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アマゾン〔地域別偉人〕アジア圏の偉人日本 |
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日本にも世界に誇れるような偉人は非常に多く、このサイトでは300人以上の偉人を選んでいます。
・石原裕次郎
過去の日本の歴史をつくってきた偉人には、織田信長や徳川家康、豊臣秀吉などがいます。近年の歴史に大きく貢献した偉人には、坂本竜馬がいます。 |
アントニオ猪木 |
アントニオ猪木は、日本を代表する元プロレスラーのひとりで実業家、政治家でもあります。愛称を〔アントン〕といい、新日本プロレス時代のキャッチフレーズは〔燃える闘魂〕、日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは〔若獅子〕でした。 |
赤﨑勇(赤崎勇) |
赤﨑勇は、日本の化学工学者で、工学博士です。名城大学大学院理工学研究科終身教授、名城大学窒化物半導体基盤技術研究センター長、松下技研株式会社半導体部長、名古屋大学工学部教授などを歴任した。 窒化ガリウムの結晶化の研究により青色発光ダイオードの開発の基礎を創り、その業績により日本学士院賞恩賜賞など各賞を受賞した。更に2014年度には天野浩、中村修二と共にノーベル物理学賞を受賞した。 |
天野浩 |
天野浩は、日本の電子工学者、工学博士で、半導体工学の研究が専門である。名古屋大学大学院工学研究科教授、同大学赤﨑記念研究センター長、名城大学LED共同研究センター運営委員を歴任している。 赤崎勇の指導下で、世界初の青色発光ダイオード(青色LED)の開発に成功し、その業績により2014年、赤崎勇、中村修二とともにノーベル物理学賞を受賞した。 |
安藤百福 |
安藤百福は、世界初の一般食品としてのインスタントラーメン「チキンラーメン」を発明したことで知られる。日清食品株式会社の創業者であり、世界初となるカップ麺「カップヌードル」を開発した。 1961年、チキンラーメンの商標登録が確定したが、安藤は「日清食品が特許を独占して野中の一本杉として栄えるより、大きな森となって発展した方がいい」という有名な言葉を残し、真の偉人となった。 |
安倍晋三 |
安倍晋三は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員であり、内閣総理大臣を二度にわたって務めている。第一次阿部内閣時は体調を崩し無残な政治を行ったが、二度目の政権時には、いわゆるアベノミクスという政策を掲げ、長年デフレで悩んできあ日本の経済を立て直ししつつある。 |
安倍晴明 |
安倍晴明は、平安時代の陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。 安倍晴明一族が非常に克明に星の観察して天喜2年(1054年)のかに星雲での超新星爆発を発見している。その他にも二つの超新星爆発の発見もし、世界でも唯一の天文学における貴重な資料となっている。これらの記録は、後に藤原定家によって記録に残されている。 |
芥川龍之介 |
芥川 龍之介は、日本の小説家で、号は澄江堂主人、俳号は我鬼という。彼の作品には短編が多く、文章構成には、論理的によく整理された簡潔・平明な筆致に特徴がある。 彼の作風には、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの古典から題材をとったものも多くあり、代表作には『蜘蛛の糸』『芋粥』『杜子春』『羅生門』『鼻』『戯作三昧』『地獄変』『藪の中』『河童』『歯車』などがある。 |
新井白石 |
新井白石は、江戸時代中期の旗本であり政治家・学者である。無役の旗本であったが、六代将軍・徳川家宣の幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代を築いた。 朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学など多岐に亘る学問が得意であり、詩人でもあり多くの漢詩を残している。 |
青山剛昌 |
青山剛昌は、日本の漫画家である。日本大学芸術学部美術学科絵画コースを卒業している。1986年小学館新人コミック大賞入選、第38回小学館漫画賞児童部門受賞などに入賞している。多くの漫画作品があるが、中でも『名探偵コナン』シリーズは有名で、TVでも連続放映されている。 |
青木昆陽 |
青木昆陽は、江戸時代中期の儒学者であり蘭学者でもある。京都の儒学者伊藤東涯に学び、江戸に帰府して開塾している。評定所儒者、書物奉行であり、救荒食物としてサツマイモの栽培を推進した。一般には〔甘藷先生〕と称されている。 |
青木周蔵 |
青木周蔵は、明治、大正期の日本の外交官であり政治家である。何度かの外務大臣を歴任している。 |
青江三奈 |
青江三奈は、東京都江東区砂町出身の歌手で、ハスキーヴォイスで演歌・歌謡曲などを歌った。代表曲に『恍惚のブルース』『伊勢佐木町ブルース』『札幌ブルース』『長崎ブルース』『新宿サタデーナイト』『池袋の夜』『国際線待合室』『夜の瀬戸内』『木屋町の女』『大田ブルース』などがある。 |
浅井慎平 |
浅井慎平は、愛知県瀬戸市生まれの写真家で、1954年に広告写真の登竜門である日本広告写真家協会賞を受賞し、ビートルズ来日時に密着写真集を発刊、評判となりました。その後も湘南をはじめ世界各地の海の写真を発表しています。 彼は、写真のほか俳句や小説、ガラス工芸等にも異才を発揮し、従来の写真とは味わいの異なる作品を世にだしています。 |
浅井長政 |
浅井長政は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将である。 北近江の戦国大名として浅井氏を成長させ、妻の兄である織田信長と同盟を結び浅井氏全盛期を築いたが、後に織田信長と決裂し戦い、戦に敗れて自害して果てた。浅井家3代目にして最後の当主となった。 |
浅野長矩 |
浅野長矩は、播磨赤穂藩の第3代藩主であり、官位は従五位下内匠頭である。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼ばれる。 吉良上野介のいじめに耐えきれず殿中にて刃傷におよび即日切腹して果てた。後に『忠臣蔵』として演劇化された元禄赤穂事件の発端となった。吉良上野介は、筆頭家老、大石内蔵助良雄が率いる47士により仇討され死去した。 |
相田みつを |
相田みつをは、最近の人ですが、味わいのある言葉を残した人として有名です。彼の作品は暖簾や色紙に特有な文字として残されています。彼の代表的な作品には『にんげんだもの』『おかげさん』『ひとりしずか』『一生燃焼』『一生感動』『一生不悟』などがあります。 |
足利尊氏 |
足利尊氏は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将である。室町幕府の初代征夷大将軍で足利将軍家の祖である。元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵の際、鎌倉幕府軍を率いてその鎮圧のため上洛したが、幕府への反乱を起こし、六波羅探題を滅ぼし、鎌倉幕府を滅亡させた。 その後、中先代の乱を鎮圧し鎌倉で独自政権樹立を目指したが、天皇との関係が悪化し、いったんは九州へ没落したが、再び上洛し京都を制圧した。そして、光明天皇を擁立して征夷大将軍に補任され新たな武家政権、室町幕府を開いた。 |
天草四郎 |
天草四郎は、一般には天草四郎時貞として知られる。江戸時代初期のキリシタン大名で幼少時より聡明でカリスマ性のある人物とされ、小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化されていた人物である。 1637年に勃発して島原の乱の一揆軍の総大将である。幕府の攻撃による原城陥落後の生死は不明のままとなっている。 |
明智光秀 |
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。織田信長の重臣の一人であったが、信長に冷遇されたことにより、「敵は本能寺にあり」の号令のもと、本能寺の変を起こし信長を滅ぼし、一時は京都を手中に収めた。 本能寺での急を知った羽柴秀吉は、戦の最中にあった毛利氏と急遽和睦し、引っ返してきた。山崎の要衝天王山での戦いによって、明智軍は敗北し、光秀は敗走するも落ち武者狩りする農民によって竹槍で衝かれ負傷し自刃する。領国では善政を行ったとして知られ、領国内各地で祀られている。 |
いかりや長介 |
日本のコメディアン・俳優・ベーシスト・タレント。「ザ・ドリフターズ」(略称:ドリフ)の3代目リーダーで、本名は碇矢長一で愛称は「長さん」と呼ばれた。 TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡し、その後、俳優・タレントとして活躍したドラマ『踊る大捜査線』では、ベテラン刑事で渋みの和久平八郎役を演じ人気を博した。 |
イチロー |
イチローは、本名、鈴木一朗と称するプロ野球選手(外野手)で、「Ichiro」「Ichiro Suzuki」「イチロー・スズキ」などとも呼ばれる。日本での愛称は「イチ」「天才バッター」、アメリカでは「魔法使い(Wizard)」「安打製造機(Hit Machine/Hitting Machine)」などと称されている。 NPB・MLBの双方で活躍した。MLBのシーズン最多安打記録や10年連続200安打などの多数の記録を保持していて、将来、野球殿堂入りすることは確実である。 |
伊藤博文 |
日本の武士・長州藩士・政治家で、長州藩の私塾、松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後、岩倉使節団の副使・参議兼工部卿などを務め、大日本帝国憲法の起草に貢献した。初代以降、全四代にわたって内閣総理大臣を務めた。また、初代枢密院議長・初代貴族院議長・初代韓国統監を歴任した。1909年、ハルビンで朝鮮民族主義活動家の安重根によって暗殺された。69歳だった。 |
伊能忠敬 |
江戸時代の商人・測量家。寛政12年(1800年)~文化13年(1816年)の足かけ17年間、日本全国を測量し、当時の世界史上でも稀にみる精度で『大日本沿海輿地全図』を完成させた。これにより日本全国の正確な地図が完成した。 |
井伊直弼 |
井伊直弼は、幕末の譜代大名で近江彦根藩の第15代藩主である。幕末期、江戸幕府の大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。 安政の大獄と呼ばれる強権政治により反対勢力を粛清したが、桜田門外の変により暗殺された。 |
井深大 |
井深大は、日本の電子技術者で実業家で、盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人である。大学卒業後、写真化学研究所(PCL)に入社し、自ら発明した「走るネオン」という製品がパリ万博博覧会で金賞を獲得した。 その後、日本光音工業に移籍後、日本測定器社を設立して常務に就任した。敗戦直後の1945年10月、個人企業「東京通信研究所」を立ち上げ、やがて盛田昭夫らと合流する形で、後のソニーとなる東京通信工業を創業した。多くの革新的商品により戦後日本経済の奇跡的な復興に寄与した。 |
一休宗純 |
室町時代の臨済宗の僧一休宗純の愛称。自由奔放な性格の持ち主で、その生涯に様々な説話を残すとともに、ちょっとした奇行なども多かったと伝えられる。仏教の戒律で禁じられた飲酒や肉食を好むばかりか、女性をも愛したとされている。江戸時代に説話『一休咄』が作られ、頓知で有名となる。 |
稲盛和夫 |
稲盛和夫は、日本の実業家であり後のKDDIとなる京セラ・第二電電の創業者である。1959年、社員8人で、後の京セラとなる京都セラミツクを設立し、1966年には社長に就任した。 1984年には第二電電(DDI)を設立し、後にケイディディ、日本移動通信を合併してKDDIとなる。「アメーバ経営」と呼ばれる独特な経営管理手法で知られる。 |
岩倉具視 |
岩倉具視は、日本の公家で政治家である。当初は公武合体に努め、後に討幕運動に参加した。明治維新後は右大臣となり,特命全権大使として欧米を視察している。帰国後征韓派を退け、内治優先・天皇制確立の政策を遂行した。 |
岩沢正作 |
岩沢正作は、明治~昭和時代前期に活躍した考古学者で、『赤城山廻遊案内』という書籍を書いています。群馬県内の中学などで博物学を教えるかたわら県内出土の土器や石器を収集・研究した学者でした。彼の研究が、約100年後に群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、火山灰層から甲(よろい)を着た人骨の発見へと繋がったのでした。 |
犬養毅 |
犬養毅は、日本の政治家である。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁、文部大臣、逓信大臣、内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣などを歴任した。 1932年5月15日、海軍青年将校と陸軍士官候補生の一団が乱入し、犬養を暗殺した。世にいう〔515事件〕である。このとき、犬養は「話せば分かる」という名文句を残している。 |
五木ひろし |
五木ひろしは、1971年の『よこはま・たそがれ』でデビュー以来、非常に多くのヒット曲を歌う人気歌手です。ヒット曲には、『千曲川』『おまえとふたり』『ふたりの夜明け』『契り』『細雪』『浪花盃』『長良川艶歌』『山河』『凍て鶴』『おしろい花』『夜明けのブルース』『博多ア・ラ・モード』など多数があります。 |
今川義元 |
今川義元は、戦国時代の武将である。駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名で、今川氏第11代当主である。合理的軍事改革などで今川氏を戦国大名にまで転身させた。 所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大して今川家の最盛期を築き上げたが、尾張国への侵攻の折り、桶狭間において織田信長の奇襲によりあえなく戦死している。 |
糸川英夫 |
