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〔ら〕で始まる日本の偉人

頼山陽

〔日本の偉人〕

頼山陽

 

 頼山陽の父親・頼春水は若くして詩文や書に秀でる人物で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀北に私塾「青山社」を開いていた。この江戸堀北は、現在の大阪市西区江戸堀の金光教玉水教会付近とされる。

 山陽は、安永9年(180年)にこの地で誕生したが、母親の頼梅?は歌人であった。

頼山陽の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)

 天明元年(1781年)12月に、父・春水が広島藩の学問所創設にあたり儒学者として登用され、転居。城下の袋町(現・広島市中区袋町)に移動したため、山陽はここで育った。



 頼山陽自身も父親と同様に、幼少時より詩文の才能に恵まれ、歴史にも特別な興味を抱いた。

 その後、春水が江戸在勤となると、学問所教官を務めていた叔父の「頼杏坪」に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学、父の学友である尾藤二洲に師事する。

 しかし、頼山陽は学者として自らの名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811年)突然、京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。

 文化13年(1816年)に父・春水が死去するとその遺稿を『春水遺稿』として上梓する。その翌々年には九州へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得る。

 六年後の文政5年(1822年)には、東山を眺望できる屋敷「水西荘」を構え、著述に没頭する。そして、文政9年、彼の代表作となる『日本外史』を完成し翌年には、江戸幕府老中・松平定信に献上する。

 文政11年には文房「山紫水明処」を造営する。山陽の周辺には、大坂、京都をはじめ岡山、広島、九州からも多くの文人画家が集まり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。

 その後も文筆活動を続け、『日本政記』『通議』などの完成を急いだが、51歳ごろから体調を壊し、天保3年9月23日(1832年)に絶命する。

 彼は息を引き取る数分前まで、手にした筆を離さなかったという。遺稿とされる「南北朝正閏論」の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったと記している。「南北朝正閏論」は『日本政記』に所収されている。

 頼山陽は「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立て、多くの作品を残した。これは、中国前漢時代の歴史家・司馬遷が『史記』の構成を「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」を模しているとされる。

 『史記』での最重要部分「列伝」に該当するものがないが、十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、それに相当すると考えることもできる。

 『日本外史』は全二十二巻?冊からなるが、源氏、平氏のほかに、北条氏、楠氏、新田氏、足利氏、毛利氏、後北条氏、武田氏、上杉氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏からなる、13武家について書かれています。


偉人のプロフィール

プロフィール
通称 頼 山陽(らい さんよう)
本名 頼 山陽(らい さんよう)
別名

〔幼名〕久太郎(ひさたろう)
〔名〕襄(のぼる)
〔字〕子成、
〔号〕山陽、三十六峯外史

称号 〔称号〕
・贈正四位
時代 江戸時代後期
生誕

〔生誕〕安永9年12月27日(1781年1月21日)
〔生誕地〕大坂生まれ

死没 〔死没〕天保3年9月23日(1832年10月16日)(享年53歳)
〔没地〕
〔墓所〕京都市三本木
国籍 日本国
言語 日本語
居住地
学歴 〔学歴〕
・父親の私塾「青山社」
・広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)
・学問所「頼杏坪」
職業 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人
分野 〔研究分野〕
・日本の歴史研究
・主な武家の歴史などを説明する『日本外史』の作成。
所属
業績  有名な『日本外史』を著述した。この書籍は、日本史上のベストセラーであり、幕末の尊皇攘夷運動に多大な影響を与えた。
作品 〔自著〕
 『日本外史』
 『日本政記』
 『山陽詩鈔』
 『山陽遺稿』
 『日本楽府』
 『通議』
 『春水遺稿』

〔他の著作〕
 『日本の名著28 頼山陽』
 『日本思想大系49 日本政記』
 『新日本古典文学大系66 頼山陽・菅茶山』
 『江戸詩人選集8 頼山陽 梁川星巌』
 『頼山陽詩選』
 『頼山陽詩抄』
 『文人画粋編18 頼山陽』
 『頼山陽 書画題跋評釈』
受賞歴
名言 〔頼山陽の名言〕

・大利の在る所は、大禍の伏する所なり老いて病み恍惚として人を識らず。

・中秋無月母に侍す。

・兵の勝敗は人にありて器にあらず。

・汝、草木と同じく朽ちんと欲するか。

・男子学ばざれば、すなわち已(や)む。学ばば当に(まさに)羣(むれ)を超ゆべし。
 (「羣」は「群」の旧字体。)

・老いて病み恍惚として人を識らず。

・鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)夜河を渡る~〉
 『川中島』:頼山陽が作成した詩吟です。

 鞭声粛粛 夜河を過る
 曉に見る千兵の 大牙を擁するを
 遺恨なり十年 一剣を磨き
 流星光底 長蛇を逸す

 (上杉謙信の軍は)鞭の音もたてないように静かに、夜に乗じて川を渡った。明け方、武田信玄方は、上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て、大いに驚いた。

 しかし、まことに残念なことには、この十数年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃(やいば)がキラッと光る一瞬のうちに、あの憎い信玄を打ちもらしてしまった。

サイト
その他  頼山陽は、詩吟・剣舞でも馴染み深く「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名である。


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