青木周蔵は、山口の生まれで、明治、大正期の日本の外交官であり政治家である。ドイツ公使、山県?(やまがた)?・松方内閣の外務大臣を歴任し、不平等条約の改正に尽力した。 |
青木周藏は、長門国厚狭郡生田村で生誕、現在の山口県山陽小野田市の出身である。彼は長州藩の村医・三浦玄仲の長男として生まれた。幼名は三浦團七であった。 |
青木周蔵は、山口の生まれで、明治、大正期の日本の外交官であり政治家である。ドイツ公使、山県?(やまがた)?・松方内閣の外務大臣を歴任し、不平等条約の改正に尽力した。 |
青木周藏は、長門国厚狭郡生田村で生誕、現在の山口県山陽小野田市の出身である。彼は長州藩の村医・三浦玄仲の長男として生まれた。幼名は三浦團七であった。 |
明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て、1868年(明治元年)に藩留学生としてドイツ留学するが、渡独後、医学から政治、経済学に無断転科してしまう。問題ではあったが、来独中の山縣有朋によって解決する。 |
その後、様々な出来事があったが、1886年(明治19年)には、第1次伊藤内閣の井上馨外務大臣のもとで外務次官となり、1887年まで井上外交を支えた。1888年(明治21年)の黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務めた。1889年には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍する。 |
◆〔青木周蔵〕のプロフィール。 |