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ほから始まる世界の偉人

〔ほ〕で始まる日本の偉人



 古来より現代に至るまで日本にも〔ほ〕で始まる多くの偉人がいる。彼らは偉大な業績を残し、日本の文化の変革に大きく貢献した。

細井平州 細川ガラシャ 細川たかし 法然
北条時宗 北条政子 北条早雲 堀越二郎
堀江貴文 堀江謙一 堀辰雄 本多光太郎
本田宗一郎 本田美奈子

 法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧侶である。

 阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後は平等に往生できると説いた



 堀越二郎は、生まれながらの天才と銘される日本の航空機技術者であり、戦時中の零戦の設計者として世界にその名を知られている。

 戦後は、新三菱重工業株式会社参与や東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。

 2013年には、宮崎駿製作による映画、堀越二郎のゼロ戦の物語『風立ちぬ』がロードショー上映された。

 本田宗一郎は、日本の技術者であり実業家である。自動車製造会社の本田技研工業(ホンダ)を創業した。

 本多光太郎は、日本の物理学者であり金属工学者(冶金学者)である。鉄鋼および金属の冶金学、材料物性学を世界に先駆けて開発した。

 極めて強力な磁性鋼として世界に知られる〔KS鋼〕や〔新KS鋼〕を発明した。鉄鋼の世界的権威者であり、〔鉄の神様〕とか〔鉄鋼の父〕などと呼ばれている。



〔ほ〕で始まる偉人概要 〔ほ〕で始まる偉人概要の説明。
細井平洲
 細井平洲は、享保13年(1728年)現在の愛知県東海市の農家に生まれた江戸時代の儒学者である。幼少時より学問に親しみ、一時期京都や長崎に遊学する。宝暦元年(1751年)24歳のとき、江戸で私塾、嚶鳴館を開き、武士や町民、農民に学問を広めた。

 宝暦13年(1763年)には後の上杉鷹山の師となる。後に鷹山は米沢藩主として米沢藩の財政再建を成功させた人物である。米沢市の松岬神社に、上杉鷹山と共に祀られている。

細川ガラシャ
 細川ガラシャは、永禄6年(1563年)明智光秀と妻・煕子の間に三女として生まれ、珠と呼ばれた、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性である。細川忠興の正室であり、キリシタンとして知られる。明治期以降、キリスト教徒たちが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれている。

 15歳のとき、父親光秀の主君である織田信長のすすめで細川忠興に嫁ぎ長男、長女をもうけた。しかし、本能寺の変で彼女は「逆臣の娘」となり、忠興は彼女を丹後国に隔離し幽閉する。その後、羽柴秀吉のとりなしで細川家の大坂屋敷に戻され監視された。そのころからキリスト教に惹かれるようになり洗礼を受ける。その後、忠興が徳川家康に従い、上杉征伐に出陣した際、西軍の石田三成に細川屋敷が襲われ、彼女は壮絶な最期を遂げる。

細川たかし
 細川 たかしは、北海道虻田郡真狩村の出身の演歌歌手である。彼は、井沢八郎の『北海の満月』を聴き歌手を目指すようになる。初期には札幌すすきのクラブで歌うところを芸能プロダクションに見いだされた。

 1975年に『心のこり』で歌手デビューし大ヒットとなり、第6回日本歌謡大賞で放送音楽新人賞、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞する。その後は三橋美智也に師事して、1982年以降『北酒場』『矢切の渡し』をヒットさせ人気を得る。

 このほか、細川たかしのヒット曲には、『心のこり』『浪花節だよ人生は』『望郷じょんから』などがある。

法然
 法然は、長承2年(1133年)現在の岡山県久米郡久米南町に生まれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。

 初期には、比叡山で天台宗の教学を学び、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた。後に浄土宗の開祖と仰がれるようになる。浄土宗では、善導を高祖、法然を元祖と崇めている。『選択本願念仏集』を著し、念仏を体系化したことで日本での称名念仏の元祖と称されている。

北条時宗
 北条時宗は、1251年、鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれた、鎌倉時代中期の武将であり政治家である。その時代は、世界帝国を誇ったモンゴル帝国が日本国に圧力を掛ける時代であり、鎌倉幕府第8代執権に就任した。

 内政では得宗権力の強化を図ったが、最大の事態はモンゴル帝国の来襲に対応することであった。二度にわたる元寇の侵攻を受けたが、幸いに発生した台風によりモンゴル軍が壊滅した。後世、この台風は〔神風〕と呼ばれ、時宗は日本の国難を救った英雄と崇められるようになる。

 しかし、神風の名称は、太平洋戦争末期の特攻隊に名付けられた悲しい物語が続く。

北条政子
 北条政子は、保元2年(1157年)伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。頼朝が鎌倉に武家政権を樹立した以降は御台所と呼ばれた。

 頼朝亡きあと、征夷大将軍となった嫡男の頼家、次男の実朝が相次いで暗殺されてしまう。源氏の将軍は3代の源実朝で途絶えることとなる。その後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経が第4代征夷大将軍となるが、その後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称される。

北条早雲
 北条早雲は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将であり、戦国大名となった後北条氏の祖である。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒となった。

 1495年、山内上杉顕定の圧迫を受けた扇谷上杉氏から、その家臣大森藤頼の居城だった相模国小田原城を謀略を使って攻め盗る。1504年、扇谷上杉家への援軍として今川氏親とともに武蔵国に出陣、立河原の戦で、山内上杉顕定に勝利する。