糸川英夫は、日本の工学者で専門分野は航空工学、宇宙工学である。有名なペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれている。 東大航空学科を卒業すると中島飛行機に入社し、帝国陸軍の九七式戦闘機などの設計に関わる。1955年のペンシルロケット、それ以降のロケット、カッパ、ラムダ、ミュー、おおすみなどを開発した。最近、幾多の困難を乗り越えて帰還した小惑星探査機〔はやぶさ〕が探査した小惑星に〔イトカワ〕の名が残された。 |
石ノ森章太郎 |
石ノ森章太郎は、日本の漫画家、特撮作品原作者である。SF漫画や学習漫画など多くの作品を量産し「漫画の王様」「漫画の帝王」と称される 代表作に『サイボーグ009』『ロボット刑事』『さるとびエッちゃん』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』などがある。仮面ライダーシリーズなどの特撮作品の原作者でもある。 |
石原裕次郎 |
日本の俳優・声優・歌手。司会者やモデル・実業家・ヨットマンとしても知られる、現在で言うマルチタレントとして活躍した。石原軍団総帥、石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長。愛称をタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージローなどと親しまれ、没後数十年を経た現在でもファンの心に深く残っている。 彼の代表映画には『嵐を呼ぶ男』や『陽のあたる坂道』『銀座の恋の物語』『赤いハンカチ』『黒部の太陽』などがある。彼の歌『銀座の恋の物語』や『赤いハンカチ』『夜霧よ今夜も有難う』『港町 涙町 別れ町』『ブランデーグラス』『みんな誰かを愛してる』『わが人生に悔いなし』『北の旅人』は現在でもカラオケでよく歌われる。 |
石川さゆり |
石川さゆりは、日本の演歌歌手である。小学1年の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動し歌手を志すようになる。中学校3年時、フジテレビの「ちびっ子歌謡大会」で合格し、連続ドラマ『光る海』レギュラー出演するようになる。 1973年、アイドル歌手としてデビュー、1977年に『津軽海峡・冬景色』の大ヒットにより、日本レコード大賞などを受賞し、本格的演歌歌手となる。ヒット曲に『天城越え』『夫婦善哉』『滝の白糸』『風の盆恋歌』などがある。 |
石川啄木 |
石川啄木は、日本の歌人であり詩人である。与謝野鉄幹の知遇を得て詩人としてデビューした。 代表作に、詩集『あこがれ』、歌集『一握の砂』などがある。大逆事件を契機に社会主義思想に目ざめたが、肺疾患と窮乏のうちに死去した。 |
石田三成 |
石田三成は、安土桃山時代の武将で大名である。豊臣氏の家臣で、豊臣政権の五奉行の一人である。 天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が討たれると、秀吉が台頭するが、秀吉の絶大な信頼を受けて豊臣政権を支える。秀吉の死後、やがて天下分け目の戦い〔関ヶ原の戦い〕が起こる。三成は西軍側の主導者として戦うが徳川家康の率いる東軍との戦に敗れ、六条河原で斬首され果てる。 |
泉鏡花 |
泉鏡花は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した日本の小説家である。尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』で評価を得るようになり、『高野聖』で人気作家として世に知られる。 江戸文芸の雰囲気が残る怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られ、近代における幻想文学の先駆者とされる。代表作に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。 |
板垣退助 |
板垣退助は、日本の武士で土佐藩士であり政治家である。自由民権運動の主導者として知られている。 死去後も民主政治の草分けとして名高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。 |
宇沢弘文 |
宇沢弘文は、日本の経済学者で、特に専門は数理経済学で、東京大学名誉教授である。意思決定理論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などの功績で知られる。 1983年文化功労者、1989年日本学士院会員、1995年米国科学アカデミー客員会員、1997年文化勲章、2009年ブループラネット賞などを受賞している。 |
宇野重吉 |
宇野重吉は日本の俳優で演出家である。滝沢修らと共に劇団民藝を創設し、第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界で活躍した名優として知られる。リアリズムを基調とした近代的な芸を貫いていた。長男に俳優の寺尾聰がいる。 |
上杉謙信 |
戦国時代の越後国の武将・戦国大名。〔越後の虎〕とか〔越後の龍〕〔軍神〕などと称されている。越後国の守護代を務めていた長尾氏の出で、初名は〔長尾景虎〕として知られる。越後国を統一し産業を振興して繁栄に導いた。他国救済の要請のもとに多数回出兵し戦に挑んだ。武田信玄、北条氏康、織田信長などとの多くの戦いを繰り広げたが、中でも武田信玄とは川中島で五回の戦をしている。 |
上田秋成 |
上田秋成は、江戸時代後期の読本作者であり歌人、茶人、国学者、俳人として知られている。怪奇小説が有名で、中でも怪異小説『雨月物語』は超有名である。 |
植村直己 |
日本の登山家・冒険家・探検家。1941年、農家の末っ子として生まれる。少年期に学校行事で蘇武岳に登ったのを切っ掛けに山に登るようになる。明治大学に入ると山岳部に入部して登山に没頭し、海外の山への憧れをつのらせる。ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと資金稼ぎのためにアメリカで働くなどの苦労を重ねる。1965年、明治大学のゴジュンバ・カン登頂隊に途中参加し登頂を果たし、続いてマッターホルンやアフリカ最高峰キリマンジャロ、南米最高峰アコンカグアの単独登頂に成功する。更に、エベレスト南東稜から登頂に成功する。1970年にマッキンリー単独登頂を成功させ、世界初の五大陸最高峰登頂者となった。1984年、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたが、その後消息不明となる。 |
内村鑑三 |
内村鑑三は、日本のキリスト教思想家であり文学者、伝道者、聖書学者である。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えたことで知られる。 |
梅原龍三郎 |
梅原龍三郎は、日本の洋画家である。ヨーロッパで油彩画を学び、日本の伝統的な美術技法である桃山美術や琳派、南画などを自由に取り入れることで、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を創作した。昭和の一時代に日本洋画界の重鎮として君臨した。 |
栄西 |
栄西は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、明菴栄西とも呼ばれる。生地は備中国賀陽郡、現在の岡山県加陽郡は現在加賀郡吉備中央町とされる。 臨済宗の開祖であり建仁寺を開山した。また、天台密教葉上流の流祖である。廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られている。 |
円空 |
円空は、江戸時代前期の行脚僧であり木彫りの仏像を製作する名人であった。日本全国を行脚して歩き、各地に「円空仏」と呼ばれる独特な作風の仏像を残している。推定では、円空は生涯に約12万体の仏像を彫ったとされ、現在までに約5350体が発見されている。 多くの仏像を残したが、それぞれに同じものはなく個性的な作風となっている。彼はまた仏像以外にも多くの和歌や大般若経の扉絵なども残している。 |
遠藤周作 |
遠藤周作は、日本の小説家であり随筆や文芸評論や戯曲も手がけたことで知られる。父親の仕事の関係で幼少時代は満州で過ごし、その後はカトリックの洗礼を受けている。 代表作に『白い人』『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。 |
江戸川乱歩 |
江戸川乱歩は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家であり推理作家である。現実世界でも探偵として探偵事務所に勤務していた経歴を持っている。
戦後は推理小説専門の評論家としても活躍した。日本推理作家協会初代理事長を務めた。 |
江崎玲於奈 |
江崎玲於奈は、日本の物理学者である。1947年に東京帝国大学を卒業すると現在の富士通テンに入社、真空管の陰極からの熱電子放出の研究を行い、1956年には現在のソニーに移籍し、半導体を研究した。 ゲルマニウムPN接合の研究中にトンネル効果の影響で、電圧を上げるほど逆に電流が減少する負性抵抗現象を発見した。これにより新しい電子デバイスであるトンネルダイオードが誕生した。その功績により1973年、ノーベル物理学賞を受賞している。 |
王貞治 |
王貞治は、日本生まれで中華民国籍の元プロ野球選手でありプロ野球の監督である。現役時代に一本足打法と呼ばれる独特の打法で、通算本塁打868本を記録した。同時代の長嶋茂雄とともにON砲として活躍し、巨人軍のV9に貢献した。現役引退後は巨人、ダイエー・ソフトバンクで監督を歴任した。 1977年には初めて国民栄誉賞を受賞した人物として知られ、2010年には文化功労者として顕彰された。 |
岡潔 |
岡潔は、日本の数学者で、奈良女子大学名誉教授、理学博士である。フランス留学時代に多変数複素函数論に出会い生涯を通じて研究し、発展途上であった多変数解析函数論の研究で大きな業績を残した。 岡潔は、その時代の数学の三つの大問題を解決したことで知られている。中でも、ハルトークスの逆問題(レヴィの問題)の解決は有名である。彼の功績は、たった一人の数学者によるものとは信じられないほどのものであったという。 |
岡倉天心 |
岡倉天心は、福井藩の武家の子として横浜に生まれた日本の思想家で文人である。現在の東京藝術大学の前身の一つである東京美術学校の設立に大きく貢献したほか、日本美術院を創設したことで知られる。 |
岡田紅陽 |
岡田紅陽は、新潟県出身、早稲田大学卒の日本の写真家である。1923年の関東大震災の被害状況を東京府の嘱託として撮影したことで有名である。 1925年に写真スタジオを設立し、主に山岳写真、風景写真を撮影、富士山の撮影をライフワークとしていた。1952年には日本写真協会を創設している。主な写真集には『関東大震大火記念写真帖』『東京震災写真帖』『写真の知識』『岡田紅陽の富士百影作品集』『富士山』『富士』などがある。 |
岡本太郎 |
岡本太郎は、日本の芸術家であり、絵画、彫刻、陶芸、書道、写真、著述業に業績がある。昭和5~15年にフランスで学び、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流がある。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作した。 岡本太郎の代表作には、『傷ましき腕』『重工業』『明日の神話』などのほか、大阪万博で作成された巨大な『太陽の塔』などがある。 |
沖田総司 |
幕末の武士・新撰組一番隊組長及び撃剣師範。文久3年、浪士組結成に参加して上洛し、近藤勇に従い新選組を結成し、一番隊組長となる。芹沢鴨暗殺や大坂西町奉行所与力・内山彦次郎暗殺など手がけたとされる。元治元年の池田屋事件でも近藤らと共に最初に池田屋に切り込んだが、奮戦中、喀血により戦線離脱したといわれる。体調悪化の後、病死した。享年は22歳、24歳、27歳と3説があるが定かでない。 |
仰木彬 |
福岡県出身のプロ野球選手・プロ野球監督・野球解説者。西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍した野球選手で、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任。阪神大震災後に『がんばろうKOBE』の合言葉のもと快進撃を果たした。 |
小津安二郎 |
小津安二郎は、日本の映画監督で脚本家である。〔小津調〕と呼ばれる独特の映像世界を創りだし、多くの作品を発表し、日本ばかりでなく世界からも高く評価されている。 小津安二郎の代表作には『東京物語』『彼岸花』『お早よう』『秋日和』『秋刀魚の味』『晩春』『麦秋』『お茶漬けの味』『早春』『東京暮色』『出来ごころ』『母を恋はずや』『浮草物語』『東京の宿』『一人息子』『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』『父ありき』『長屋紳士録』など多数がある。『東京物語』などでは女優の原節子と組んだ作品群の評価が高い。 |
小尾信彌 |
小尾信彌は、日本の天文学者で天体物理学を専門としている。東大理学部天文学科卒業後、技官として東京天文台(現・国立天文台)で活動し、戦後の東京天文台における観測装置復旧の最初期の技術者であった。小学校時代の同級生に同じ天文学者の村山定男がいる。 太陽観測及び天体観測において、恒星進化の研究を中心として行う。日本国内における恒星物理学的観測研究の魁となる。野辺山太陽電波観測所などの設営チームに加わる。天文学者ではあるが、教育者的側面が多く、非常に多くの著作を残しているほか、ジョージガモフの書籍などの翻訳もしている。 |
小野小町 |
小野小町は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話をもち、後世に能や浄瑠璃などの題材ともなったが、小野小町像とされる絵や彫像は現存しない。 |
小野妹子 |
小野妹子は、近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身の飛鳥時代の政治家で外交家である。『日本書紀』によれば大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。 彼は、日本の通説で『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者であるとされる。 |
小渕恵三 |
