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〔楠木正成〕

 

 楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将である。

 鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ったころ幕府には恩賞を与える実力もなく権威は失墜していた。民は重税に苦しみ、世は乱れ、後醍醐天皇が幕府打倒を目指し京都で挙兵する。これを支援した数少ない武将のひとりが楠木正成であった。


 正成はわずか500の普段は百姓をしている地侍で挙兵し、数万の幕府軍と戦うことになる。正成軍に兜などあろう筈もない惨めな軍勢だったし、山城も粗末なものであったため、幕府軍は「1日くらい持ちこたえてくれねば恩賞がもらえぬ」と罵声を浴びせた。

 幕府軍が城を取り囲み斜面を埋め尽くした瞬間、それは起こった。城の外壁が崩れ落ち幕府軍は一気に700名もの兵を失ってしまったのだ。様々な奇策で翻弄したのである。幕府軍にいた足利尊氏は、正成は只者ではないと感心したという。


 兵糧攻めが始まり、正成軍は20日で食糧が尽き、城に火を放つが、抜け道から脱出して行方をくらましてしまう。その後も奇策による戦が続き、結局、140年続いた鎌倉幕府滅亡へと続くのである。

 しかし、勝利した後醍醐天皇は、公家を重んじ武家を軽んじたり、民衆に厳しい税を課したために信望を失い、足利尊氏たちが反旗を翻すことになる。圧倒的多数の敵と対決した楠木正成は湊川の戦いに敗れ、自害して果てることとなる。(ここには、余白がなくこれ以上、書けないのが残念である。)



偉人のプロフィール

〔楠木正成〕のプロフィール。

〔楠木正成〕

楠木正成の肖像・写真 
(出典:wikipedia)

プロフィール
通称 楠木 正成(くすのき まさしげ)
本名 楠木 正成(くすのき まさしげ)
別名

〔改名〕多聞丸(幼名)→兵衛尉→正成
〔別名〕大楠公
〔神号〕南木明神
〔戒名〕霊光寺大圓義龍卍堂

称号

〔官位〕兵衛尉、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国守護、贈正一位

・明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には「正一位」を追贈された。

時代

鎌倉時代末期~南北朝時代

生誕

〔生誕〕永仁2年(1294年)?
〔生誕地〕

死没

〔死没〕延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)
〔没地〕
〔墓所〕観心寺

国籍 日本国
言語 日本語
居住地

学歴

職業

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将

分野

所属

〔主君〕後醍醐天皇
〔氏族〕楠木氏

業績

・後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。

・尊氏の反抗後、新田義貞や北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害して果てる。

作品

受賞歴

名言

〔楠木正成の名言〕

・足ることを知って、及ばぬことを思うな。

・鶏鳴に起きざれば、暮れに悔いあり。

・大将は大なる知恵も細なる知恵もなくてはかなわぬものなり。知恵は生まれつきにありというも、その知恵を磨かざれば正智いずることなし。知恵に自慢おごりて、磨かざる大将はみな代々持ち来る国を失い、家をなくすものなり。

・大将たらん人は、心に油断の義ありては叶うべからず。あまたの心得あるべし。まず能者を親しみ近づけ、姦(あ)しき者を遠ざくべし。国家の風俗おのずからよくなるものなり。それにしたがって自然に対象の知恵もいや増しに出るものなり。

・正成1人が生きている限り、あなた様の運は必ずや開けましょう。

・私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めします。帝は比叡山に移ってください。京の都に尊氏軍を誘い込んだ後、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう。

・良将は戦わずして勝つ。

・武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。しかし、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機は必ず生じます。

・合戦の勝負 必ずしも大勢小勢に依らず ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり。

・非は理に勝たず 理は法に勝たず 法は権に勝たず 権は天に勝たず。

・度重なれば楽しみならず。珍膳も毎日食らえばうまからず。

・罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり。いざさらば同じく生を変えてこの本懐を達成せん。

・謙遜の者は遂に幸来る。不遜の者は災害来る。

・大将は知恵を持って肝要とす。知恵なき者は万事に惑いあるものなり。知恵には大小あり。知恵大なれば天下を治めて不足なく、知恵小さきなれば一国一城も治まりかねるものなり。

サイト

その他

 古典の書物で南朝寄りの『太平記』では正成の事跡は好意的に書かれている。一方で、足利尊氏に近い書籍『梅松論』でも、正成のことを悪く書くこと七区、むしろ同情的な表現がされている。

 ここでは、かつでの友で清廉な正成に、尊氏自身がある種の尊敬の念をもっていたためとされている。尊氏は、戦死した正成の首を「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と言って丁重に遺族へ渡させたという。

 楠正成は、南朝を支えた勇士であったことを貴しとした、明治天皇から「大楠公」と称され、「正一位」を追贈された。現在、勇壮な楠木正成像が皇居外苑に設置されている。。

楠木正成像 
(出典:wikipedia)


 日本の唱歌の一つに『桜井の訣別』というものがある。湊川の決戦で死地の赴く楠木正成とその息子楠木正行(まさつら)の別れを歌った歌である。「青葉茂れる桜井の」、あるいは「大楠公の歌」ともいう。哀しい歌ではあるが、天皇家に尽くした正成の歌であり、戦時中はよく歌われた。(作詞は落合直文、作曲は奥山朝恭)

〔桜井の訣別〕歌詞

1.青葉茂れる桜井の
   里のわたりの夕まぐれ
  木の下陰に駒とめて
   世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧の袖の上に
   散るは涙かはた露か

2.正成涙を打ち払い
   我が子正行呼び寄せて
  父は兵庫に赴かん
   彼方の浦にて討ち死せん
  汝はここまで来つれども
   とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも
   見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん
   この正行は年こそは
  未だ若けれ諸ともに
   御供仕えん死出の旅

4.汝をここより帰さんは
   我が私の為ならず
  おのれ討死為さんには
   世は尊氏の儘ならん
  早く生い立ち大君に
   仕えまつれよ国の為

5.この一刀は往にし年
   君の賜いしものなるぞ
  この世の別れの形見にと
   汝にこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ
   老いたる母の待ちまさん

6.共に見送り見返りて
   別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨の
   空に聞こゆる時鳥
  誰か哀れと聞かざらん
   あわれ血に泣くその声を

 この曲の歌唱とカラオケのリンクをここに掲載しますので、お聞きください。また、昔の思い出のある方は、カラオケで歌ってみてください。

  桜井の決別(歌唱)

  桜井の決別(カラオケ)