1979年(昭和54年)4月に帰国すると、神戸製鋼所に入社し3年間勤務するが、本人の言では、社会人としての原点となる経験を積んだという。
その後、1982年(昭和57年)には、当時外務大臣であった父・晋太郎の下で秘書官を務めることとなり、政界に関係することとなる。1987年には、福田赳夫夫妻の媒酌で、当時森永製菓社長だった松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と結婚式を挙げる。この女性はいろいろと活発な面があり、その後さまざまな問題も引き起こす。
1991年(平成3年)には、父・晋太郎が急死したため、父親の地盤を受け継ぐ形で、1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙に山口1区から出馬し初当選を果たす。
その後、村山富市らの「リベラル政権を創る会」に参加したり、1995年(平成7年)の自民党総裁選では小泉純一郎の推薦人の一人になったりする。派閥領袖の森喜朗首相による第2次森内閣で、小泉純一郎の推薦を受け、政務担当の内閣官房副長官に就任する。
2002年(平成14年)、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と強硬論を主張した。拉致被害者5人の帰国は実現したが、多くの問題も残し日本側の納得する形では決着ではなかった。
その後は、自民党幹事長や内閣官房長官として初入閣し、小泉内閣の任期満了後、自民党総裁戦に出馬、麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自民党総裁に就任する。2006年9月26日、戦後生まれの初めての内閣総理大臣となり、第1次安倍内閣が誕生した。
第1次安倍内閣は、やや違和感のある「美しい国」を国家像とするものであったが、多くの不祥事が発生したりして、2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙に敗北する。自身の体調不調もあり、突然辞任を発表し、第1次安倍内閣は1年余りの短命内閣として終了した。
この後、雌伏の時代を迎え耐えしのぶが、2012年9月21日,谷垣総裁の任期満了に伴う、2012年自由民主党総裁選挙への出馬を表明し、第1回投票で1位石破、2位安倍となったが、決戦投票において、石破を破り総裁に選出される。
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では、自民党が圧勝、政権与党に復帰する。12月26日には安倍は第96代内閣総理大臣となり第2次安倍内閣が発足した。
今回は、デフレ経済克服を最大の目標に定め、大規模な金融緩和措置として、「大胆な金融緩和」「機動的な財政出動」および「民間投資を喚起する成長戦略」を三本の矢とする「アベノミクス」と呼ばれる一連の経済対策を断行する。
2013年、2016年の参議院議員選挙で勝利し、2017年の東京都議会議員選挙では敗北したものの、2017年の衆議院議員総選挙では大勝利し、将来の「憲法改正」を見据えた政治運営を行っている。
|