大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者、陽明学者で、大坂町奉行組与力である。大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。 天保の大飢饉の時代、各地で百姓一揆が多発し大坂でも米不足が起こっていた。平八郎は奉行所に民衆の救援を提言したが拒絶され、仕方なく自らの蔵書を売却した資金で救済に努めた。 世情を顧みず米の買い占めなどする大坂町奉行や豪商に対して、もはや武装蜂起以外にないと考え、天保8年2月19日に蜂起すべく準備を進めた。しかし、密告により決起当日に鎮圧されてしまう。世にいう〔大塩平八郎の乱〕である。
◆〔大塩平八郎〕のプロフィール。
〔別名〕正高、後素 〔通称〕平八郎 〔諱〕正高、のち後素(こうそ) 〔字〕子起 〔号〕中斎 〔家紋〕揚羽
江戸時代末期
〔生誕〕寛政5年1月22日(1793年3月4日) 〔生誕地〕大坂天満
〔死没〕天保8年3月27日(1837年5月1日)(享年45) 〔没地〕 〔墓所〕大阪市北区の成正寺
・江戸時代後期の儒学者 ・大坂町奉行組与力。
〔幕府〕江戸幕府 ・大坂町奉行組与力
〔三大功績〕 ・奉行所時代、汚職を嫌う正義漢として不正を次々と暴く。 ・切支丹の摘発。 ・破戒僧の摘発 〔私塾・洗心洞〕 ・私塾・洗心洞で子弟を指導。 〔大塩平八郎の乱〕 ・天保の大飢饉(天保4年:1833年~天保5年:1834年)は大塩の活躍で乗り切ったが、二度目の大飢饉(天保7年~8年)は各地で酷くなり、各地で騒動が勃発。 ・大飢饉による打ちこわし鎮圧と称して、大塩は与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始。 ・私財による救済活動ではどうにもならぬと考え、武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちするしかないと決心。 ・天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起計画(大塩平八郎の乱)。 ・しかし、大坂町奉行所への密告により蜂起当日に鎮圧される。
〔大塩平八郎の名言〕
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・大塩父子の終焉地近傍の大阪市西区靱本町1丁目18番12号(天理教飾大分教会の敷地内)に、追悼碑がある。