その後、家老の小松清廉(帯刀)や、盟友の大久保利通の後押しで復帰を果たし、元治元年(1864年)の禁門の変以降に本領を発揮するようになる。
薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止する。これにより江戸無血開城を実現させた。
その後、明治4年(1871年)に参議として新政府に加わる。その後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。岩倉使節団出発から岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣は以下のように多くの政策を施行した。
・府県の統廃合(3府72県)
・陸軍省・海軍省の設置
・学制の制定
・国立銀行条例公布
・太陽暦の採用
・徴兵令の布告
・キリスト教禁制の高札の撤廃
・地租改正条例の布告
朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されるが、帰国した大久保らと対立することになる。
西郷は、朝鮮へ軍隊を派遣しようとする意見があるが、朝鮮へ即時派兵するのではなく、先ずは使節を派遣すべきだと主張する。一方、大久保はその西郷の主張に対して、使節の派遣は朝鮮との軋轢を生じ、戦争に繋がる怖れがあり、現在の日本の国情を考えるとそれは得策ではない、と反対した。
尚、西郷隆盛の死後になって、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首謀者として定着してしまった。
明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃して果てる。
西南戦争終結後には、官位を剥奪され、賊軍の将として遇された。しかし、西郷の人柄を知る明治天皇の意向や黒田清隆らの努力により明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。また、功により継嗣の寅太郎が侯爵となる。
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