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〔濱口雄幸〕

 

 濱口雄幸は、明治3年(1870年)土佐国長岡郡五台山で生まれた日本の大蔵官僚であり政治家である。出生時に「幸雄」と命名されたのだが、出生届けを出しに行った父親が酒を飲み酩酊していて、誤って「雄幸」と記入したため、このような名前になった。

 明治28年(1895年)、現在の東京大学の前身となる、帝国大学法科を卒業した。同窓会に「二八会」があり、この会は後に政治ネットワークへと発展した。大蔵省に入省後、大蔵次官などを務め、立憲同志会入党を経て衆議院議員に当選する。


 大蔵大臣、内務大臣、内閣総理大臣、立憲民政党総裁などを歴任した。

 総理大臣として、緊縮政策を断行したり、野党である立憲政友会の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。

 浜口雄幸は、官僚出身の政治家であったが、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。彼の謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた総理大臣であった。


 第一次世界大戦が、連合国の勝利に終わると、海軍省・海軍軍令部は帝国国防方針に基づく八八艦隊確立のため、際限なき国防費増額を要求していた。

 海軍費の際限ない膨張、とりわけ列国間の建艦競争の激化が、国民の生活を圧迫すること、いずれ米国が大国になることを考えれば、英米との対決は不可能であることを承知していた。

 浜口は、戦後不況、社会不安が懸念される中で、軍拡から軍縮に転換することで捻出される軍縮余剰金を財源にして、国民負担を軽減する施策を提示したのである。積極財政から緊縮財政へ転換するという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価される。

 半面で、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し社会不安を増大させるなどの問題を招いた点も見逃せない。

 第一次世界大戦後の国内好況が既に終わりを告げて久しく、1927年(昭和2年)に起きた金融恐慌もあり、長い不況に喘ぐなか、軍拡の動きも活発であった。浜口は、この不況脱出のためには、金解禁(金輸出解禁)が不可欠とし断行したが、これは経済的失策であった。

 濱口内閣の政策が国内で激しい批判に晒される中、1930年(昭和5年)11月14日朝、東京駅において銃撃される。一命は取り留めたものの、結局、総理職続行は不可能と判断し首相を辞任し、民政党総裁も辞任した。そして、8月26日に死去した。



偉人のプロフィール

〔濱口雄幸〕のプロフィール。

〔濱口雄幸〕

濱口雄幸の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)
プロフィール
通称

〔通称〕
・濱口 雄幸(はまぐち おさち)

本名

〔本名〕
・濱口 雄幸(はまぐち おさち)

別名

〔号〕空谷
〔綽名〕ライオン宰相

称号

〔栄典〕
・勲三等瑞宝章
・勲二等瑞宝章
・金盃一組
・従三位
・勲一等瑞宝章
・旭日大綬章
・帝都復興記念章
・旭日桐花大綬章

時代

〔時代〕
・明治時代~昭和時代初期

生誕

〔生誕〕1870年5月1日(明治3年4月1日)(61歳没)
〔生誕地〕土佐国長岡郡五台山

死没

〔死没〕1931年(昭和6年)8月26日
〔没地〕東京府
〔墓所〕東京都港区・青山霊園

国籍 日本国
言語 日本語
居住地

学歴

〔学歴〕
・旧制高知中学
・第三高等中学校
・帝国大学法科政治学科

・法学士(帝国大学・1895年)

職業

〔職業〕
・日本の大蔵官僚
・政治家

分野

〔ジャンル〕
・日本の政治

所属

〔所属政党〕
・立憲同志会
・憲政会
・立憲民政党

〔前職〕
・大蔵省官僚
・専売局長官
・逓信次官
・大蔵次官

〔国政〕
・衆議院議員
・大蔵大臣(第25代)
・内務大臣(第43代)
・内閣総理大臣(第27代)
・立憲民政党総裁

業績

〔業績〕
・1929年7月2日、立憲民政党初代総裁として、内閣総理大臣に就任して組閣を行う。明治生まれでは初の内閣総理大臣である。

・財界からの信任のある、井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行する。

・野党・立憲政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。

作品

〔著作〕
 『濱口雄幸 日記・随感録』
 『濱口雄幸集 論述・講演篇』
 『濱口雄幸集 議会演説篇』
 『濱口雄幸 随感録』

受賞歴

名言

〔濱口雄幸の名言〕

・我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず。

・我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず。

・唯一正道を歩まん、仮令玉砕すとも男子の本懐ならずや。



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