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〔日本の偉人〕

〔み〕で始まる日本の偉人

水野忠邦

(みずの ただくに)



 水野忠邦は、江戸時代後期の大名で老中職を務めた。いわゆる賄賂作戦で幕府の重臣にまで上り詰めた人物である。

 将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年に大坂城代となり、西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。最終的には本丸老中、勝手御用掛を兼ねて老中首座となった。

 忠邦は異国船が日本近海出没や幕府財政の危機に際して、家斉旧側近を罷免し、実力者を登用して、世にいう天保の改革を成し遂げた。しかし、後に腹心の寝返りによって老中職を罷免された。


 水野忠邦は、異国船の出没で日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減し、放漫な財政で改善を行えない幕府に強い危機感を抱いていたが、当初は天保の三侫人と呼ばれる家斉側近が権力を握っており、忠邦は改革を開始できなかった。



 天保8年(1837年)、家慶が第12代将軍に就任、天保12年(1841年)に大御所・家斉が死去すると、家斉旧側近を罷免し、有能な人材を登用して天保の改革に着手した。

 天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。

 農村からの農民逃散を防ぎ、農村復興のため人返し令を発したり、奢侈禁止・風俗粛正を命じた。


 この時代、庶民を苦しめる政策に対して、腹心の遠山は反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に「遠山の金さん」として語り継がれるようになる。

 水野は、天保14年(1843年)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の恨みを買い、腹心の鳥居が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたことで、老中を罷免され失脚した。後に、老中に復帰するが、かつての面影はなく、特別な業績は何もなかった。


偉人のプロフィール

〔水野忠邦〕のプロフィール。

〔水野忠邦〕

水野忠邦の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)
プロフィール
通称 〔通称〕
・水野 忠邦(みずの ただくに)

本名 〔本名〕
・水野 忠邦(みずの ただくに)

別名 〔幼名〕於莵五郎
〔号〕松軒、菊園

受賞歴 〔栄典〕
・従五位下・式部少輔
・和泉守
・左近衛将監
・従四位下・侍従
・越前守

時代 〔時代〕
・江戸時代後期

生誕 〔生誕〕寛政6年6月23日(1794年7月19日)
〔生誕地〕

死没 〔死没〕嘉永4年2月10日(1851年3月12日)(享年58歳没)
〔没地〕
〔戒名〕英烈院忠亮孝友大居士
〔墓所〕茨城県結城市 旧万松寺跡

国籍 日本国
言語 日本語
居住地
学歴
職業 〔職業〕
・江戸時代後期の大名
・老中
・肥前唐津藩主
・遠州浜松藩主

分野 〔ジャンル〕
・江戸幕府
・天保の改革

所属 〔幕府〕
・江戸幕府奏者番
・寺社奉行
・大坂城代
・京都所司代
・西丸老中
・老中
・勝手掛老中
・雁間詰
・勝手掛老中

〔主君〕
・徳川家斉
・徳川家慶

〔藩〕
・唐津藩主
・浜松藩主

〔氏族〕
・水野氏

業績 〔業績〕
・水野忠邦は、異国船の出没で日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減などに危機感を持ち、大御所・家斉が死去後には有能な人材を登用して天保の改革に着手した。

・農村からの農民逃散を防ぎ、農村復興のため人返し令を発したり、奢侈禁止・風俗粛正を命じた。

作品
名言 〔水野忠邦の名言〕

・享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ。

サイト
その他