建礼門院の末路の姿について、大原を訪れた建礼門院右京大夫は、次のような歌を詠んでいる。(『建礼門院右京大夫集』)
・御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず
(ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。
・都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる
(都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている)
・今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつぞとなき
(今が夢なのか、それとも昔が夢なのかと心は迷い、どう考えても現実とは思えません)
・仰ぎ見し昔の雲の上の月 かかる深山の影ぞ悲しき
(雲の上のような宮中で見た中宮様を、このような深山で見るのは悲しいことです)
文治2年(1186年)4月、後白河法皇がお忍びで大原の閑居を訪ねると、徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面してこれまでのことを物語する。(以下、ウイキペディアより引用)
「太政大臣清盛の娘として生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。
海上を流浪し飢えと渇きに餓鬼道の苦しみを受けました。
そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。
捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしは夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。
『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。
それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」
これに対し、法皇は「あなたは目前に六道を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流したという。
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