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〔日本の偉人〕

〔ま〕で始まる日本の偉人



 古来より現代に至るまで日本にも多くの〔ま〕で始まる偉人がいる。彼らは偉大な業績を残し、日本の文化の発展や変革に大きく貢献した。

益川敏英 間宮林蔵 松井秀喜 松下幸之助
松尾芭蕉 松平定信 松本清張 正岡子規
前田青邨


 松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師で、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立した。

 東北、北陸地方を旅して、多くの印象的な俳句を残し、後世では俳聖として世界的にも知られている。紀行文に『おくのほそ道』がある。



〔ま〕で始まる偉人概要

〔ま〕で始まる偉人概要の説明。

益川敏英

 益川敏英は、愛知県名古屋市中川区生まれの理論物理学者で、専門は素粒子理論である。益川敏英は、名古屋大学で坂田昌一研究室に所属し「粒子と共鳴準位の混合効果について」という博士論文で理学博士号を取得した。

 京都大学理学部で助手をしていた時代の1973年に、坂田研究室の後輩である小林誠と共に〔ウィーク・ボゾンとクォークの弱い相互作用に関するカビボ・小林・益川行列〕という概念を発表した。世にいう〔小林・益川理論〕である。2008年、この功績により小林誠とともにノーベル物理学賞を受賞した。

 京都大学名誉教授を授与され、名古屋大学特別教授・素粒子宇宙起源研究機構長、京都大学基礎物理学研究所所長、日本学術会議会員を歴任した。

間宮林蔵

 間宮林蔵は、江戸時代後期の幕府隠密をつとめた役人であり探検家でもある。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」とも呼ばれている。

 間宮は農民の子として生まれたが、当時幕府が行っていた利根川東遷事業に参加し幕臣の村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ幕府の下役人となった。寛政11年、南千島に派遣され伊能忠敬より測量技術を学び、後に西蝦夷地を測量した。

 伊能忠敬が全ての蝦夷地を測量できなかったが、残りを蝦夷地測量は間宮が行い、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図が完成している。

松井秀喜

 松井秀喜は、石川県能美郡根上町出身の元プロ野球選手で外野手である。愛称の「ゴジラ」で知られる選手で日本だけでなく、アメリカメジャーリーグでも大活躍した。

 日本プロ野球時代は読売ジャイアンツ所属で、1990年代から2000年代に最も輝いた長距離打者である。巨人時代の10年間で332本の本塁打を放った。アメリカ、メジャーリーグでは、ニューヨークヤンキースなどいくつかの球団で活躍した。2013年に国民栄誉賞を受賞している。

松下幸之助

 松下幸之助は、日本の実業家で発明家である。現在のパナソニック(旧:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた創設者・経営者として知られる。

松田優作

 山口県下関市生まれの俳優・歌手。刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。その後、東映セントラルフィルム作品や角川映画作品でアクションスターとして人気を得て、演技はとして知られるようになる。卓越した演技力だけでなく、勇敢で人情に厚い人間性にカリスマを発揮した。主演ドラマ『探偵物語』は続く人たちに多くの影響を与えたとされる。アメリカ映画『ブラック・レイン』への出演で念願のハリウッドデビューを飾ったが、がんが発覚、延命治療を拒み病死した。40歳だった。

松尾芭蕉

 江戸時代前期の俳諧師・歌人で蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立。東北、北陸地方を旅して、多くの印象的な俳句を残し、後世では俳聖として世界的にも知られるようになる。紀行文に『おくのほそ道』がある。

松尾和子

 松尾和子は、東京都大田区蒲田に生まれ、箱根で育った女性歌謡曲・演歌歌手である。戦後、ジャズに興味を抱き、あるバンドの専属歌手として進駐軍キャンプやナイトクラブで歌っていた。赤坂のクラブで歌っているところをフランク永井にスカウトされ歌手となった。

 1959年に『グッド・ナイト/東京ナイトクラブ』でレコードデビューを果たし、大ヒットとなり一躍有名となった。彼女のヒット曲には、『再会』『夜がわるい』『お座敷小唄』『再会の朝』『銀座ブルース』『銀座の恋の物語』などがある。

松平定信

 松平定信は、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる、江戸時代中期の大名で老中職を務めた。陸奥白河藩第3代藩主、定綱系久松松平家第9代当主でもある。

 幼少期より聡明であり、いずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたがそれが叶うことはなかった。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民救済のため、自らが倹約に努め、領民への食料救済措置により、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったという。

 天明6年に田沼意次が失脚した後、徳川御三家の推挙により、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となった。祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。やがて失脚するも、定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持された。

松本清張

 松本清張は、日本の小説家である。松本清張の作風は、犯罪を引き起こす動機を重視する推理小説として知られる。

 1953年『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞し、1958年には記念すべき『点と線』『眼の壁』を発表して一躍有名となった。以降、『ゼロの焦点』『砂の器』などの代表作を執筆している。その他の主な作品には『黒い樹海』『波の塔』『わるいやつら』『深層海流』『けものみち』『黒革の手帖』などがある。

正岡子規

 正岡子規は、明治時代を代表する文学者の一人であり俳人、歌人、国語学研究家として知られる。「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句の作者として有名である。俳句や短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面での創作活動により、日本の近代文学に多大な影響を与えたとされる。

前田青邨

 前田青邨は、岐阜県中津川市出身の日本画家である。彼は、歴史画が得意で古来からの大和絵の伝統を引き継いだ武者絵や肖像画、花鳥画の作品も残した。特に鎧兜の精密な描写による武者絵は見事だとされる。

 1955年(昭和30年)には、文化勲章を受章し、院展を代表する画家として活躍した。晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写に代表される文化財保護事業に携わった。弟子の平山郁夫がいる。