頼山陽の父親・頼春水は若くして詩文や書に秀でる人物で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀北に私塾「青山社」を開いていた。この江戸堀北は、現在の大阪市西区江戸堀の金光教玉水教会付近とされる。 |
頼山陽の父親・頼春水は若くして詩文や書に秀でる人物で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀北に私塾「青山社」を開いていた。この江戸堀北は、現在の大阪市西区江戸堀の金光教玉水教会付近とされる。 |
天明元年(1781年)12月に、父・春水が広島藩の学問所創設にあたり儒学者として登用され、転居。城下の袋町(現・広島市中区袋町)に移動したため、山陽はここで育った。 |
文化13年(1816年)に父・春水が死去するとその遺稿を『春水遺稿』として上梓する。その翌々年には九州へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得る。 |
◆〔頼山陽〕のプロフィール。 |