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〔日本の偉人〕

〔い〕で始まる日本の偉人

岩沢正作

(いわさわ しょうさく)


あ行か行さ行た行な行
は行ま行や行ら行わ行

あいうえお

〔い〕で始まる日本の偉人

いかりや長介 イチロー
伊藤博文 伊能忠敬
井伊直弼 井深大
一休宗純 稲盛和夫
岩倉具視 岩沢正作
犬養毅 五木ひろし
今川義元 糸川英夫
石ノ森章太郎 石原裕次郎
石川さゆり 石川啄木
石田三成 泉鏡花
板垣退助

 岩沢正作は、明治~昭和時代前期に活躍した考古学者で、号を四拙といい、著書に「赤城山廻遊案内」があります。

 岩沢正作は、群馬県内の中学などで博物学を教えるかたわら県内出土の土器や石器を収集・研究した学者でした。

岩沢正作のイメージ図 
(イメージ図)
(赤城の主「岩沢正昨物語」)

 彼は、昭和4年に群馬県大間々町を拠点とした郷土研究者の集まりである「毛野研究会」を組織するとともに、研究会活動の一環として、考古学を主体にした学術研究誌「毛野」を創刊しました。そして、郷土史けぬ研究者の育成にも注力しました。

 岩沢正作は、豊かな髭の持ち主であったことから、生徒たちからは「ヒゲ仙人」とか「タコ」などのあだ名で呼ばれ親しまれました。更に野山を散策しては土器や石器、貝殻などのカケラを拾い集め、リュックサックに沢山詰め込む習性があったことから、「カケラ先生」とも呼ばれていました。

 彼の研究が、約100年後に群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、火山灰層から甲(よろい)を着た人骨の発見へと繋がるのでした。ここで、この金井東裏遺跡についての概要を紹介します。また、このあたりのことが読売新聞に掲載されましたので、下記にその記事を紹介しておきます。

 尚、岩沢正作の肖像写真などは見当たらないのですが、少しでもイメージが湧けばと思い、みどり市のHP内の〔赤城の主「岩沢正昨物語」〕に掲載されているイメージ図の一部を掲載しています。



偉人のプロフィール

プロフィール
通称 岩沢正作
本名 岩沢正作
別名

 号は四拙、渾名はヒゲ仙人・タコ・カケラ先生

受賞歴
時代  明治・大正・昭和
生誕   1876年6月4日(明治9年6月4日)
死没  1944年6月21日(没年満69歳)
国籍  日本
言語 日本語
出身地  日本国:神奈川県
居住地  日本国:主に群馬県
学歴
職業 〔職業〕


分野
所属  昭和4年毛野(けぬ)研究会を組織「毛野」を創刊
業績  明治~昭和時代前期の考古学者
作品  著作に『赤城山廻遊案内』
名言 〔@@@の名言〕



サイト
その他


金井東裏遺跡

◆「金井東裏遺跡」の概要をご紹介します。

出土遺跡について  平成25年3月現在、金井東裏遺跡(かないひがしうらいせき)は、遺跡調査実施中です。渋川市の発表によれば、この遺跡に関しての調査は、「古墳時代の甲(よろい)着装人骨の出土について(金井東裏遺跡(渋川市))」となっていて、その概要は次のようになっています。

出土遺跡の概要
遺跡名 金井東裏(かないひがしうら)遺跡(渋川市金井地内)

調査原因 国道353号金井バイパス(上信自動車道)建設工事に伴う調査

委託者 中部県民局渋川土木事務所

調査主体 公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団

調査期間 平成24年9月~平成25年3月調査予定


遺跡の内容  渋川市の伊香保より上部にある榛名山二ッ岳は、長い歴史を辿れば何度か噴火し、火山灰や溶岩流、火砕流が発生したことがあります。

 古代古墳時代後期の6世紀初頭にこの二ッ岳が噴火しときと推定される、火山灰で埋まった溝から、「小札甲(こざねよろい)」と呼ばれる甲(よろい)を装着した成人男性の人骨1体と、乳児人頭骨1点、および甲冑(かっちゅう)の部品1点とが出土しました。

 甲を着装した人骨は、榛名山の方向を向いていて、後頭部を上にし顔を伏せた状態であり、ほぼ全身の骨が残っている状態です。下肢部の状況から、噴火の際に榛名山二ッ岳からの火砕流に遭遇し、膝立ちの状態から前方に倒れ死亡したものと見られています。


転載記事内容

◆「岩沢正作」についての有用な記事を転載します。▼


転載元


 読売新聞 2013年1月19日


記事名称


 考古学先駆者「カケラ先生」再び脚光

  ◇「火山灰層」調査の岩沢正作

記事本文
 渋川市の金井東裏遺跡で、火山灰層から甲(よろい)を着た人骨が発見されたのを機に、約100年前から発掘調査で火山灰と遺跡の関連性に着目し、県内の考古学の礎を築いた、みどり市大間々町ゆかりの考古学者、岩沢正作(しょうさく)(1876~1944)が改めて脚光を浴びている。関係者は「発見の原点に岩沢の研究があった」と功績をたたえている。

 写真:岩沢の常設展の前で、功績について語る竹内さん

 群馬の考古学の「先駆者」とされる岩沢が活躍した当時、古墳の築造年代の推定は、遺体と共に埋葬された副葬品や埴輪(はにわ)などの年代を手がかりにすることが多かった。しかし、1929年(昭和4年)に岩沢が行った上芝古墳(高崎市箕郷町)の調査では、周辺の火山噴出物などから時期を推定するという当時としては画期的な手法が採られた。

 火山灰の地層を活用する方法は、噴火を繰り返す浅間山や榛名山を持つ県内の研究を飛躍的に前進させた。大間々町出身で、今回の発掘に携わった県埋蔵文化財調査事業団の杉山秀宏さん(52)は、「岩沢らの功績の延長に今回の発見がある。まさに考古学の先駆者」と力説する。

 岩沢は、火山灰の下から遺跡が後に発見されることを予見。約1700年前の田んぼが浅間山の火山灰で覆われた日高遺跡(高崎市日高町・中尾町)が没後確認されるなど、正しさが裏付けられた。

 同事業団普及担当の原雅信さん(58)は、「今では常識的な発想だが、考古学以外にも地質学などの幅広い知識が岩沢にあったからこそ、当時は考えられもしなかった火山灰との関係性を見いだしたのだろう」と推察。東京の識者らにも一目置かれる存在だった。

 数多くの岩沢の遺品などを展示する、みどり市大間々博物館学芸員の竹内寛さん(63)によると、あごひげを蓄えた岩沢は「ヒゲ仙人」と呼ばれ、小さな土器の破片にも採集地を墨で記入し、研究資料として持ち帰ったため、「カケラ先生」のあだ名で親しまれた。学校の式典後に、モーニング姿で山に行って土器の破片を拾い、正装を汚してしまうほど研究熱心だったという。

 竹内さんは、「岩沢は研究者の鏡。しかし、なかなか一般人が知る機会がない」と話し、「博物館の建設を訴えたが実現できなかった。昭和末期にようやく大間々博物館ができ、岩沢の功績を常設展示できた」と語る。

 岩沢が大間々町に移り住んでから昨年で100年となり、市民団体が近く、功績をたたえる案内板の設置を予定するなど、地元の関心も高まっている。


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