このため、長矩は9歳にして赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。その4月には、4代将軍・徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上する。さらに同年閏4月には、三次藩主・浅野長治の娘・阿久里姫との縁組みが決まる。
延宝8年8月18日には、従五位下に叙せられ、祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられる。
天和元年(1681年)3月には、幕府より江戸神田橋御番を拝命し、15歳にして山鹿素行に入門、山鹿流兵学を学ぶこととなる。天和2年3月28日(1682年5月5日)には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通信使を饗応した。また、天和3年2月6日(1683年3月4日)には、霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠・千種有能の饗応役を拝命し、無事に務めあげる。その直後には、阿久里と正式に結婚している。このとき、長矩は未だ満15歳の若さである。
この年、長矩は自らの所領である赤穂に入り、大石良雄以下国許の家臣達と対面する。以降、参勤交代で一年交代に江戸と赤穂を行き来することとなる。
江渡在留中の元禄3年には、本所の火消し大名に任命され、しばしば火消し大名として活躍している。
元禄6年(1693年)に備中松山藩の水谷家が改易になった際、その居城である松山城の城請取役に任じられ、長矩は、総勢3500名からなる軍勢を率いて赤穂を発ち、備中松山へと向かい、水谷家家老・鶴見内蔵助より同城を無血で受け取る。。
長矩は、開城翌日には赤穂へと向かうが、名代として筆頭家老・大石良雄を松山城に在番させる。翌年に新城主・安藤重博が入城するまでの間、浅野家が松山城を管理する。
長矩と阿久里との間に子孫がなく、弟の長広を仮養子に迎え入れ、幕府旗本として独立させる。元禄8年、長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったが、元禄9年頃までには完治している。
やがて、元禄14年2月4日(1701年3月13日)、運命の二度目の勅使饗応役を拝命することとなる。浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられ、その礼法指南役は天和3年のお役目の時と同じ吉良義央であった。
その時点で、吉良は高家の役目で上京中であり25日のあいだ江戸には戻らず、長矩は自ら勅使を迎える準備に当たらねばならなかった。勅使が今日を立ち、将軍主催の能の催しに勅使・院使が招かれる時点までは、長矩は無事役目をこなしてきた。
そして、運命の元禄14年3月14日(1701年4月21日)、将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという最も格式高いと位置づけられていた日がやってきた。
この儀式直前の巳の下刻、江戸城本丸松の廊下にて、吉良義央が留守居番・梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところ、背後から近づいた長矩が、吉良義央に対し刃傷に及んだ。梶川が記した『梶川筆記』によれば、長矩は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだという。
残念なことに長矩は、義央の額と背中を傷つけたが致命傷を与えることはできなかった。しかも梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたため、第三撃を加えることも叶わず、浅野の吉良殺害は失敗に終わった。
捕らえられた長矩が取り調べに対し、何と答えたかについては確かな史料は無い。それどころか取り調べが行われたかどうかすら確かな史料からは確認できない。
調べに対し、長矩は吉良に個人的遺恨あり刃傷に及んだと述べたが、刃傷に至る動機や経緯は明かさなかった。「上野介はいかがに相成り候や」と、吉良がどうなったかだけを問うたという。
これに対して、取り調べに当たった多門は長矩を思いやり「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると、長矩に喜びの表情が浮かんだいう。
将軍・綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決した。取り調べに当たった、多門は、この決定に対し、「余り御手軽にて御座候」と抗議したが、結果は変わらなかった。
長矩は、申の刻(午後4時30分頃)に田村邸につき、出会いの間という部屋の囲いの中に収容される。1汁5菜の料理が出される。
申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。これに対して長矩「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。
庭先の切腹場へと移された長矩は、幕府検使役の立会いのもと、長矩は幕府徒目付の介錯で切腹して果てた。享年35であった。
『多門筆記』によれば、切腹の前に長矩は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という辞世を残したとされ、さらに多門の取り計らいにより、片岡高房が主君・長矩に最後に一目、目通りできたともしている。
『内匠頭御預かり一件』には、長矩の側用人片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が、次の如き遺言を残したことが記されている。
「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」
その後、田村家から知らせを受けた、浅野家家臣らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬された。
|