小渕恵三は、群馬県出身の日本の政治家である。衆議院議員、総理府総務長官、沖縄開発庁長官、内閣官房長官、外務大臣、内閣総理大臣、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁、自由民主党総裁などを歴任した。長らく竹下登の側近として活躍し、円満な性格から「人柄の小渕」の異名をもっている。 |
織田信長 |
戦国時代から安土桃山時代の武将・戦国大名。天下布武をとなえ、天下統一を目前にしたが重臣明智光秀に反旗を許し本能寺で自害。 |
太田清蔵 |
太田清蔵(5代目)は、現在の福岡県福岡市出身の日本の実業家である。元東邦生命保険会長・社長を歴任した。東邦生命社長の傍ら、大丸を福岡に誘致するなど、福岡市の経済発展に大きく貢献した。 浮世絵が日本の代表的絵画であると認識し、江戸末期より明治にかけて多数の浮世絵が欧米に流出したことを嘆き、浮世絵の蒐集に努めた浮世絵コレクターとして知られる。 |
大塩平八郎 |
大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者、陽明学者で、大坂町奉行組与力である。天保の大飢饉の時代、各地で百姓一揆が多発し大坂でも米不足が起こっていた。平八郎は奉行所に民衆の救援を提言したが拒絶され、仕方なく自らの蔵書を売却した資金で救済に努めた。 世情を顧みず米の買い占めなどする大坂町奉行や豪商に対して、もはや武装蜂起以外にないと考え、天保8年2月19日に蜂起すべく準備を進めた。しかし、密告により決起当日に鎮圧されてしまう。世にいう〔大塩平八郎の乱〕である。 |
大久保利通 |
日本の武士で薩摩藩士・政治家。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで〔維新の三傑〕と称される。維新十傑の1人でもある。文久2年、久光を擁立し京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向し、やがて久光の側近となる。公武合体路線から武力倒幕路線を指向するようになる。小松、西郷らとともに倒幕を計画したが、江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、王政復古のクーデターを実行。明治時代になり、初代内務卿の実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、富国強兵を唱え殖産興業政策を推進した。 |
大隈重信 |
大隈重信は、日本の武士、佐賀藩士であり、尊皇攘夷派志士として活躍した。明治維新後、明治3年に参議となる。6年大蔵省事務総裁、ついで大蔵卿に就任する。征韓論争後、財政の責任者として大久保利通を補佐した。 明治14年の政変で失脚するも、15年には立憲改進党を組織し、後の早稲田大学の前身となる東京専門学校創立者であり早稲田大学初代総長となる。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任した。 |
大石内蔵助 |
江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。俗称は大石内蔵助だが本名は大石良雄である。元禄赤穂事件で有名となり、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で名を残した。 |
尾崎行雄(尾崎咢堂) |
尾崎行雄は、日本の政治家であり尾崎咢堂とも呼ばれる。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、「憲政の神様」「議会政治の父」と称される。 |
尾崎放哉 |
尾崎放哉は、日本の俳人で、種田山頭火らと並び自由律俳句の最も著名な俳人の一人とされる。東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険に勤務し出世コース真っ只中のエリートだったが、突然その生活を捨てて、俳句三昧の生活を送るようになる。 最終的には、小豆島で極貧の中、俳句人生を送った。並ならぬ癖の悪さから周囲と和合することはなく、〔今一休〕と呼ばれた。自由奔放な句は高く評価され、代表句には『咳をしても一人』などがある。 |
尾崎豊 |
日本のミュージシャン、シンガーソングライター。破滅的なパフォーマンス、心の内面を抉り出すような歌詞に、真実の愛や夢を託した生きざまが、1980年代の若者に共感を与え、カリスマ的存在となった。満26歳の若さで突然死亡した。その後、現在まで多くのミュージシャンやファンに影響を与えている。 |
春日八郎 |
春日八郎は、日本の流行歌歌手・演歌歌手である。戦後、歌謡曲から演歌の時代に変わろうとする時代、歌謡界で燦然と輝いた。 クラシック正統派歌手、藤山一郎に憧れ、福島県から歌手を目指して上京、キングレコード主催の〔第1回歌謡コンクール〕で合格し歌手生活を始める。1952年に『赤いランプの終列車』で大ヒット、2年後には『お富さん』で空前の大ヒットを飛ばし、その年の第5回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。 従来の〔流行歌〕ではない望郷歌謡曲を次々とヒットさせ、衰退する流行歌の時代から新天地〔演歌〕の時代を切り拓いた。他のヒット曲には『別れの一本杉』『山の吊橋』『長崎の女』『ロザリオの島』『あん時ゃどしゃ降り』などがある。 |
加藤大治郎 |
埼玉県浦和市出身のオートバイロードレースレーサー。愛称の「大ちゃん」「大治郎」で知られる。15歳でバイクレーサー・サーキートレーサーとしてデビューし、チーム〔ホンダ〕に属し、ホンダのオートバイで活躍するようになる。九州選手権など多くのロードレースでGPチャンピオンなどを獲得した。最終勝利は2001年のブラジルGPだった。 |
河鍋暁斎 |
河鍋暁斎は、下総国古河出身で、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師であり日本画家である。反骨精神の持ち主で多くの戯画や風刺画を残した。 河鍋暁斎は、天保8年に浮世絵師歌川国芳に入門、洪水時に神田川で拾った生首を写生したという「生首の写生」の伝説を残す。小石川片町の火事でもその写生をしている。そして安政2年の安政江戸地震の時に描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に知られる。暁斎の錦絵第一号である。 その後は、浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を博す。幕末から20年ほどの間、絵日記を書き続け、4年分ほどが残っている。写実的な似顔絵から、その日の天候までありとあらゆる事が記録された貴重な資料となっている。 |
蟹江一太郎 |
蟹江一太郎は、東海市名和町の農家出身であり、トマトケチャップメーカーで知られる〔カゴメ〕の創業者である。カゴメのブランド・ステートメントは「自然を、おいしく、楽しく」だという。 彼は、働き者であり軍隊時代の上司から西洋野菜の栽培を勧められたことがあった。1899年に名古屋農業試験場からトマトの種子を譲り受けトマトの栽培を開始した。トマトの生産ができるようになっても、まだ日本ではそれほど馴染みのない野菜であまり売れなかった。トマトは生食よりもソースにして使えると知り、試行錯誤の末にトマトソースの製造に成功する。 1906年、愛知県東海市に本格的トマトソース工場を立ち上げ業績を上げた。1914年(大正3年)愛知トマトソース製造合資会社を設立したが、カゴメに名称を変えたのは1963年(昭和38年)のことである。カゴメは、その後もトマトジュースやトマトケチャップを開発するほか、野菜ジュースや植物性乳酸菌飲料などの健康系飲料もレパートリーに加えてきた。 |
柿本人麻呂 |
柿本人麻呂は、飛鳥時代の歌人である。山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。三十六歌仙の一人でもある。 柿本人麻呂の出自については定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料となっている。天武天皇9年(680年)には出仕していて、天武朝から歌人活動をはじめ、持統朝に花開いたとされる。 人麻呂の歌は、持統天皇の即位から崩御の時代に重なっていて、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとされる。人麻呂は『万葉集』第一の歌人であり、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使した格調高いものである。 |
角川春樹 |
角川春樹は、富山県中新川郡水橋町出身の実業家であり映画監督、映画プロデューサー、俳人、冒険家である。角川春樹事務所会長兼社長、幻戯書房会長を務める。「俺の魂はスサノオノミコト」だと主張し毎日、祝詞とお経をあげ「私は絶対だ。私は完全だ。私は神なのだ。」と唱えているという。 1965年、角川書店に入社し、1970年以降、映画『ある愛の詩』『いちご白書』の原作本などを刊行している。横溝正史の角川映画で一世を風靡した。 製作作品は無数にあるが、印象に残るものには『犬神家の一族』『人間の証明』『悪魔が来りて笛を吹く』『金田一耕助の冒険』『戦国自衛隊』『野獣死すべし』『魔界転生』『悪霊島』『この子の七つのお祝いに』『魔魔大戦』『時をかける少女』『里見八犬伝』『天と地と』などがある。 |
葛飾北斎 |
葛飾北斎は、江戸時代後期の浮世絵師で化政文化を代表する一人で、葛飾派の祖である。あらゆる森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を残している。版画だけでなく肉筆浮世絵でも傑作を残している。 代表作のひとつである『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表し、驚異的描写力を見せつけている。また、毛筆による形態描出など絵画技術の普及に大きく貢献した。浮世絵の世界で北斎の存在は空前絶後の巨峰であった。 北斎の作品は、ゴッホなどの印象派画壇の芸術家や工芸家、音楽家にも驚きと影響を与えている。代表作には『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などがあり、世界的にも有名である。 |
鎌田實 |
鎌田實は、東京都杉並区出身の医師であり作家、ピースボート水先案内人である。東京医科歯科大学医学部を卒業し医師として破産寸前の長野県茅野市にある諏訪中央病院に赴任し「住民とともに作る地域医療」の最前線に取り組んできた。 鎌田實は1歳のとき養子に出された。しかし、成人し37歳のときパスポート申請のために戸籍謄本を見るまで、その事実を知らされていなかった。彼をここまで育てた養父は、青森県から上京して個人タクシーを営なみ、養母は病弱だったという。 1988年に同病院院長に就任し、以降、チェルノブイリ原子力発電所被曝事故被災者の救援に医師団を派遣したり、医薬品を支援している。イラクでも小児病院へ医薬の送付や難民キャンプでの診察などを実践している。東日本被災地への支援も欠かさない。 有名な著書に『がんばらない』があり、2001年に西田敏行の主演でテレビドラマ化されて放映された。ベスト・ファーザーイエローリボン賞、日本放送協会放送文化賞などを受賞した。 |
鴨長明 |
鴨長明は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人であり随筆家である。京都で賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜(ねぎ)の家に生まれた。 和歌と琵琶を学び、歌人として活躍した。歌林苑の会衆として賀茂重保撰の『月詣和歌集』に入撰したり、『千載和歌集』にも入集している。以降、石清水宮若宮社歌合、正治後度百首などに出詠している。 建暦2年(1212年)に出した『方丈記』は、和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つとなった。他に『無名抄』『発心集』『鴨長明集』『千載和歌集』などにも作品が残っている。 |
勝海舟 |
勝海舟は、江戸時代末期から明治時代初期の武士であり幕臣・政治家である。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。勝海舟は幼名を麟太郎と称し、しばしば勝麟太郎と呼ばれる。 安政の改革で才能を発揮し長崎海軍伝習所に入所し、万延元年には咸臨丸で渡米した。帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設する。戊辰戦争時、幕府軍の軍事総裁を務め、早期停戦と江戸城無血開城を実現し明治時代を迎える。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任した。 |
川合玉堂 |
川合玉堂は、日本の明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家である。1873年(明治6年)、愛知県葉栗郡外割田村で筆墨紙商の長男として生まれる。 12歳ころより絵の才能が優れ、幸野楳嶺門下で円山・四条派を学ぶ。23歳で上京し橋本雅邦に師事し、岡倉天心、横山大観らが創立した日本美術院に参加する。1900年頃から私塾「長流画塾」を主宰し、1907年には、第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命されるなど、日本画壇の中心的存在の一人となる。 1940年に文化勲章を受章した。河合玉堂の代表作には『二日月』『行く春』『悠紀主基屏風』『溪山四時図屏風』などがある。 |
川端康成 |
川端康成は、大阪府大阪市北区此花町出身の小説家である。川端康成は、幼くしてほとんど全ての近親者を亡くして育ったが、中学2年のとき作家を志すようになる。17歳の頃に『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになる。 1924年、東京帝国大学文学部国文科卒業後、横光利一、今東光ら14人とともに同人雑誌『文藝時代』を創刊し、そこに『伊豆の踊子』などを発表し、新感覚派の代表的作家として活躍するようになる。 1968年、日本人初めてのノーベル文学賞を受賞した。1972年(昭和47年)4月16日、満72歳で自殺したが、遺書は残っていなかった。彼の主な作品には『伊豆の踊子』や『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』などがある。 |
梶田隆章 |
