これまでは、家格に応じた官職にあったが、宇多天皇に重用され次々と出世する。
・寛平3年(891年)蔵人頭に補任、式部少輔と左中弁を兼務
・翌年従四位下
・寛平5年(893年)参議兼式部大輔、左大弁兼務、公卿に列する。
寛平6年(894年)には、遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。更に、延喜7年(907年)に唐が滅亡し遣唐使の歴史は終結した。
寛平7年(895年)には、参議在任2年半にして、従三位・権中納言に叙任される。翌年には長女衍子を宇多天皇の女御に、更にその翌年には、三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃として皇族との姻戚関係を強化する。
寛平9年(897年)6月には、藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将となり、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。翌月、宇多天皇は醍醐天皇に譲位すると、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許すようになる。
昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べるが、道真の勧める中央集権的な財政に対し、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになる。
儒家としての家格を超えて大臣となる道真の昇進を妬む廷臣も多く、翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に引退するよう諭すが、道真はこれを拒否する。
道真は、昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられるも、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告(ぶこく:わざと事実を偽って告げること)され、罪を得て大宰員外帥に左遷され、子供4人も流刑に処されてしまう。(昌泰の変)
道真が京を去るときに詠んだ句は、いまの人々にも感動をさそう。
「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」がある。
左遷後の道真は、大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去(こうきょ:皇族・三位以上の人の死去)し、安楽寺に葬られた。享年59歳だった。
菅原道真の死後には京に次々と異変が起こる。
・延喜9年(909年)道真の政敵、藤原時平が39歳で病死。
・延喜13年(913年)道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死。
・延喜23年(923年)醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)薨去。
・延長3年(925年)その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)病死。
・延長8年(930年)朝議中の清涼殿に落雷があり、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫はじめ多数の朝廷要人死傷。(清涼殿落雷事件)
・一連の事件を目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御。
このような天変地異が多発したのは道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行うなどさまざまな名誉回復を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
清涼殿落雷事件から道真の怨霊は雷神と結びつくようになる。道真の祟りを鎮めようと、火雷神が祀られていた京都北野に北野天満宮が建立される。その後、百年ほどの間、大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして道真を天神様とする天神信仰が全国に広まる。時が経ち、大災害の記憶が風化すると、かつて道真が優れた学者・詩人であったことから、天神信仰はいつしか学問の神様信仰へと変化する。
菅原道真は、現在では学問の神様として親しまれているのである。
近代以降は忠臣としての面が強調されるようになり、道真の肖像は、1888年~1943年の間、5円札、20円札、35円札などに用いられた。また、第一高等学校では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に、文人の代表として菅原道真、武人の代表として坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
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