応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)まで10年あまり続く内乱であり、戦国時代の前触れとなった。
戦乱のさなかで、富子と夫である義政との関係は冷え切っていた。一方、戦いには大きな動きが起こる。
1473年(文明5年)、争っていた山名宗全と細川勝元が他界してしまい、義政が隠居して、元服した義尚が9代将軍に就任、兄の日野勝光が新将軍代となる。
その後、1475年(文明7年)には、義政は小河御所を建設して一人で移り住んでしまい、1476年には兄・勝光も没してしまう。富子が実質的な権力を完全掌握する時代が来たのだった。
やがて、戦いの方は最終盤を迎えており、1477年(文明9年)に西軍が引き上げると11月20日、幕府によって「天下静謐(てんかせいひつ)」の祝宴が開催される。十年あまりに亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
この乱は、応仁元年に発生したことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため「応仁・文明の乱」とも呼ばれる。
富子は応仁の乱の戦いの全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたが、東西両軍の大名たちに高利で「戦費の貸付」をしたり、米の投機を行うなどで多額の蓄財をしたとされ、現在価値にすれば60億円も蓄えたという。
富子は、その後も様々な陰謀をめぐらし、私財の蓄積を図るが、明応5年(1496年)、57歳で死去した。生涯を通して稼いだ遺産は7万貫(現在価値約70億円)とも言われ、自分の欲ばかりを追求したが、これ以降の室町幕府は衰退への道をまっしぐらに進むのだった。
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