岩沢正作は、明治~昭和時代前期に活躍した考古学者で、号を四拙といい、著書に「赤城山廻遊案内」がある。彼は、群馬県内の中学などで博物学を教えるかたわら県内出土の土器や石器を収集・研究した学者であった。 |
岩沢正作は、明治~昭和時代前期に活躍した考古学者で、号を四拙といい、著書に「赤城山廻遊案内」がある。彼は、群馬県内の中学などで博物学を教えるかたわら県内出土の土器や石器を収集・研究した学者であった。 |
岩沢正作は、豊かな髭の持ち主であったことから、生徒たちからは「ヒゲ仙人」とか「タコ」などのあだ名で呼ばれ親しまれました。更に野山を散策しては土器や石器、貝殻などのカケラを拾い集め、リュックサックに沢山詰め込む習性があったことから、「カケラ先生」とも呼ばれていました。 |
尚、岩沢正作の肖像写真などは見当たらないのですが、少しでもイメージが湧けばと思い、みどり市のHP内の〔赤城の主「岩沢正昨物語」〕に掲載されているイメージ図の一部を掲載しています。 |
◆〔岩沢正作〕のプロフィール。 |
◆「金井東裏遺跡」の概要をご紹介します。 |
出土遺跡について |
平成25年3月現在、金井東裏遺跡(かないひがしうらいせき)は、遺跡調査実施中です。渋川市の発表によれば、この遺跡に関しての調査は、「古墳時代の甲(よろい)着装人骨の出土について(金井東裏遺跡(渋川市))」となっていて、その概要は次のようになっています。
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遺跡の内容 |
渋川市の伊香保より上部にある榛名山二ッ岳は、長い歴史を辿れば何度か噴火し、火山灰や溶岩流、火砕流が発生したことがあります。 古代古墳時代後期の6世紀初頭にこの二ッ岳が噴火しときと推定される、火山灰で埋まった溝から、「小札甲(こざねよろい)」と呼ばれる甲(よろい)を装着した成人男性の人骨1体と、乳児人頭骨1点、および甲冑(かっちゅう)の部品1点とが出土しました。 甲を着装した人骨は、榛名山の方向を向いていて、後頭部を上にし顔を伏せた状態であり、ほぼ全身の骨が残っている状態です。下肢部の状況から、噴火の際に榛名山二ッ岳からの火砕流に遭遇し、膝立ちの状態から前方に倒れ死亡したものと見られています。 |
◆「岩沢正作」についての有用な記事を転載します。▼ |
転載元 |
読売新聞 2013年1月19日 |
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記事名称 |
考古学先駆者「カケラ先生」再び脚光 ◇「火山灰層」調査の岩沢正作 |
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記事本文 |
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