細川ガラシャは、永禄6年(1563年)明智光秀と妻・煕子の間に三女として生まれ、珠と呼ばれた戦国時代から安土桃山時代にかけての女性である。細川忠興の正室であり、キリシタンとして知られる。 |
15歳のとき、父親光秀の主君である織田信長のすすめで細川忠興に嫁ぎ長男、長女をもうけた。 |
細川ガラシャは、永禄6年(1563年)明智光秀と妻・煕子の間に三女として生まれ、珠と呼ばれた戦国時代から安土桃山時代にかけての女性である。細川忠興の正室であり、キリシタンとして知られる。 |
15歳のとき、父親光秀の主君である織田信長のすすめで細川忠興に嫁ぎ長男、長女をもうけた。 |
天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉の取り成しにより、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻した。もともとは禅宗信者だった珠だが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると心を魅かれるようになる。 |
その後も珠は侍女を通じて協会と連絡したり、書物を読んで信仰に励んだ。侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせた。最終的にイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、珠自身も自宅で洗礼を受ける。 「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」 忠興不在の隙に、西軍の石田三成は細川屋敷からガラシャを人質に取ろうとするが、ガラシャはそれを拒絶する。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。ガラシャは少し祈りをささげた後、屋敷内の侍女らを全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ逃がす。キリスト教では自殺は許されないため、ガラシャは家老の小笠原秀清に介錯するよう命じる。秀清はガラシャの胸を長刀で突きさして介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け爆発させ、自らも自刃して果てたのだった。 ガラシャの壮絶な死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡からガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。 忠興はガラシャの死を悲しみ、神父に協会葬を依頼して遺骨を崇禅寺へと改葬した。ガラシャの墓所とされるものが、京都大徳寺塔頭・高桐院や、肥後熊本の泰勝寺などにも存在する。 |
◆〔細川ガラシャ〕のプロフィール。 |