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岸信介 |
岸信介は、日本の政治家であり官僚である。満州国総務庁次長、商工大臣、衆議院議員、自由民主党幹事長、外務大臣、内閣総理大臣、皇學館大学総長などを歴任した。 岸信介は、東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省し要職を歴任している。建国直後の満州国でも国務院高官として要職を歴任している。東條内閣でも閣僚を務めた。 太平洋戦争終結後はA級戦犯被疑者として逮捕され3年半拘留されたが、即時停戦講和を求めて東条内閣を閣内不一致で倒閣した功労者であるとして、不起訴無罪放免された。 吉田自由党に入党するも吉田茂と対立して除名され、日本民主党の結党に加わる。保守合同で自民党が結党されると、石橋内閣に閣僚として参加、そして石橋湛山の後任として内閣総理大臣に就任する。日米間の相互協力及び安全保障条約の成立に尽力した。 |
菊池寛 |
菊池寛は、香川県香川郡高松出身の小説家であり劇作家、ジャーナリストである。文藝春秋社を創設した実業家として知られる。芥川賞、直木賞の設立者でもある。 一時法律家を目指して明治大学法学部に入学ご中退、徴兵逃れのために早稲田大学政治経済学部に籍を置くが、大学図書館でもっぱら井原西鶴を読んだ。早稲田を中退して第一高等学校第一部乙類入学、そこで芥川龍之介らに出会う。卒業寸前に事件に巻き込まれ退学する。その後、京都帝国大を卒業し、小説家となる。 1923年に私費で創刊した雑誌『文藝春秋』が大成功し、日本文藝家協会を設立した。大映初代社長や報知新聞客員を務め、文化学院文学部長就任した。しかし、太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案、翼賛運動に加担したため、戦後は公職追放にあい失意のうちに没した。 |
北原白秋 |
北原白秋は、日本の詩人であり童謡作家、歌人である。生涯に数多くの童謡や短歌を残し現在でも歌い継がれているが、詩や童謡、短歌以外にも、多数の校歌や新民謡も残している。白秋は、近代の日本を代表する詩人の一人であり、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれている。 白秋の詩集には『邪宗門』が有名であり、童謡・作詞では『からたちの花』『トンボの眼玉』『雨降り』『ゆりかごのうた』『砂山』『この道』『ペチカ』『あわて床屋』『待ちぼうけ』『城ヶ島の雨』『ちゃっきり節』などがある。 |
北里柴三郎 |
北里柴三郎は、熊本県阿蘇郡小国町出身の医学者、医学博士であり細菌学者である。私立伝染病研究所創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園創立者兼運営者、私立北里研究所創立者兼初代所長多数を歴任した。 熊本医学校入学時に教師マンスフェルトに出会い、本格的に医学に目覚める。東京医学校に入学し、1883年に医学士となり、予防医学を生涯の仕事と決意する。1885年よりドイツベルリン大学に留学しコッホに師事する。 1889年、世界初となる破傷風菌取り出し、破傷風菌純粋培養法に成功、更に1890年には破傷風菌抗毒素を発見して世界の医学界を驚嘆させた。そして、少量づつの菌体を動物に注射しながら血清中に抗体を産生する画期的な手法、血清療法をを開発し、ジフテリアに応用した。この功績で第1回ノーベル生理学・医学賞にノミネートされたが、実現はなかった。1894年には、ペスト菌の発見に成功している。 |
北島三郎 |
北島三郎は、昭和時代から平成時代の日本を代表する演歌歌手で、演歌界の長老であり、大御所である。多くの内弟子を育て、他の歌手への楽曲の提供もしている。 北島三郎は、1962年のデビュー以来、NHK紅白歌合戦の常連歌手として長年活躍してきた。2013年大晦日での紅白出場が彼にとっての50回目の出場だったが、これを最後に紅白歌合戦からの引退を表明した。 北島三郎の主なヒット曲には『まつり』『帰ろかな』『兄弟仁義』『山』『人道』『川』『函館の女』『与作』『歩』『北の漁場』『風雪ながれ旅』などがある。 |
木下杢太郎 |
木下杢太郎は、静岡県賀茂郡湯川村出身の皮膚科の医学者であり、大学医学部教授を歴任している。また詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家であり、南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと称されるきらびやかな詩や戯曲を残している。 1898年、上京して獨逸学協会学校に入学し歴史を学び、文芸雑誌を読み、絵画に親しんだ。1906年には東京帝国大学医科大学へ進んだ。 1907年、与謝野鉄幹の新詩社の機関誌『明星』の同人となり、短編『蒸氣のにほひ』を発表した。1911年、東大医学部を卒業し癩病研究を志す。1938年『眼上顎部青色母斑』を独立疾患として発表した。 |
木戸孝允 |
木戸孝允(桂小五郎)は、日本の武士、長州藩士であり、幕末から明治時代にかけての政治家である。明治維新の元勲とされ西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。 吉田松陰の師事し藩内の尊王攘夷派の中心人物となり、開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者として活躍する。 維新後には、文明開化推進するほか、版籍奉還・廃藩置県などを唱え、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。憲法や三権分立国家の実現に努力したほか、国民教育や天皇教育の充実に務めた。 |
空海 |
空海は、唐より真言密教を持ち帰って真言宗を開いた、平安時代初期の僧で、弘法大師として知られる。真言宗の開祖であり、高野山金剛峰寺を開いた。823年には、東寺を与えられ真言密教の道場とした。更に、828年には、庶民のための学校となる綜芸種智院を建設した。 能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。主な著作に『三教指帰』『弁顕密二経論』『十住心論』などがある。 |
熊谷守一 |
熊谷守一は、岐阜県恵那郡付知村出身の日本の画家である。1900年に東京美術学校西洋画家選科へ進む。1905年に、美術学校卒業後に樺太調査団に参加し、アイヌの人々の生活に触れ、自然に生きる姿に感動したという。 富裕層の出身にも関わらず、無欲で物事に執着することもなく、芸術家気質の貧乏生活を送った。〔画壇の仙人〕といわれるほどに「二科展」への出品を続けた。 自宅は草木や蛙や魚、小鳥や虫、猫などの生命に囲まれて生涯を過ごしたが、90歳を過ぎて、他人から何が欲しいか問われれば、「いのちが欲しい」と答えたという。 |
黒澤明 |
黒澤明は、日本の映画監督、世界にその名ありと知られた日本映画史上の巨匠である。躍動的・感動的な映像表現や人道的精神に徹した作風に特徴があり、日本のみならずその後の世界の映画界で〔世界のクロサワ〕と呼ばれ多大な影響を与えた。 作品は、アカデミー賞のほか、三つの映画祭、ヴェネツィア、カンヌ、ベルリンで受賞している。 代表作に『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『赤ひげ』『天国と地獄』『影武者』『乱』などがある。 |
草野心平 |
草野心平は、福島県石城郡上小川村出身の詩人である。5人の兄弟の次男として生まれ、1919年に中学を中退し上京する。その後、中国の広東嶺南大学に進学するが、排日運動により帰国し、この頃より詩作を始める。 1923年に詩集『廃園の喇叭』を自費出版した。更に、雑誌『銅鑼』を主催し、宮沢賢治らの同人の作品を紹介した。1928年には全編を蛙のテーマにした詩集『第百階級』を刊行する。1950年に『蛙の詩』により第1回読売文学賞を受賞している。 |
楠木正成 |
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将である。鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ったころ幕府には恩賞を与える実力もなく権威は失墜していた。民は重税に苦しみ、世は乱れ、後醍醐天皇が幕府打倒を目指し京都で挙兵する。これを支援した数少ない武将のひとりが楠木正成であった。 正成はわずか500の普段は百姓をしている地侍で挙兵し、数万の幕府軍と戦うことになる。正成軍に兜などあろう筈もない惨めな軍勢だったし、山城も粗末なものであったため、幕府軍は「1日くらい持ちこたえてくれねば恩賞がもらえぬ」と罵声を浴びせた。 幕府軍が城を取り囲み斜面を埋め尽くした瞬間、それは起こった。城の外壁が崩れ落ち幕府軍は一気に700名もの兵を失ってしまったのだ。様々な奇策で翻弄したのである。幕府軍にいた足利尊氏は、正成は只者ではないと感心したという。 兵糧攻めが始まり、正成軍は20日で食糧が尽き、城に火を放つが、抜け道から脱出して行方をくらましてしまう。その後も奇策による戦が続き、結局、140年続いた鎌倉幕府滅亡へと続くのである。 しかし、勝利した後醍醐天皇は、公家を重んじ武家を軽んじたり、民衆に厳しい税を課したために信望を失い、足利尊氏たちが反旗を翻すことになる。圧倒的多数の敵と対決した楠木正成は自害して果てることとなる。(ここには、余白がなくこれ以上、書けないのが残念である。) |
継体天皇 |
継体天皇は、日本の第26代天皇で、在位は継体天皇元年2月4日(450年?)~同25年2月7日(531年3月10日?)である。 『古事記』や『日本書紀』の記述によれば、継体天皇は応神天皇5世の子孫とされ、近江国高嶋郷三尾野で誕生したが、母の故郷である越前国高向で育てられ、男大迹王として5世紀末の越前地方を統治していた。 現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が存在し、それ以前のヤマト王権との血縁関係については定かではない。 |
桂昌院 |
桂昌院は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母であり、通称〔お玉の方〕と称される。 桂昌院の生まれ、育ちは、低い身分の出身だったとされている。西陣織屋の娘とか畳屋の娘、あるいは八百屋の娘などとされているが、定かではない。 寛永16年(1639年)に家光の側室であるお万の方に仕え、家光に見初められて側室となる。正保3年(1646年)に綱吉を産んでいる。 |
月照 |
月照は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶である。月照は、文化10(1813)年、大阪の町医者の家に生まれ、叔父のつてで京都の清水寺成就院に入り、やがて成就院の住職になる。尊皇攘夷に傾倒し、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派となったため、大老井伊直弼から危険人物と見なされた。 安政5(1858)年に始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷隆盛と薩摩藩に逃れたが、薩摩藩からは厄介者扱いで保護を拒否される。月照は西郷とともに入水し死去した。西郷は命を取りとめた。 |
顕如 |
顕如は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧である。武将織田信長の宿敵として知られ、信長を仏敵と定め決戦を挑んだ。 顕如は天文12(1543)年、本願寺第十世証如の長子として誕生まれ、12歳にして本願寺を継職し教団を運営し、教団の最盛期を築いた。圧倒的な差のある軍事力しかなかったが、調略により信長打倒包囲網を結成して10年以上もの間信長に抵抗した。世にいう一向一揆である。顕如の死後には、秀吉や家康にも絡む多くの成り行きがあり、本願寺は西本願寺と東本願寺に分かれ、現在に至っている。 |
建礼門院 |
平徳子は、父を平清盛、母を平時子との間に生まれた。高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んでいる。平徳子は、安徳天皇が即位すると国母となる。建礼門院とは平徳子の院号である。 平清盛と安徳天皇が没すると、木曽義仲軍に都を追われ、有名な壇ノ浦の戦いで安徳天皇と時子は入水し安徳天皇は死去し平家は滅亡する。徳子は助けられ京へ送還されて出家する。大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。 |
建春門院 |
平滋子は、後白河天皇の譲位後の妃であり、高倉天皇の生母である。建春門院とは平滋子の院号である。 平滋子は、康治元年(1142年)に生まれ、平正盛の娘・政子(若狭局)に養育され、鳥羽法皇の娘・上西門院に女房として仕えた。聡明で美貌を誇り、後白河天皇に見初められ寵愛を受ける。 |
剱持松二 |
剱持松二は、東京都出身の将棋棋士である。若手棋士に度々勝ってしまう事があり、〔若手潰し〕との異名もある。その人柄から、大山康晴からも升田幸三からもかわいがられた。2000年に引退したが、引退棋士昇段規定により2013年に九段に昇段した。 1961年度は東西対抗勝継戦で優勝、1962年・1963年には順位戦連続昇級して現役プロとしてのピークを迎えた。逸話として、1988年度の順位戦C級1組で、直後に竜王位を獲得する羽生善治に勝ち、結果として頭ハネで昇級を阻止したという。 |
近衛文麿 |
近衞文麿は、日本の政治家である。後陽成天皇の12世孫にあたり、五摂家の近衞家の第30代目当主である。 貴族院議員になった後、火曜会を結成し、大政翼賛会を設立もした。貴族院副議長、貴族院議長、内閣総理大臣、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣、国務大臣などの要職を歴任した。三度にわたり内閣総理大臣として国政にあたった。外交政策では大東亜共栄圏建設を掲げ、日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。 |
近藤勇 |
江戸時代末期の武士。豪農に生まれ幼名を藤五郎と称した後の近藤勇は、天然理心流剣術道場・試衛館に入門し腕前を認められ、流派一門の宗家を継ぐ。 徳川家茂上洛時の警護役の〔浪士組〕へ参加し京都へと向かい、隊は〔壬生浪士組〕を経て〔新選組〕と変わり、隊内で対立した芹沢一派を暗殺して全権を握る。やがて起こる鳥羽・伏見の戦いに敗れ新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。その後、いくたの経緯を経て後、処刑された。満33歳だった。 |
