通称 |
〔通称〕
・乃木 希典(のぎ まれすけ)
|
本名 |
〔本名〕
・乃木 希典(のぎ まれすけ)
|
別名 |
〔綽名〕
・泣き人(なきと)
・乃木大将
・乃木将軍
・農人乃木
・脱走将校(負傷して入院中の病院を脱走して軍の式に当たったため)
〔幼名〕無人(なきと)
〔改名〕
・源三
・頼時
・文蔵
・希典
・出雲源氏佐々木氏の子孫と称し、「源希典」との署名も用いた。
〔号〕
・静堂
・秀顕
・石樵
・石林子
|
称号 |
〔位階〕
・正四位
・従三位
・従二位
・贈正二位
〔勲章等〕
・勲四等旭日小綬章
・勲三等旭日中綬章
・大日本帝国憲法発布記念章
・勲二等瑞宝章
・男爵
・功三級金鵄勲章
・旭日重光章
・明治二十七八年従軍記章
・勲一等瑞宝章
・功一級金鵄勲章
・旭日桐花大綬章
・明治三十七八年従軍記章
・伯爵
〔外国勲章佩用允許〕
・プロイセン王国からプール・ル・メリット勲章
・フランス政府からレジオンドヌール勲章
・チリ政府から金製有功章
・ルーマニア国王カロル1世からルーマニア星勲章
・イギリスからバス勲章ナイト・グランド・クロス
・イギリスからロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス
|
時代 |
〔時代〕
・江戸時代末(幕末)~明治時代
|
生誕 |
〔生誕〕嘉永2年11月11日(1849年12月25日)
〔生誕地〕武蔵国江戸
|
死没 |
〔死没〕1912年(大正元年)9月13日)(享年64歳没)
〔没地〕東京市赤坂区(現:東京都港区赤坂)
〔墓所〕
・青山墓地
・乃木神社
|
国籍 |
日本国 |
言語 |
日本語 |
居住地 |
|
学歴 |
〔就学〕
・漢学者の結城香崖に入門、漢籍および詩文を学ぶ。さらに流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めた。
・集童場(鍛錬道場)入門
・兵学者の玉木文之進への弟子入り、農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた
。集童場時代の友人らと盟約状を交わし、長府藩報国隊を組織する。
・慶応2年(1866年)、長府藩の命により、明倫館文学寮に入学
・藩命により、伏見御親兵兵営に入営、フランス式訓練法を学ぶ。
|
職業 |
〔職業〕
・日本の武士(長府藩士)
・軍人
・教育者
〔階級〕
・陸軍大将
|
分野 |
〔ジャンル〕
・大日本帝国陸軍
|
所属 |
〔所属組織〕
・大日本帝国陸軍
〔軍歴〕
・1871年~1912年
|
業績 |
〔業績〕
・日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも知られる。
・第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。
・源三は長府藩報国隊に属し、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口での戦闘(小倉戦争)に加わったが、この際、小倉城一番乗りの武功を挙げた。
・乃木は、西郷隆盛を総大将とする西南戦争で指揮官として幾多の戦いを繰り広げ、日本での最後の内戦を戦った。
・明治27年8月1日に勃発した日清戦争において、乃木は旅順要塞をわずか1日で陥落させた。
・また、明治37年2月8日に勃発した日露戦争において、旅順要塞の攻略任務をうけた乃木は、多大な犠牲を払いながらも203高地を陥落、ロシア軍を降伏させた。
|
作品 |
|
受賞歴 |
|
名言 |
〔乃木希典の名言〕
・敵将(ステッセリ)に失礼ではないか。後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ。 (水市営の会見時、何枚もの写真撮影を希望する従軍記者に対して言った言葉)
〔乃木希典の辞世〕
・神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる。
・うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり。
|
サイト |
|
その他 |
乃木希典は、「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。
|