の唄』
『長崎の鐘』
『エンゼルはいつでも』
『ドラゴンズの歌』
『グラスをのぞくフラミンゴ』
『悲しくてやりきれない』
『泣いて泣いて』
『ありがとう』
『ほんとかしらほんとかしら』
『わが母の姿は』
『明日を祈る』
『なんでこんなに』
〔詩集〕
『爪色の雨』
『いとしき泣きぼくろ』
『僕等の詩集』
『少年詩集』
『少年詩歌集(編著)』
『好きな人のうた』
『友だちの歌』
『おかあさん』
『タムタム・ナムナム』
『生活の唄』
『美しきためいき』
『あすは君たちのもの』
『愛を唄うそ』
『たっけだっけの歌』
『もずが枯木で』
『まっすぐに愛して』
『悲しくもやさしくも』
『おかあさんその後の花束』
『ある日のうた』
『母を唄う』
〔校歌〕(多数、省略)
〔随筆〕(省略)
〔少年少女小説〕(省略)
〔ユーモア小説〕(省略)
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受賞歴 |
〔主な受賞歴〕
・第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞
・レコード大賞童謡賞を受賞
・NHK放送文化賞受賞
・紫綬褒章受章
・勲三等瑞宝章
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名言 |
〔サトウハチローの名言〕
・母という字を書いてごらんなさい
やさしいように見えてむずかしい字です
恰好のとれない字です
やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり
泣きくづれたり・・・・
笑ってしまったり
お母さんにはないしょですが ほんとうです
・一人より
二人
これを これを
忘れたもうな
・頭のいい、勉強のできるヤツは、授業をわざわざ聞きに学校に行かない。だから落第する。スンナリ進級するヤツはバカで勉強のできないヤツばかりだから、学校に行かざるを得ない。
〔余談〕
サトウハチローは19歳のとき、父親の勧めで最初の結婚をする。ハチローの最初の妻は「佐藤くら」といい、父親の再婚相手で女優の三笠万里子の付き人だった。
実は、ハチローは結婚したからといって、おとなしく家庭をきずくような、まともな人間ではなく、いわゆる不良あがりのとんでも青年だったので、放蕩生活を繰り返していた。
ハチローは、女優の歌川るり子や江川蘭子と同時並行的に恋仲になり、世間でも公然の秘密となっていた。そんなとき、都新聞が「蘭子は憂鬱」という見出しの記事を掲載する。
そこには、沈んだ表情の蘭子の写真が掲載され、「ハチローがるり子と新しい所帯を持ったため、蘭子が憂鬱に」と伝えていた。
この記事を見てしまった妻、佐藤くらは、見事な名言を放ったのだった。
「私という本妻がいるのに」
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