古賀政男 |
古賀政男は、日本の昭和期の代表的作曲家で数多くの流行歌を作曲し、多数の歌手に提供している。中でも藤山一郎や美空ひばり、村田英雄などに提供した名曲は現在でも絶大な人気がある。 代表作品には、『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『人生劇場』『誰か故郷を想わざる』『湯の町エレジー』『ゲイシャ・ワルツ』『柔』『悲しい酒』などがある。 |
古関裕而 |
古関裕而は、作曲家である。1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選して、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家として知られる。生涯に作曲した曲数は五千曲に及ぶという。 山田耕筰の推挙もあり東京に出て、当初のクラシック音楽分野から流行歌へと転身を果たし、時代の要請もあり多くの軍歌や歌謡曲を残した。代表曲には、早稲田大学第一応援歌『紺碧の空』や阪神タイガースの応援歌『六甲颪』、東京五輪のオリンピックマーチなどがある。 |
小柴昌俊 |
小柴昌俊は、日本の物理学者である。1987年、大マゼラン雲内に発生した超新星「SN 1987A」の爆発に伴うニュートリノを検出したことで知られる。 自らが設計し建設したカミオカンデによる大発見であり、2002年、ノーベル物理学賞を受賞している。〔SN〕とは超新星(スーパーノバ:SuperNova)の略号である。 |
小泉純一郎 |
小泉純一郎は、1942年、横須賀市で小泉家の長男として生まれた、日本の政治家である。小泉家は母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務めたほどの家であったが、戦後には公職追放にあい、経済的には苦労したとされている。 福田赳夫の秘書を経て、1972年に参議院議員に当選し、以来12期連続当選している。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。厚生大臣、郵政大臣、自由民主党総裁、内閣総理大臣などを歴任した。 平成17年、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内でも根強い反対があったが、これを強行突破したことで大きな政争と化した。賛否両派の抗争の末え法案が否決されると、小泉は反対派を〔抵抗勢力〕と名付け、衆議院解散を強行した。世にいう〔郵政解散〕である。 小泉は反対派候補には自民党公認を与えず、逆に刺客を送り込む作戦をとり、自公での圧勝を勝ち取ったが、これをマスコミは〔小泉劇場〕と呼んだ。 |
小泉八雲 |
小泉八雲は、ギリシャ出身の新聞記者・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家・日本民俗学者である。出生名のパトリック・ラフカディオ・ハーンとしても知られる。 日本国籍を取得して小泉八雲と名乗るようになり、多くの作品を残したが、中でも『怪談』に収められた、『耳なし芳一』『むじな』『ろくろ首』『雪女』『葬られた秘密』『食人鬼』などの物語は特に有名である。 |
小泉八雲 |
小泉八雲は、ギリシャ出身の新聞記者・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家・日本民俗学者である。出生名のパトリック・ラフカディオ・ハーンとしても知られる。 日本国籍を取得して小泉八雲と名乗るようになり、多くの作品を残したが、中でも『怪談』に収められた、『耳なし芳一』『むじな』『ろくろ首』『雪女』『葬られた秘密』『食人鬼』などの物語は特に有名である。 |
小泉武夫 |
小泉武夫は、福島県小野町の酒造家出身の日本の農学者・発酵学者・文筆家である。東京農業大学農学部醸造学科卒業後、博士論文「酵母の生成する香気に関する研究」で東京農業大学農学博士号を取得している。専門分野は発酵学、食品文化論、醸造学である。 世の中で醗酵の話がでれば、必ず彼が登場するほど有名な人物であり、TVで見かけることも多い。ドラえもんに似ているというその人柄も面白く、ニックネームでは、〔味覚人飛行物体〕〔走る酒壷〕〔鋼鉄の胃袋〕〔発酵仮面〕〔人間リカオン〕〔ムサボリビッチ・カニスキー〕などと親しまれている。彼の書籍も非常に多い。 |
小池邦夫 |
小池邦夫は、松山のミカン農家の次男として生まれた芸術家であり、絵手紙の創始者である。小池邦夫は、幼少時、故郷松山の大山積神社の鳥居に彫られた三輪田米山の書に惹かれ、書家を志したという。 高校卒業後に芸術を学ぼうと東京学芸大学書道科へと進学したが、書道教師になる意思はなく、卒業目前にして中退してしまう。やがて小池は、手紙の中に、詩・書・画の三位一体を表現する世界を創りだすようになり、ここに絵手紙という新しい芸術分野を創設した。『ヘタでいいヘタがいい』がモットーだという。 |
小平邦彦 |
小平邦彦は、東京都出身で最終学歴を、東京帝国大学理学部数学科および物理学科卒業の数学者である。 小平は20世紀を代表する数学者のひとりとされ、1954年には数学界のノーベル賞とされる〔フィールズ賞〕を日本人として初めて受賞している。難解だが、調和積分論や二次元代数多様体(代数曲面)の分類などによる功績によるものである。〔小平次元〕〔小平消滅定理〕〔小平・スペンサー理論〕等に名を残している。 |
小林一茶 |
小林一茶は、信濃北部の北国街道柏原宿の中農の長男として生まれた、江戸時代を代表する俳諧師の一人である。14歳で江戸へ奉公に出たが、25歳の時に小林竹阿に師事して俳諧を学び、29歳で故郷に戻り、翌年より36歳まで、俳諧修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。 一茶は、生涯に3度結婚していて生まれた子供も多かったが、何れも夭折していて、彼の死後に生まれた一人だけが血脈を伝えたという。彼は多くの俳句を残した。 めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春 やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり 雀の子そこのけそこのけお馬が通る やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする 名月をとってくれろと泣く子かな 我ときて遊べや親のない雀 |
小林誠 |
小林誠は、愛知県名古屋市出身の理論物理学者である。小林の専門分野は原子物理学の中の素粒子理論であり、中でも〔CKM行列:カビボ・小林・益川行列(Cabibbo-Kobayashi-Maskawa matrix)〕や〔小林・益川理論〕の功績で知られている。 名古屋大学で坂田昌一の薫陶を受け、理論物理学の研究を行い、〔小林・益川理論〕の功績などにより2008年には益川敏英、南部陽一郎と共にノーベル物理学賞を受賞した。 |
小林旭 |
小林旭は、日本で活躍する俳優であり歌手であるが、柔道五段でゴルフの達人でもあり、恰好もクールで通称では〔マイトガイ〕と呼ばれている。 彼は子役あがりから第3期日活ニューフェースに合格、『飢える魂』で映画俳優としてデビューした。シリーズもの映画『渡り鳥』や『旋風児』などで大活躍し日活黄金時代の主役となった。歌手としても大活躍し、独特な歌唱法を称して『アキラ節』と呼ばれることが多い。 人気演歌に、『熱き心に』『北へ』『素晴らしき哉人生』『さすらい』『私の名前が変わります』『昭和・露地裏話』『北帰行』『昔の名前で出ています』などがある。 |
小村寿太郎 |
小村壽太郎は、日向国飫肥藩の下級藩士・小村家の長男として生まれた、日本の政治家であり外交官である。彼は、東京大学の前身である大学南校に入学、第1回文部省海外留学生としてハーバード大学へ留学し法律を学んだ。 帰国後、司法省に入省し大審院判事を経て、1884年に外務省へ異動する。陸奥宗光に認められ清国代理公使を務め、日清戦争後には駐韓弁理公使も務め、在朝鮮ロシア総領事のカール・ヴェーバーと小村・ウェーバー覚書を交わした。日露戦争後には、ロシア側とのポーツマス条約を調印した。韓国併合などでも活躍した。 |
サトウハチロー |
サトウハチローは、東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町出身の日本の詩人・童謡作詞家・作家である。戦後一世を風靡した『リンゴの唄』の作詞者としてよく知られている。 無数の抒情的作風の詩が多く、中でも母親への思慕の詩を多く残したが、実生活ではいわゆる不良少年で、放蕩生活、奇行が多かったという。野球少年だったことで高校野球やプロ野球に造詣が深い。父親とはそりが悪く、中学時代は、落第や勘当、留置場入りをしたという。 後に、西條八十に弟子入りして童謡を作り始め、数々の雑誌や読売新聞などに掲載されるようになる。戦後初めての映画『そよかぜ』の挿入歌として『リンゴの唄』を作詞し、並木路子が歌って一世を風靡した。 |
佐久間象山 |
佐久間象山は、江戸時代後期の松代藩の下級武士出身の兵学者・朱子学者・思想家である。若年期に経学と数学を熱心に学んだとされ、これが彼の洋学吸収に大きく益したとされる。 天保4(1833)年、江戸に出て儒学の第一人者・佐藤一斎に師事して、詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に〔二傑〕と称されるにほどになる。天保10(1839)年、江戸で私塾〔象山書院〕を開き儒学を教えていたが、象山が仕える松代藩主が海防掛になったことで、兵学を学ぶことになった。 象山は、西洋兵学を習得し『海防八策』を献上、大砲の鋳造にも成功して名を挙げた。しかし、嘉永7(1854)年、再来航したペリー艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て失敗した際、連座して入獄、更に蟄居することとなる。10年後、一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、尊王攘夷派の志士により暗殺される。 |
佐藤栄作 |
日本の鉄道官僚・政治家。第61~63代総理大臣・内閣官房長官・衆議院議員・郵政大臣・電気通信大臣・建設大臣・北海道開発庁長官・大蔵大臣・通商産業大臣・科学技術庁長官などを歴任。ノーベル平和賞を受賞している。1967年12月11日の衆議院予算委員会の答弁において、非核三原則「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」を表明したことで知られる。 |
佐藤春夫 |
佐藤春夫は、和歌山県東牟婁郡新宮町出身の近代日本の詩人・作家であり、明治末期から昭和まで活躍した。彼の活動分野は多岐にわたり、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌全域に及んでいる。『三田文学』に才気あふれる詩文を発表している。 中学校在学中に、校友会誌や新聞へ短歌や詩を投稿して選に入っている。明治42年には『スバル』創刊号に短歌を発表した。後には絵画もするようになり、第二回「二科展」に『自画像』と『静物』の二点が入選している。代表作品に『殉情詩集』、小説『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』などがある。 |
佐藤勝彦 |
佐藤勝彦は、香川県坂出市出身の宇宙物理学者で、専門分野は宇宙論である。東京大学名誉教授、日本学士院会員であり、大学共同利用機関法人自然科学研究機構長、明星大学理工学部客員教授を歴任している。 佐藤は、京都大学理学部に入学し、物理学科及び大学院理学研究科物理学第2専攻天体核物理学研究室で林忠四郎に師事して学んだ。超新星におけるニュートリノの影響を研究するなど、理論物理学の標準理論の研究を天文学分野に応用した研究を推進してきた。 1981年、アラン・ハーヴェイ・グースとほぼ同時期に、〔インフレーション宇宙論〕を提唱したことで知られる。将来のノーベル賞の有力な候補である。 |
最澄 |
最澄は、近江国滋賀郡古市郷生れの平安時代の僧で、日本の天台宗の開祖である。真偽のほどは確たる証拠がないが、最澄の先祖は古代中国より、応神天皇の時代に日本に渡来したいわれ、後漢孝献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)と称される人物とされている。 最澄は、宝亀9年(778年)、12歳で近江国分寺で出家して行表の弟子となり、14歳のとき最澄と名乗るようになった。22歳で薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立する。804年、中国明州に留学し天台教学、禅、密教を学ぶ。806年、日本の天台宗を開宗する。 |
坂口安吾 |
坂口安吾は、新潟県新潟市出身で東洋大学印度哲学倫理学科卒業の小説家・評論家・随筆家である。純文学のほか歴史小説や推理小説なども書いている。随筆では時代風俗や古代の歴史におよぶような作品も多く残している。 戦前から文壇に登場していたが、戦後になって著わした『堕落論』『白痴』により無頼派・新戯作派の作家として一世を風靡した。 新潟市の海岸に坂口安吾の碑があり、碑文には『ふるさとは 語ることなし 安吾』と彫られている。 |
坂口謹一郎 |
坂口謹一郎は、新潟県高田出身の農芸化学者である。〔酒の博士〕の異名をもち、発酵や醸造に関する研究では世界的権威とされている。日本学士院会員であり、東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長を歴任した。 東京帝国大学農学部卒業後、助手、講師、助教授を経て、1939年に教授となった。微生物の培養に用いられる坂口フラスコを発明した功績がある。歌人としても有名で、新春歌会始の召人を務めたことがある。 |
坂上田村麻呂 |
坂上田村麻呂は、天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男あるいは三男として出生した平安時代の武官である。中央では近衛府の武官を務め、793年の陸奥国の対蝦夷戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。 801年には、征夷大将軍として総指揮をとり敵対する蝦夷を制した。その後、胆沢城や志波城を築いている。優れた武人として尊崇され、菅原道真が文であれば、坂上田村麻呂は武の代表的存在として崇められた。 |
