〔春日八郎〕
春日八郎は、日本の流行歌歌手・演歌歌手である。戦後、歌謡曲から演歌の時代に変わろうとする時代、歌謡界で燦然と輝いた。
クラシック正統派歌手、藤山一郎に憧れ、福島県から歌手を目指して上京、キングレコード主催の〔第1回歌謡コンクール〕で合格し歌手生活を始める。1952年に『赤いランプの終列車』で大ヒット、2年後には『お富さん』で空前の大ヒットを飛ばし、その年の第5回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。
従来の〔流行歌〕ではない望郷歌謡曲を次々とヒットさせ、衰退する流行歌の時代から新天地〔演歌〕の時代を切り拓いた。他のヒット曲には『別れの一本杉』『山の吊橋』『長崎の女』『ロザリオの島』『あん時ゃどしゃ降り』などがある。
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〔加藤大治郎〕
埼玉県浦和市出身のオートバイロードレースレーサー。愛称の「大ちゃん」「大治郎」で知られる。15歳でバイクレーサー・サーキートレーサーとしてデビューし、チーム〔ホンダ〕に属し、ホンダのオートバイで活躍するようになる。九州選手権など多くのロードレースでGPチャンピオンなどを獲得した。最終勝利は2001年のブラジルGPだった。
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〔河鍋暁斎〕
河鍋暁斎は、下総国古河出身で、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師であり日本画家である。反骨精神の持ち主で多くの戯画や風刺画を残した。
河鍋暁斎は、天保8年に浮世絵師歌川国芳に入門、洪水時に神田川で拾った生首を写生したという「生首の写生」の伝説を残す。小石川片町の火事でもその写生をしている。そして安政2年の安政江戸地震の時に描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に知られる。暁斎の錦絵第一号である。
その後は、浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を博す。幕末から20年ほどの間、絵日記を書き続け、4年分ほどが残っている。写実的な似顔絵から、その日の天候までありとあらゆる事が記録された貴重な資料となっている。
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〔蟹江一太郎〕
蟹江一太郎は、東海市名和町の農家出身であり、トマトケチャップメーカーで知られる〔カゴメ〕の創業者である。カゴメのブランド・ステートメントは「自然を、おいしく、楽しく」だという。
彼は、働き者であり軍隊時代の上司から西洋野菜の栽培を勧められたことがあった。1899年に名古屋農業試験場からトマトの種子を譲り受けトマトの栽培を開始した。トマトの生産ができるようになっても、まだ日本ではそれほど馴染みのない野菜であまり売れなかった。トマトは生食よりもソースにして使えると知り、試行錯誤の末にトマトソースの製造に成功する。
1906年、愛知県東海市に本格的トマトソース工場を立ち上げ業績を上げた。1914年(大正3年)愛知トマトソース製造合資会社を設立したが、カゴメに名称を変えたのは1963年(昭和38年)のことである。カゴメは、その後もトマトジュースやトマトケチャップを開発するほか、野菜ジュースや植物性乳酸菌飲料などの健康系飲料もレパートリーに加えてきた。
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〔柿本人麻呂〕
柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人である。山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。三十六歌仙の一人でもある。
柿本人麻呂の出自については定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料となっている。天武天皇9年(680年)には出仕していて、天武朝から歌人活動をはじめ、持統朝に花開いたとされる。
人麻呂の歌は、持統天皇の即位から崩御の時代に重なっていて、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとされる。人麻呂は『万葉集』第一の歌人であり、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使した格調高いものである。
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〔角川春樹〕
角川春樹は、富山県中新川郡水橋町出身の実業家であり映画監督、映画プロデューサー、俳人、冒険家である。角川春樹事務所会長兼社長、幻戯書房会長を務める。「俺の魂はスサノオノミコト」だと主張し毎日、祝詞とお経をあげ「私は絶対だ。私は完全だ。私は神なのだ。」と唱えているという。
1965年、角川書店に入社し、1970年以降、映画『ある愛の詩』『いちご白書』の原作本などを刊行している。横溝正史の角川映画で一世を風靡した。
製作作品は無数にあるが、印象に残るものには『犬神家の一族』『人間の証明』『悪魔が来りて笛を吹く』『金田一耕助の冒険』『戦国自衛隊』『野獣死すべし』『魔界転生』『悪霊島』『この子の七つのお祝いに』『魔魔大戦』『時をかける少女』『里見八犬伝』『天と地と』などがある。
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〔葛飾北斎〕
