広瀬武夫は、明治元年(1868年)豊後国竹田で出生した日本の海軍軍人である。日露戦争時に有名なエピソードがあり、戦前は軍神として神格化される存在であった。
成人すると一時期は小学校教師を務めたが、明治18年(1885年)退職し、攻玉社を経て海軍兵学校入校する。卒業後、明治23年まで軍艦「比叡」に乗船し、少尉に任官される。
明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し翌年には大尉に昇進する。明治30年にはロシアへ留学して、旅順港などの軍事施設も見学、その後はロシア駐在武官となり、明治33年には少佐に昇進する。明治37年(1904年)からの日露戦争では旅順港閉塞作戦に参戦する。
第2回の閉塞作戦時、閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受け撤退しようとした。しかし、部下の杉野孫七上等兵曹がいないことに気づき、広瀬は杉野を助けようと船内を探索したが見つからず、救命ボートに移乗せんとした際、ロシア軍砲撃を受け戦死した。36歳の壮絶な死であった。
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