坂田昌一 |
坂田昌一は、1911年、東京出身の物理学者であり、湯川秀樹、朝永振一郎とともに日本の素粒子物理学をリードした。坂田学派と呼ばれる多数の弟子を育てたことで知られ、中でも後にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、益川敏英らが有名である。 1933年、京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、理化学研究所、大阪帝国大学講師、京都帝国大学講師を経て名古屋帝国大学教授となる。1963年、牧二郎・中川昌美と共にニュートリノ振動を予測するポンテコルボ・牧・中川・坂田行列 (PMNS行列) を発表した。 |
坂本竜馬 |
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士である。後の海援隊となる亀山社中を結成。薩長同盟の実現、大政奉還の成立に尽力し倒幕および明治維新成立に貢献した。 |
坂本冬美 |
坂本冬美は、和歌山県西牟婁郡上富田町出身の演歌歌手である。NHKの勝抜き歌謡天国和歌山大会で名人となり、当時審査員をしていた猪俣公章の内弟子となって、1987年に『あばれ太鼓』で歌手デビューを果たした。 2002年以降、一時膵臓病治療のために休業していたがその後、歌手活動に復帰している。NHK紅白歌合戦には2013年までに通算25回の出場した。彼女の代表曲には『能登はいらんかいね』『火の国の女』『夜桜お七』『あばれ太鼓』『また君に恋してる』などがある。 |
真田幸村 |
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男で、実名は真田信繁である。幸村は戦国乱世時代の最後を飾る英雄として知られ、大阪夏の陣では3500人の兵を引き連れて徳川家康の本陣まで攻め込み家康の苦しめた。その後、史実を基にして、多くの物語が創作され、真田十勇士を従えて奮戦する英雄的武将・真田幸村として広く知られるようになった。 |
西園寺公望 |
西園寺公望は、清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純の次男として出生した、日本の公家であり政治家・教育者である。2歳のとき、清華家の西園寺師季の養子となり家督を相続した。孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳以降は御所に出仕するようになり、後の明治天皇の近習となる。 戊辰戦争では官軍の方面軍総督となり、フランス留学後には伊藤博文の腹心の部下となり、第1~4次伊藤内閣では毎回入閣している。その後は伊藤の立憲政友会の総裁に就任し、明治39年以降は総理大臣として第1次、第2次西園寺内閣を率いた。大正5年には元老となっている。 |
西郷隆盛 |
日本の武士・薩摩藩士・軍人・政治家。薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び「維新の三傑」と呼ばれる。維新十傑の1人。上野公園に銅像があり、観光客に親しまれている。 |
西条八十 |
西條八十は、東京府東京市牛込区牛込払方町出身の詩人で作詞家・仏文学者である。西條は、旧制早稲田中学在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぎ文学で身を立てると決心する。中学時代から英語を学び、早稲田大学文学部英文科を卒業する。 大学在学中に、日夏耿之介らと同人誌『聖盃』を刊行し、1919年には自費出版により第一詩集『砂金』を発表して、象徴詩人として注目される。 西条八十の作品には、『東京行進曲』『青い山脈』『蘇州夜曲』『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』『王将』などがある。児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡も発表している。 |
斉藤茂吉 |
斎藤茂吉は、山形県南村山郡金瓶出身の歌人であり精神科医である。伊藤左千夫門下で大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物として知られる。茂吉は小学校卒業後、進学する経済的余裕はなかったが、東京浅草の医院に跡継ぎがなくその養子として、15歳で上京し、学業も続け医師となる。 中学時代に佐佐木信綱の『歌の栞』を読み感動して短歌の世界に入り、自らも創作を始める。正岡子規の歌集を読むと感動し歌人を志して左千夫に弟子入りする。生涯で17冊の歌集を残し、1万8千首ほどの詠んでいる。 |
ジャイアント馬場 |
日本のプロレスラー・プロ野球選手・タレントで、全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任。日本のプロレス界史上で最大の巨体の持ち主で、力道山やアントニオ猪木と並んで有名な人物である。 |
司馬遼太郎 |
司馬遼太郎は、大阪府大阪市生出身の小説家でありノンフィクション作家、評論家である。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞し作家としての頭角を現した。 幼少時は軟弱だったが、小学校に通う頃には学校嫌いな腕白小僧であったという。中高時代も学業成績はビリではないがトップでもなかったようだ。この頃にあらゆる種類の書籍を読破したという。司馬遷の『史記』を愛読し、彼の筆名にも影響した。彼の座右の銘は「中庸の徳」だという。 司馬遼太郎代表作には戦国・幕末・明治を扱った作品が多いが、『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。 |
志賀直哉 |
志賀直哉は、宮城県石巻市生まれ、東京府育ちの明治から昭和にかけて活躍した小説家である。白樺派を代表する小説家のひとりで、後の時代の多くの日本人作家に影響を与えたとされる。志賀直哉の祖父は、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山の開発をした人物であり、。二宮尊徳の門人だったという。 東京帝国大学文学部英文学科入学、国文学科に転じるが大学は中退する。代表作に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』などがある。彼の唯一の長編小説『暗夜行路』は、近代日本文学の代表作の一つである。 |
柴田勝家 |
柴田勝家は、大永2年(1522年)、尾張国愛知郡上社村で出生したとされる、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり大名である。織田信秀の家臣として仕え、尾張愛知郡下社村を治めていた。信秀の死後は、織田信行(信勝)に家老として仕える。 信秀の後継者を信行にせんと、信長を排除しようと画策するが、信長との戦いに敗れ降伏する。信行の死後に罪を許され、信長の家臣となる。徐々に信長の重臣として武功を挙げるようになる。その後も加賀一向一揆を制圧するなど、信長の家臣として多くの戦に参戦している。 本能寺の変で信長が横死すると、清州会議での信長の後継者争いに破れ、秀吉と勝家の立場が逆転する。その後、お市の方と結婚するが、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市とともに自害して果てる。 |
十返舎一九 |
十返舎一九は、駿河国府中出身の江戸時代後期の戯作者、浮世絵師である。有名な『東海道中膝栗毛』の作者として知られ、日本で最初に文筆のみで生計を立てた人物として知られる。 江戸で武家奉公し、その後大坂に渡って大坂町奉行などで働くが浪人し、義太夫語りの家で世話になって浄瑠璃作家となる。30歳で江戸に戻り、今度は版元・蔦屋重三郎方で世話になって挿絵描きなどを手伝う。蔦屋に勧められて黄表紙などを出版する生活を20年以上続ける。 そして、享和2年(1802年)に運命の作品『東海道中膝栗毛』が大ヒットを博し、一世を風靡する作家となった。その後も『膝栗毛』の続編を描き続けた。 |
渋沢栄一 |
渋沢栄一は、天保11年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村に生まれた、幕末から大正初期にかけての日本の武士、幕臣であり官僚、実業家でもある。第一国立銀行や東京証券取引所など多くの企業の設立に関わり、日本資本主義の父ともいわれている。 渋沢家は元々豪農であり、栄一は若い頃から経済的訓練を受けて育った。父親の影響で幼少時より読書をたしなみ、四書五経や『日本外史』を学んでいる。やがて、一橋慶喜に仕え農兵の募集に携わるが、慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席するチャンスを得る。 ヨーロッパ各地で先進的な産業や軍備を実見し感名を受ける。帰国後、明治新政府のもと、大蔵省に入省し、大蔵官僚として多くの改革を実行する。多くの地方銀行や企業などの創設を行った。渋沢はこれだけの業績がありながら〔渋沢財閥〕を創らなかった点で他の財閥創設者とは異なる。 |
親鸞 |
親鸞は、承安3年(1173年)、現在の法界寺、日野誕生院付近で出生した、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧である。浄土真宗の宗祖とされる。法然を師と仰ぎ、法然による〔浄土往生を説く真実の教え〕の教えを終生に渡って実践し、さらに高めるよう努力した。 各地に細やかな念仏道場を設けて説教をすることがあっても、独自の寺院を持つことはしなかった。親鸞の思想は、彼の没後になって宗旨として確立される事になる。『顕浄土真実教行証文類』が完成する寛元5年(1247年)が、浄土真宗の立教開宗の年とされるが、これは親鸞の没後のことである。 |
聖徳太子 |
飛鳥時代の皇族で政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称がある。推古天皇の治世下、蘇我馬子と協調し国際的緊張のなかで遣隋使を派遣し大陸の進んだ文化や制度をとり入れ冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇中心の中央集権国家体制を確立した。 |
島崎藤村 |
島崎藤村は、信州木曾の中山道馬籠出身の詩人であり小説家である。『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版したことで知られる。 島崎家の先祖は、相模国三浦半島津久井発祥の三浦氏の一族である。藤村は、父親から『孝経』や『論語』を学んだ。明治学院普通部本科に入学する。卒業後、20歳で明治女学校高等科英語科教師となる。雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表する。藤村の代表作には、小説『破戒』『春』『家』『新生』『夜明け前』などがある。 |
島津久光 |
島津久光は、重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主であり、幕末から明治時代初期での日本の政治家である。幕末の薩摩藩での事実上の最高権力者として公武合体運動を推進したことで知られ、明治新政府では内閣顧問、左大臣を歴任している。 久光は、文化14年(1817年)薩摩国鹿児島郡で出生する。幾多のことがあって成人し、文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。しかし、公武合体運動は挫折し、倒幕の決断をすることになり、やがて明治維新を迎えた。 |
島木赤彦 |
島木赤彦は、明治9年(1876年)長野県諏訪郡上諏訪村角間生まれの明治・大正時代のアララギ派歌人である。家は元々は諏訪藩士であったが、父親は明治維新後には教員をしていた。赤彦は貧しいながらも自然や優しい家族のもとで伸び伸びと育った。 赤彦は祖母から百人一首を教えられ、5歳で暗唱するほどであった。諏訪小学校高等科を卒業し諏訪育英会に入り、泉野小学校、玉川小学校の代用教員を務めた、和歌や俳句をたしなむようになる。赤彦の代表歌には次のものがある。 ・月の下の光さびしみ踊り子のからだくるりとまはりけるかも (『切火』) ・ひたぶるに我を見たまふみ顔より涎を垂らし給ふ尊さ(『氷魚』) ・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ (『柿蔭集』) |
島倉千代子 |
島倉千代子は、日本の演歌、歌謡曲の世界を代表する歌手のひとりである。昭和30年代、アイドル的存在として一世を風靡し、その後も極めて長い期間にわたって日本の歌謡世界で活躍した。 高音部のビブラートや浮遊感に富む発声に独特な雰囲気があり、デビューから50年以上を経過した時点まで、第一線の現役人気歌手として大活躍した。彼女はNHK紅白歌合戦に通算で35回出場している。島倉の主なヒット曲には、『人生いろいろ』『からたち日記』『逢いたいなァ あの人に』『ほんきかしら』『りんどう峠』『この世の花』などがある。 |
白瀬矗 |
白瀬矗は、文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村出身の陸軍軍人であり南極探検家である。軍人としての最終階級は陸軍輜重兵中尉であった。8歳の頃、平田篤胤の高弟とされる蘭学者の佐々木節斎の寺子屋に入り、読み書きソロバンや四書五経、そしてコロンブスやマゼランの地理探検の話などを学ぶ。11歳の頃には、北極圏の話を聞き、探検家を志すようになる。 北極の前に先ず千島探検を志すようになり、明治26年(1893年)千島探検隊(千島報效義会)に加わる。探検隊は暴風雨で多くの犠牲者をだしながらも白瀬らは最終目的地である占守島に到着し越冬した。苦難の越冬の末に救出される。 明治42年にアメリカ探検隊が北極点踏破するなどの事実を知ると、南極点到達を決意する。イギリススコット隊との競争となる。東郷平八郎によって「開南丸」と命名された船で南極を目指した。明治45年(1912年)南極大陸に上陸、その地点を「開南湾」と命名した。その翌日にスコットが南極点に到達している。南極点到達は断念し極地調査をすることになる。 |
白川英樹 |
