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〔日本の偉人〕

細井平州 (ほそい へいしゅう)

 

 細井平洲は、享保13年(1728年)現在の愛知県東海市の農家に生まれた江戸時代の儒学者である。幼少時より学問に親しみ、一時期京都や長崎に遊学する。

 宝暦元年(1751年)24歳のとき、江戸で私塾、嚶鳴館を開き、武士や町民、農民に学問を広めた。



 宝暦13年(1763年)には後の上杉鷹山の師となる。後に鷹山は米沢藩主として米沢藩の財政再建を成功させた人物である。

 米沢市の松岬神社に、上杉鷹山と共に祀られている。


偉人のプロフィール

〔細井平州〕のプロフィール。

〔細井平州〕

細井平州の肖像・写真 
(出典:東海市HP)
プロフィール
通称 〔通称〕
・細井 平洲(ほそい へいしゅう)

本名 〔本名〕
・細井 平洲(ほそい へいしゅう)

別名 〔本姓〕紀氏
〔号〕平洲または如来山人
〔韓〕徳民
〔通称〕甚三郎
〔字〕世馨

受賞歴
時代 〔時代〕
・江戸時代

生誕 〔生誕〕享保13年6月28日(1728年8月3日)
〔生誕地〕尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市)

死没 〔死没〕享和元年6月29日(1801年8月8日)
〔没地〕江戸尾張藩藩邸
〔墓所〕東京浅草の天獄院

国籍 日本国
言語 日本語
居住地
学歴 〔就学〕
・16歳のとき京都に遊学するが、優れた学者に巡り会えず、失望して帰郷する。

・尾張藩家老竹腰氏の家臣の子である、折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、そのまま師事する

・後に中西の薦めにより延享2年(1745年)に唐音研究のために長崎に遊学する。

職業 〔職業〕
・江戸時代の儒学者

分野 〔ジャンル〕
・儒学

所属 〔所属〕
・折衷学派

〔歴任〕
・宝暦13年、上杉治憲(後の鷹山)の師となる。
・米沢藩の江戸におけるお抱え文学師範就任。
・安永9年、53歳の時、御三家筆頭・尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂の督学(学長)に就任。

業績 〔業績〕
・宝暦元年(1751年)、24歳の時、江戸へ出て私塾、嚶鳴館(おうめいかん)を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を教えた。

・西条藩や人吉藩・紀伊藩・大和郡山藩等の各藩に迎えられ、西条藩からは10人扶持を支給された。

・宝暦13年(1763年)、後に米沢藩主となる上杉治憲(後の上杉鷹山)の師となる。鷹山は米沢藩の財政再建を成功させたことで知られる人物である。米沢藩の藩校興譲館は平洲が命名している。

・安永9年(1780年)、53歳の時、御三家の筆頭・尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂の督学(学長)に就任した。

作品 〔主著〕
 『嚶鳴館遺草』
 『詩経古伝』
 『詩経夷考』

名言 〔細井平洲の名言〕

・勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや。
(米沢藩主になろうとする上杉鷹山に贈った言葉で、その意味は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」ということである。)



サイト
その他  細井平洲は、米沢市の松岬神社に上杉鷹山と共に祀られている。

 平洲の出身地である東海市では、郷土の偉人として敬愛され、平洲小学校や平洲中学校など平洲の名が付く学校や平州記念館などがある。