 1516年、三浦氏の救援に駆けつけた上杉朝興に玉縄城を攻められるが撃退し、その勢いに乗り新井城へ退却していた三浦道寸、三浦義意父子を攻め滅亡させ、相模国一国を平定する。

堀越二郎
 堀越二郎は、1903年群馬県藤岡市に生まれた日本の航空技術者である。新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。

 第一高等学校を経て東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業し、現在の三菱重工業に入社する。戦前には複葉機が主流であったが、単葉機の七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機の開発を担当することとなる。

 その後、歴史に残る名機である、いわゆる〔ゼロ戦〕零式艦上戦闘機の設計を行い、世界にその名を轟かせた。ゼロ戦は真珠湾攻撃で大戦果を挙げたほか、太平洋戦争終結までの間、活躍した。

堀江貴文
 堀江貴文は、日本の実業家である。堀江は小学校時代に家にあった百科事典を読み漁り多くの知識を習得したという。そのためか小学校時代は学業成績は優秀であったが、いわゆる優等生ではなかった。彼は、偉人ではなかったかも知れないが、時代の寵児であった。

 小学4年生のころから学習塾に通うようになり、高校時代には当時注目を集め始めたコンピュータに興味を抱き、親から20万円を借金してNECのパソコンPC8801を購入した。

 やがて、アップル関連の仕事などを行うベンチャー企業を経てインターネットに出会い、1996年に、有限会社オン・ザ・エッヂを設立し成長させた。2002年、経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得する。その後、ニッポン放送買収の買収問題など複雑なことがあり、証券取引法違反容疑で有罪となり服役した。

堀江謙一
 堀江謙一は、1938年、大阪市生まれの海洋冒険家(ソロセーラー・ヨットマン)である。コールサイン〔JR3JJE〕を持つアマチュア無線家でもある。1962年、小型ヨット「マーメイド号」により西宮~サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海に成功したことで知られる。

 西宮出港時には、水20リッターと米40kg、缶詰200個を積んで出航したが、航海中は甲板に降った雨水を蓄えてしのいだという。

 その時代、ヨットでの出国は不法であり形としては密出国となった。国内では問題となり身柄を拘束され日本へ強制送還される可能性もあったが、当時のサンフランシスコ市長が「コロンブスもパスポートは省略した」という名言を残し、名誉市民として受け入れたことで、1ヶ月間の米国滞在を認めると報道された。堀江の行動は日本でも偉業として認められることになった。

堀辰雄
 堀辰雄は、明治37年(1904年)、東京府東京市麹町区生まれの日本の小説家である。それまでの日本の小説がとかく私小説的であったものを、西洋流の創作としてのロマン小説という文学形式を確立しようとした作家である。

 堀辰雄のおもな作品には、『風立ちぬ』『冬』『死のかげの谷』『ルウベンスの偽画』『不器用な天使』『聖家族』『燃ゆる頬』『麦藁帽子』『美しい村』『鳥料理』『物語の女』『更級日記など』『ヴェランダにて』『かげろふの日記』『幼年時代』『菜穂子』『曠野』『花を持てる女』『ふるさとびと』『大和路・信濃路』『雪の上の足跡』などがある。

本多光太郎
 本多光太郎は、明治3年(1870年)、愛知県碧海郡矢作町生まれの物理学者、金属工学者(冶金学者)である。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、世界に先駆けて創始した。鉄鋼の世界的権威者であり「鉄の神様」「鉄鋼の父」などと呼ばれる。

 明治30年(1897年)東京帝国大学理科大学物理学科卒業すると、ドイツおよびイギリス留学する。明治44年(1911年)には東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となり、1917年には歴史的な強力磁石であり、当時世界最強の永久磁石鋼となる〔KS鋼〕を発明する。更に昭和9年(1934年)には〔新KS鋼〕を発明した。1951年に文化功労者に選ばれる。

本田宗一郎
 本田宗一郎は、日本の実業家・技術者・本田技研工業の創業者(HONDAの創設者)である。尋常高等小学校を卒業すると自動車修理工場のアート商会へ丁稚奉公に入り、修行して自動車修理と運転技術を体得する。

 その後、暖簾分けしてもらい「アート商会浜松支店」の名で独立する。終戦直後、妻が自転車で買い出しに苦労する姿を見て、自転車にエンジンをつけたら買い出しが楽になると考え、オートバイの研究を始める。

 昭和21年、本田技術研究所設立、旧陸軍無線機用の小型発電機を自転車用補助エンジンに転用して売り出し大ヒットとなる。やがてオートバイ生産に着手し昭和24年にドリームD型を発表する。昭和30年には2輪車生産台数日本一達成する。昭和37年には自動車産業に進出、軽自動車から普通車へと進出して世界に知られるようになる。中でも、低公害のCVCCエンジンにより、アメリカの排ガス規制法、マスキー法規制に世界ではじめて合格する。

本田美奈子
 本田美奈子は、日本の歌手で女優である。2000年代にはクラシックとのクロスオーバーにも挑んだ。歌手を夢見ていた母親の影響で、幼い頃からいつも歌が好きだった。

 中学校時代『スター誕生』のオーディションを受け決勝に進出するもスカウトはされなかった。1983年、少女隊のメンバー探し中のボンド企画スタッフにスカウトされ芸能界に入る。1985年、『殺意のバカンス』でデビューする。

 4枚目のシングル『Temptation(誘惑)』を大ヒットさせ多くの新人賞を獲得した。1990年代以降は主にミュージカルで活動した。2005年1月、急性骨髄性白血病を発病、闘病の末、11月に死去した。38歳だった。