白川英樹は、1936年、東京府出生の日本の化学者である。東京工業大学工学博士、筑波大学名誉教授、日本学士院会員であり、「導電性高分子の発見と発展」により、2000年にノーベル化学賞を受賞した。 幼少時から家族と共に台湾に渡り、満州で成長したが、終戦後に帰国し高山に戻った。1957年に東京工業大学科学光学科に入学し、高分子物性を研究することになった。その後、「共重合体のブロック鎖に関する研究」で工学博士を取得した。 |
東海林太郎 |
東海林太郎は、戦前を代表する日本の歌手である。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動の姿勢で歌う独特な歌唱スタイルで知られている。学業終了後、1923年に南満州鉄道に入社するも、左翼的思想から左遷され、帰国して、一時期中華料理店を経営する。声楽を学び、音楽コンクールで入賞して歌謡界に入った。 1933年、現在のキングレコードで専属歌手となり『河原月夜』『山は夕焼け』などを歌ってデビューする。その翌年には、『赤城の子守歌』を発表して空前の大ヒットを記録する。東海林太郎のヒット曲には『赤城の子守唄』『むらさき小唄』『麦と兵隊』『名月赤城山』『旅笠道中』『野崎小唄』『忠治子守唄』『椰子の実』『琵琶湖哀歌』などがある。 |
杉原千畝 |
日本の官僚、外交官。杉原は、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していたが、当時、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、ポーランドから避難してきた難民に、大量のビザを発給した。当時の日本の外務省からの訓令に反したものだったが、これにより、約6000人ほどの避難民が救済された。難民の多くはユダヤ系であったことで、「日本のシンドラー」と呼ばれることがある。 |
杉田玄白 |
江戸時代の蘭学医。医師として開業すると共に、天真楼という医学塾を開く。長崎からオランダの医学書を持ち帰った前野良沢らと共に、千寿骨ヶ原において死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに驚愕する。仲間とともに『ターヘル・アナトミア』を和訳して、有名な『解体新書』として刊行した。 |
杉文 |
杉文は、江戸時代末期から大正時代にかけての日本の女性で、幕末の思想家・吉田松陰の妹である。一度は松陰門下の久坂玄瑞と結婚したが、俗にいう〔禁門の変〕で夫が自害したことで未亡人となる。 禁門の変とは、元治元年7月19日に京都で起きた武力衝突事件で、蛤御門の変あるいは元治の変、元治甲子の変とも呼ばれている。 後に、姉の元夫である楫取素彦と再婚し、楫取美和子を名乗る。夫は群馬県令や貴族院議員を歴任したことで知られる。尚、杉文を主人公にした大河ドラマ『花燃ゆ』が2015年に放送されている。 |
鈴木貫太郎 |
鈴木貫太郎は、和泉国大鳥郡伏尾新田出身の海軍軍人であり政治家である。爵位は男爵であり軍人としての階級は海軍大将であった。海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などの顕職を歴任した。 明治10年(1877年)に前橋市に転居し、明治17年には海軍兵学校に入学し、日清戦争に従軍、明治31年海軍大学校を卒業した。後に、二・二六事件で襲撃されるも一命を取り留め、次々と要職を歴任し、第42代内閣総理大臣に就任した。 |
鈴木章 |
鈴木章は、北海道鵡川村出身の日本の化学者である。北海道大学理学部化学科卒業、北海道大学大学院理学研究科化学専攻博士課程修了し、「ヒドロフェナンスレン誘導体の合成」の研究で理学博士を取得している。 1979年、芳香族化合物の合成法として重要な〔鈴木・宮浦カップリング〕を発表した。これは、金属パラジウム触媒の作用で、炭素を効率よく結合させる画期的合成法であり、2010年にノーベル化学賞を受賞している。 |
鈴木大拙 |
鈴木大拙は、石川県金沢市本多町の旧金沢藩藩医の家に出生した、文学博士であり、仏教学者である。禅についての研究に優れ、これを英語で著わし日本の禅文化を広く海外に知らしめたことで知られる。 |
鈴木梅太郎 |
鈴木梅太郎は、静岡県榛原郡堀野新田村の農家で出生した、戦前の日本の農芸化学者である。帝国大学農科大学農芸化学科を卒業し、東京帝国大学教授を務め、理化学研究所の設立者のひとりでもある。 梅太郎は、米糠を脚気の予防に使えることを発見した事で知られる。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者である。 |
菅原道真 |
菅原道眞は、平安時代の貴族であり学者、漢詩人、政治家である。道眞の出生は定かではないが、奈良市にある喜光寺に残る伝えでは、現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。 道真は幼少時より詩歌の才能を発揮し、18歳で文章生(もんじょうせい)になったという。その後も次々と出世し、宇多天皇に重用され右大臣にまで昇進した。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが道真の建議により遣唐使は停止となった。 しかし、時の左大臣藤原時平と折り合いが悪く、大宰府へ左遷され現地で没した。その死後に天変地異が多発したことで、朝廷に祟りをもたらしたとされる。現在では学問の神として親しまれている。 |
関孝和 |
関孝和は、日本の江戸時代の数学者(和算家)である。関孝和の生誕地は上野国藤岡と江戸との2説があるがはっきりはしない。彼は若くして、吉田光由の『塵劫記』を独学し高度な数学を学び、甲斐国甲府藩の徳川綱重・綱豊(後の6代将軍徳川家宣)に仕えて勘定吟味役となる。 関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展をする上で重要な役割を果たした。特に天元術に根本的な改良を加えた。1674年、『発微算法』を著し点竄術(てんざんじゅつ)を考案した。点竄術は筆算による代数の計算法であり、和算が高等数学へと発展する基礎となった。世界に先駆けて、現代の高等数学である行列式や終結式の概念に到達している。 関は暦の作成に必要な円周率を少数第11桁まで求めている。更に、ヤコブ・ベルヌーイがベルヌーイ数を発見する1年前にそれを発見している。方程式の求根のために現在でいう導関数や求積を行っていて、ニュートンやライプニッツよりも前の時代に微積分学の初期の概念に到達していたともいわれる。 |
世阿弥 |
世阿弥は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師である。父の観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成し多くの書を残した。この能は観世流として現代に受け継がれている。 父親である観阿弥が31歳のとき世阿弥はは生まれ、幼少時より父の一座に出演しするようになる。1374年、彼が13歳のおり、観阿弥が今熊野で催した猿楽能に出演し、室町将軍足利義満の目にとまる。 1384年、観阿弥が没すると世阿弥は観世太夫を継ぐ。義満が没し将軍が足利義持の代になっても、猿楽は深化する。ただ、義持は猿楽より田楽を好んだという。義持が没し足利義教の代になると、弾圧されるようになり、世阿弥は出家する。失意の中、1434年に佐渡国に流刑される。 |
清少納言 |
清少納言は、平安時代の女流作家であり歌人である。随筆「枕草子」の作者として有名である。清少納言は、梨壺の五人の一にして著名歌人とされた清原元輔を父親とし、『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父を曽祖父に持って生まれた。 清少納言は、中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、家集『清少納言集』に42首が伝わっている。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集している。 |
雪舟 |
雪舟は、室町時代に活動した禅僧で水墨画家である。備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。その後、遣明船に同乗して明に渡り、李在より中国の画法を学んだとされる。 そのため、現存する作品の多くは、中国風の水墨山水画である。とはいえ、肖像画も残っていて花鳥画の技術もあったとされる。国内各地を旅して写生に努め、日本独自の水墨画の技法を確立し、後世の日本画壇に大きな影響を残した。 代表作には、『四季山水図(山水長巻)』『秋冬山水図』『天橋立図』『破墨山水図』『慧可断臂図』などがある。 |
千利休 |
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも呼ばれる。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠とされる。 本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え重用される。3千石もの禄を賜り、茶人としての名声と権威を天下に示し、秀吉の政事にも影響をを与えるようになる。しかし、天正19年、秀吉の逆鱗に触れ、切腹して果てる。享年70歳だった。 |
蘇我入鹿 |
蘇我入鹿は、飛鳥時代の豪族である。大和朝廷の有力な大臣であったが、大化の改新の前夜〔乙巳の変〕において討たれた。その後、蘇我氏が凋落する始まりとなった。 蘇我入鹿は、青少年期には秀才だったとされ、僧・旻に学問堂で学んだ。642年、皇極天皇の即位の折り、大臣だった父親の蝦夷に代わって国政を掌理するようになる。この頃、聖徳太子らが天皇中心で国政を行おうとする動きがあり、これに対抗して縁の深い古人大兄皇子を天皇につけようと考え、邪魔になる聖徳太子の王子など上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。入鹿は、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。 古人大兄皇子の異母弟で皇位継承のライバルだった後の天智天皇となる中大兄皇子や中臣鎌足らにより飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。世にいう〔乙巳の変〕である。蘇我氏はその後も凋落の一途をたどり滅亡する。 |
蘇我馬子 |
蘇我馬子は、飛鳥時代の貴族で政治家である。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。その後の時代、大化の改新の前夜〔乙巳の変〕において討たれることになる蘇我入鹿は孫である。 敏達天皇時代に大臣となり、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕える。54年間に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。 |
孫正義 |
孫正義は、在日韓国人実業家の次男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で生まれた、日本の実業家である。1990年に日本に帰化している。 若くしてアメリカに留学したり、大学に入学して学ぶ。1979年にシャープに自動翻訳機を売り込み1億円を得る。これを元手に米国でソフトウェア開発会社の「Unison Wor立する。1981年には日本でもコンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立する。更に福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立する。1994年には、ソフトバンクと米国ヤフーとの合弁企業〔ヤフー(株)〕を設立するなど多くの企業を設立した。その後も極めて積極的な事業を展開している。 |
伊達政宗 |
伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、陸奥仙台藩の初代藩主である。幼少時に疱瘡(天然痘)に罹患したことで右目を失明したため、隻眼となり後世独眼竜と呼ばれる。 豊臣秀吉が織田信長の全国統一を受け継いだ頃、秀吉から何度も上洛を促されたが中々応じず黙殺していた。秀吉の小田原征伐に参戦するよう催促され、結局小田原に至り、秀吉に服属し参戦する。遅参の故に、秀吉は会津領を没収したが、伊達家の72万石は安堵した。小田原が陥落して秀吉の日本統一が完成した。 |
高橋是清 |
高橋是清は、日本の幕末の武士、仙台藩士で明治、大正、昭和時代初期の官僚、政治家である。立憲政友会第4代総裁、大蔵大臣、第20代内閣総理大臣を務めた。財政家であり総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。 是清は藩命により勝海舟の息子と海外へ留学したが、アメリカ人に裏切られたりして一時は奴隷同様の生活を強いられた。しかし、その間に英会話と読み書き能力を習得し帰国する。 文部省に入省し、十等出仕となり、文部省、農商務省の官僚、特許局初代局長に就任し日本の特許制度を整えるなど活躍した。日露戦争発生に際し、日銀副総裁として戦費調達の為に戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった。幾多の困難を乗り越え戦費調達に成功する。1911年には日銀総裁となる。 1913年、原総理大臣が暗殺された後、総理大臣に就任するが、政権は半年で崩壊した。幾多の政変の後、軍事予算の縮小を図らんとしたが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍青年将校らに暗殺された。 |
高杉晋作 |
高杉晋作は江戸時代後期の長州藩士である。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。長州藩奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕へと向かわせた。 |
高村光雲 |
高村光雲は、日本の仏師であり彫刻家である。江戸下谷に町人兼吉の子として生まれ、1863年から仏師の高村東雲の徒弟となり、後に東雲の姉エツの養子となり、高村姓となる。 明治維新以後は廃仏毀釈運動により仏師の仕事はなく木彫も衰え、生活が苦しかったが、光雲は木彫に専念、写実主義を取り入れることで木彫りを復活させた。代表作に『老猿』『西郷隆盛像』『楠公像』『山霊訶護』などがある。 |
高村光太郎 |
