岩沢正作は、明治~昭和時代前期に活躍した考古学者で、号を四拙といい、著書に「赤城山廻遊案内」があります。
岩沢正作は、群馬県内の中学などで博物学を教えるかたわら県内出土の土器や石器を収集・研究した学者でした。
(イメージ図) (赤城の主「岩沢正昨物語」)
彼は、昭和4年に群馬県大間々町を拠点とした郷土研究者の集まりである「毛野研究会」を組織するとともに、研究会活動の一環として、考古学を主体にした学術研究誌「毛野」を創刊しました。そして、郷土史けぬ研究者の育成にも注力しました。
岩沢正作は、豊かな髭の持ち主であったことから、生徒たちからは「ヒゲ仙人」とか「タコ」などのあだ名で呼ばれ親しまれました。更に野山を散策しては土器や石器、貝殻などのカケラを拾い集め、リュックサックに沢山詰め込む習性があったことから、「カケラ先生」とも呼ばれていました。
彼の研究が、約100年後に群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、火山灰層から甲(よろい)を着た人骨の発見へと繋がるのでした。ここで、この金井東裏遺跡についての概要を紹介します。また、このあたりのことが読売新聞に掲載されましたので、下記にその記事を紹介しておきます。
尚、岩沢正作の肖像写真などは見当たらないのですが、少しでもイメージが湧けばと思い、みどり市のHP内の〔赤城の主「岩沢正昨物語」〕に掲載されているイメージ図の一部を掲載しています。
|