葛飾北斎は、江戸時代後期の浮世絵師で化政文化を代表する一人で、葛飾派の祖である。あらゆる森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を残している。版画だけでなく肉筆浮世絵でも傑作を残している。
代表作のひとつである『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表し、驚異的描写力を見せつけている。また、毛筆による形態描出など絵画技術の普及に大きく貢献した。浮世絵の世界で北斎の存在は空前絶後の巨峰であった。
北斎の作品は、ゴッホなどの印象派画壇の芸術家や工芸家、音楽家にも驚きと影響を与えている。代表作には『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などがあり、世界的にも有名である。
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〔鎌田實〕
鎌田實は、東京都杉並区出身の医師であり作家、ピースボート水先案内人である。東京医科歯科大学医学部を卒業し医師として破産寸前の長野県茅野市にある諏訪中央病院に赴任し「住民とともに作る地域医療」の最前線に取り組んできた。
鎌田實は1歳のとき養子に出された。しかし、成人し37歳のときパスポート申請のために戸籍謄本を見るまで、その事実を知らされていなかった。彼をここまで育てた養父は、青森県から上京して個人タクシーを営なみ、養母は病弱だったという。
1988年に同病院院長に就任し、以降、チェルノブイリ原子力発電所被曝事故被災者の救援に医師団を派遣したり、医薬品を支援している。イラクでも小児病院へ医薬の送付や難民キャンプでの診察などを実践している。東日本被災地への支援も欠かさない。
有名な著書に『がんばらない』があり、2001年に西田敏行の主演でテレビドラマ化されて放映された。ベスト・ファーザーイエローリボン賞、日本放送協会放送文化賞などを受賞した。
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〔鴨長明〕
鴨長明は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人であり随筆家である。京都で賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜(ねぎ)の家に生まれた。
和歌と琵琶を学び、歌人として活躍した。歌林苑の会衆として賀茂重保撰の『月詣和歌集』に入撰したり、『千載和歌集』にも入集している。以降、石清水宮若宮社歌合、正治後度百首などに出詠している。
建暦2年(1212年)に出した『方丈記』は、和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つとなった。他に『無名抄』『発心集』『鴨長明集』『千載和歌集』などにも作品が残っている。
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〔勝海舟〕
勝海舟は、江戸時代末期から明治時代初期の武士であり幕臣・政治家である。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。勝海舟は幼名を麟太郎と称し、しばしば勝麟太郎と呼ばれる。
安政の改革で才能を発揮し長崎海軍伝習所に入所し、万延元年には咸臨丸で渡米した。帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設する。戊辰戦争時、幕府軍の軍事総裁を務め、早期停戦と江戸城無血開城を実現し明治時代を迎える。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任した。
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〔川合玉堂〕
川合玉堂は、日本の明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家である。1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村で筆墨紙商の長男として生まれる。
12歳ころより絵の才能が優れ、幸野楳嶺門下で円山・四条派を学ぶ。23歳で上京し橋本雅邦に師事し、岡倉天心、横山大観らが創立した日本美術院に参加する。1900年頃から私塾「長流画塾」を主宰し、1907年には、第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命されるなど、日本画壇の中心的存在の一人となる。
1940年に文化勲章を受章した。河合玉堂の代表作には『二日月』『行く春』『悠紀主基屏風』『溪山四時図屏風』などがある。
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〔川端康成〕
川端康成は、大阪府大阪市北区此花町出身の小説家である。川端康成は、幼くしてほとんど全ての近親者を亡くして育ったが、中学2年のとき作家を志すようになる。17歳の頃に『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになる。
1924年、東京帝国大学文学部国文科卒業後、横光利一、今東光ら14人とともに同人雑誌『文藝時代』を創刊し、そこに『伊豆の踊子』などを発表し、新感覚派の代表的作家として活躍するようになる。
1968年、日本人初めてのノーベル文学賞を受賞した。1972年(昭和47年)4月16日、満72歳で自殺したが、遺書は残っていなかった。彼の主な作品には『伊豆の踊子』や『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』などがある。
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