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〔福田赳夫〕

 

 福田赳夫は、明治38年(1905年)群馬県群馬郡金古町足門出身の大蔵官僚であり政治家である。幼少時より神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業、第一高校を経て東京帝国大学法学部へ進学した。

 福田赳夫は、幼少時から神童の誉れ高く、東京帝国大学法学部を卒業すると、高等文官試験に一番の成績で合格し、大蔵省に入省し、1年を経ずして、財務官付の役職でロンドンの在英日本大使館に派遣された。


 1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙で群馬三区から無所属で立候補し当選、岸信介に仕えた。野田卯一、池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。1958年(昭和33年)には当選4回ながら自由民主党政調会長就任する。

 その後も、紆余曲折はあるものの順調に出世し、農林大臣、大蔵大臣、外務大臣、行政管理庁長官、経済企画庁長官、内閣総理大臣などを歴任した。


 昭和52年(1977年)に起きたダッカ日航機ハイジャック事件において「人命は地球より重い」という言葉を残して、人質解放のために身代金の支払いに応じた。

 人質は救出したが、テロリストの脅迫に屈したとして国際的批判を甘んじた。その後、日中平和友好条約の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行い、アジア開発銀行の設立や福田ドクトリンへと結実した。



偉人のプロフィール

〔福田赳夫〕のプロフィール。

〔福田赳夫〕

福田赳夫の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)
プロフィール
通称

〔通称〕
・福田 赳夫(ふくだ たけお)

本名

〔本名〕
・福田 赳夫(ふくだ たけお)

別名

称号

〔栄典〕
・正二位
・大勲位菊花大綬章
・法学士(東京帝国大学)
・群馬県名誉県民

時代

〔時代〕
・明治時代~平成時代

生誕

〔生誕〕1905年(明治38年)1月14日
〔生誕地〕群馬県群馬郡金古町(現:高崎市群馬金古)

死没

〔死没〕1995年(平成7年)7月5日)(90歳没)
〔没地〕
〔戒名〕
〔墓所〕

国籍 日本国
言語 日本語
居住地

学歴

〔学歴〕
・旧制高崎中学(現:群馬県立高崎高等学校)
・第一高等学校
・東京帝国大学法学部卒業

職業

〔職業〕
・日本の政治家
・大蔵官僚

分野

〔ジャンル〕
・日本の政治

所属

〔所属政党〕
・無所属
・自由民主党

〔歴任〕
・衆議院議員
・農林大臣(第2次岸改造内閣)
・大蔵大臣
 (第1次佐藤第1次改造内閣)
 (第2次佐藤第2次改造内閣)
 (第3次佐藤内閣)
・第2次田中角栄内閣(第1次改造内閣)
・外務大臣(第3次佐藤改造内閣)
・行政管理庁長官(第2次田中角栄内閣)
・経済企画庁長官(三木内閣)
・内閣総理大臣(福田赳夫内閣)

〔前職〕
・大蔵省主計局長

業績

〔業績〕
・均衡財政志向の安定経済成長論を主張し、国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大するなど、市場の開放に努めるべきとした。

・1965年(昭和40年)、大蔵大臣として、不況による税収不足への解決策として、日本において初めて国債(赤字国債、当時で2千億円)を発行した。

・外交理念として「全方位平和外交」を唱え、アジア諸国との連帯を目指し「福田ドクトリン」を提唱した。中華人民共和国との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた。

・日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「日韓大陸棚協定」を批准した。

作品

受賞歴

名言

〔福田赳夫の政治理念〕

・協調と連帯

・政治は最高の道徳

 福田は、岸信介の直系であり、「自民党右派」と評されることが多い。

〔福田赳夫の名言〕

・福田赳夫は、造語・警句の名手として知られる。このような福田語録には次のようなものが残っている。また、世直し改革を訴え「昭和の黄門」を自認した。後に総理大臣になる森喜朗や小泉純一郎は彼の薫陶を受けた。

 「狂乱物価」
 「昭和元禄」
 「視界ゼロ」
 「名存実亡」
 「日々是反省」
 「福田内閣はさあ働こう内閣だ」
 「掃除大臣」

・人名は地球より重い。

サイト

その他