高村光太郎は、東京府東京市下谷区下谷西町出身の詩人であり彫刻家、画家である。『道程』『智恵子抄』等の詩集で有名であり、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられている。 1883年、彫刻家の高村光雲の長男として生まれる。1897年に東京美術学校彫刻科に入学するが、文学にも関心を寄せ、与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿もする。1906年にはニューヨーク、ロンドンなどに留学する。1914年、詩集『道程』を出版し、長沼智恵子と結婚する。 詩集には『道程』『智恵子抄』『をぢさんの詩』『暗愚小伝』などがあり、歌集に『白斧』、随筆に『某月某日』『独居自炊』『山の四季』などがある。 |
高浜虚子 |
高浜虚子は、愛媛県温泉郡長町新町出身の明治・昭和期の俳人であり小説家である。ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。1888年、伊予尋常中学に入学、正岡子規に師事し俳句を教わるようになり、子規より虚子の号を授かる。 「ホトトギス」を主宰し、五七五の定形と季語を尊重した。また俳句の理念は〈花鳥諷詠〉にあると提唱して、客観写生による自然描写の文学と定義づけた。芸術院会員であり文化勲章を受章している。 |
高峰譲吉 |
高峰譲吉は、現在の富山県高岡市出身の科学者、工学博士、薬学博士であり実業家である。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校を卒業した。理化学研究所の設立者の一人として知られる。 1854年、高峰譲吉は現在の富山県高岡市御馬出町の漢方医高峰精一の長男として生まれる。幼少時より外国語や科学への才能をみせた。12歳で加賀藩から選ばれて長崎へ留学し、海外の科学に触れる。 1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立した。1894年、デンプンを分解する酵素、アミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。 |
高木貞治 |
高木貞治は、岐阜県大野郡数屋村出身の日本の数学者で、東京帝国大学教授、第1回フィールズ賞選考委員、文化勲章受章者である。 高木貞治は、岐阜尋常中学校を経て第三高等中学校(現・京都大学)へ進み1894年に卒業した。更に、帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ留学、ヒルベルトに師事して多大な影響を受ける。 彼は、代数的整数論において〔類体論〕を確立し、クロネッカーの青春の夢という難問をを解決した。更に、ヒルベルトの掲げた23の問題のうち、第9問題と第12問題に関連した難問を肯定的に解決した。彼の著わした書籍には『解析概論』『初等整数論講義』『代数的整数論』などがある。 |
高野辰之 |
高野辰之は、長野県下水内郡豊田村の豪農出身の国文学者であり作詞家である。高野辰之は、1897年長野県尋常師範学校を卒業し上京、東京帝国大学で上田萬年に師事して国文学を学んだ。1910年には東京音楽学校教授となる。 国文学者として「国文学史」教科書、「近松門左衛門全集」、『日本歌謡史』、浄瑠璃史、日本演劇史などの業績を残した。日本学士院賞を受賞している。また、多くの尋常小学校唱歌の作詞者として知られる。 高野辰之が作曲した主な曲には『故郷』『朧月夜』『もみじ』『春がきた』『春の小川』など多数がある。そのほか、多くの学校の校歌も作曲している。 |
高倉健 |
高倉健は、福岡県中間市出身の映画俳優であり歌手である。日本を代表する映画スターとして半世紀以上にわたって君臨した。1955年、映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェース第2期生として東映への入社を果たす。採用から僅か1か月半で主役デビューすることが決まり、翌年に『電光空手打ち』主役デビューする。 『日本侠客伝シリーズ』『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演するようになり大スターの風格を持つようになる。『網走番外地』の主題歌も歌い200万枚以上のヒットとなり、現在でもカラオケでの人気曲となっている。 高倉健の代表的な映画には『八甲田山』『網走番外地シリーズ』『南極物語』『ブラック・レイン』『日本侠客伝シリーズ』『鉄道員(ぽっぽや)』『昭和残侠伝シリーズ』『幸福の黄色いハンカチなどがある。 |
滝沢馬琴 |
滝沢馬琴は、正式な名は、曲亭馬琴であり、江戸時代後期の読本作者である。明和4年、江戸深川の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。 幼少時より、絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだと伝えられる。17歳のおり、越谷吾山に師事して俳諧を深め、吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録している。21歳になると俳文集『俳諧古文庫』を編集している。 24歳の頃、黄表紙『尽用而二分狂言』を刊行し戯作者として出発し、30歳頃からは本格的に創作活動を始めた。読本『高尾船字文』を出し馬琴の出世作となった。滝沢馬琴の作品には『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などがある。 |
沢庵宗彭 |
沢庵宗彭は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持である。一般的に沢庵漬けの考案者と言われている。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。 沢庵宗彭は、1573年、但馬国出石に生まれる。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家した。幾多の流れの末、沢庵は大徳寺首座となっていたが、天皇から賜る紫衣の着用は幕府が認めた者にのみ限ることを定めた、江戸幕府の禁中並公家諸法度に対する反対運動を起こし、出羽国に流罪となる。世にいう紫衣事件である。その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。 |
谷崎潤一郎 |
谷崎潤一郎は、東京府東京市日本橋区出身で、明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで活躍した小説家である。日本国内だけでなく海外からもその作品の芸術性の高さが評価されている。近代日本文学を代表する小説家の一人である。 谷崎潤一郎は、中学時代に既に散文や漢詩をよくし「神童」と言われるほどであった。一高卒業後東京帝国大学文科大学国文科に進み、和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』などを発表し、新進作家として登場する。 生涯に亘って活動的に執筆を続けた谷垣純一郎は、5度にわたってノーベル文学賞の候補にノミネートされたが受賞はできなかった。代表作には『愛すればこそ』『痴人の愛』『卍(まんじ)』『蓼喰ふ虫』『春琴抄』『猫と庄造と二人のをんな』『細雪』『鍵』『瘋癲老人日記』『台所太平記』などがある。 |
竹久夢二 |
竹久夢二は、日本の画家であり詩人である。独特なタッチで非常に多くの抒情的な美人画を描き、それは「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家である。 児童雑誌への挿絵や、詩や歌謡、童話などの創作も多く、中でも『宵待草』の詩に、バイオリニストの多忠亮が曲を付けると、またたく間に全国に知れわたり、人々の心をとらえた。現在でも広い世代の愛唱歌となっている。 書籍の装幀や、日用雑貨や浴衣などのデザインも手がけ、現在でいうグラフィック・デザイナー草分け的存在でもある。終生、中央画壇に入ることはなく、野にあって花を咲かせた画家であった。 |
田山花袋 |
田山花袋は、当時の栃木県邑楽郡館林町生れの小説家である。この地は現在は群馬県になっている。 田山花袋は12歳から漢学塾で漢詩文を学びはじめ2年後には漢詩集を編み、桂園派の和歌や西洋文学にも親しむ。後に尾崎紅葉のもとへ入門、国木田独歩、島崎藤村と知り合いとなり、『抒情詩』を刊行し、ここに40編の詩を収めている。1904年に勃発した日露戦争時に従軍記者となり、そこで軍医部長の森鴎外と知り合いになる。 『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、読者や文壇に衝撃を与えた。これらの作品により島崎藤村と並ぶ代表的な自然主義作家となった。他の代表作には『生』『時は過ぎゆく』『百夜(ももよ)』などがある。 |
田沼意次 |
田沼意次は、江戸時代中期の旗本であり後に大名となった、江戸幕府老中である。遠江相良藩の初代藩主であり相良藩田沼家初代でもある。 田沼意次は、第10代将軍徳川家治の信任が厚く、昇進真覚ましく、明和4年には御側御用人から側用人へと出世した。明和6年には侍従にあがり老中格となる。安永元年には相良藩5万7千石の大名に取り立てられる。前後10回の加増により、僅か600石の旗本から5万7千石の大名にまで出世したのである。 意次を中心とした幕府閣僚は、悪化する幕府財政を改善するために重商主義政策による改革に取り組む。田沼時代と呼ばれる権勢を誇るようになる。幕府財政は改善し景気もよくなるが、一方で金銭中心の社会が出現し、贈収賄が横行する時代となる。 しかし、都市部が栄え農村部が疲弊し、印旛沼運河工事の失敗や明和の大火・浅間山の大噴火などが勃発があり、対策の失敗や治安の悪化で次第に田沼政治への批判が強まりやがて失脚した。石高も1万石にまで減じられた。 |
田中角栄 |
田中角栄は、日本の政治家であり第64・65代内閣総理大臣・建築士・衆議院議員・郵政大臣・大蔵大臣・通商産業大臣などを歴任した。 自民党最大派閥の田中派を統率し、巧みに官僚組織を統御して日本の政治をリードした。総理大臣時代、日中国交正常化や日中記者交換協定・第一次オイルショックなどの政治課題を乗り切った。日本列島改造論は日本の高度経済成長を促進したが、後に狂乱物価を誘発した。金脈問題により首相辞任、ロッキード事件により逮捕され、やがて失脚した。 |
田中耕一 |
田中耕一は、日本の化学者でありエンジニアである。東北大学名誉博士である。ソフトレーザーによる質量分析技術を開発し、2002年にノーベル化学賞を受賞した。受賞以降は、血液一滴で病気の早期発見ができる技術の実用化に向けて活躍中とされる。 株式会社島津製作所シニアフェロー、田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長、東京大学医科学研究所客員教授、日本学士院会員等に就任している。また、文化功労者表彰、文化勲章を授与されている。 |
武田信玄 |
武田信玄は、戦国時代の武将であり甲斐の守護大名・戦国大名である。甲斐の守護を務めた武田信虎は甲斐の統一を果たし戦国大名となるが、その嫡男である信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。 越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたる川中島での決戦を繰り返す。その間に、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部をも手中に収め、領国を拡大する。幾多の戦いの最中、西上作戦の途上に病を発し、「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」などを遺言して信濃で没した。 |
平将門 |
平将門は、平安時代中期の関東の豪族である。平将門は、上総の国の国司として赴任するが、任期後もその地に居座り勢力を拡大し、その地の権益を守る為に武士団を形成する。 平将門の父親、良将が没すると相続争いが起こり、935年には叔父を殺害、そして939年、対立する従弟の平貞盛の引渡しを常陸国府に要求する。国府がそれを拒絶すると、将門は常陸国府をはじめ関東八カ国の国府を次々に攻撃し国司を追放する。 こうして、京都の朱雀天皇に対抗して〔新皇〕を名乗り東国の独立を標榜し、遂には朝敵となる。朝廷が藤原忠文を征東大将軍に任命し、鎮圧の為に派遣するが、その到着以前に、平将門は地元の武士、藤原秀郷、平貞盛により討伐されてしまう。世にいう〔承平天慶の乱〕である。この乱は、武士のもつ力が注目され始める切欠となった。 |
平清盛 |
平清盛は、平安時代末期の武将で公卿である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱での功績で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱では最終的に勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任ぜられる。 娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどの栄華を極めた。平氏のあまりの権勢に対し、後白河法皇ら院政勢力は清盛と対立を深めていく。 治承三年、平清盛は京都を制圧、後白河院政を停止する、治承三年のクーデターを起こし、法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握る。平氏の独裁は貴族ばかりか寺社、武士から大きな反発を受け源氏が平氏打倒に立ち上がる。そんな中、清盛は熱病で没した。 |
太宰治 |
太宰治は、日本の小説家であり作家である。昭和11年、最初の作品集『晩年』を刊行、その後、『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』などの作品を残したが、昭和23年に山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺を図り死去した。作風は新戯作派、無頼派と呼ばれた。 |
近松門左衛門 |
近松門左衛門は、江戸時代前期の元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者である。元々は竹本座に属する浄瑠璃作者である。一度は歌舞伎狂言作者に転向したものの再度浄瑠璃に戻って活躍した。 全体では200作以上の浄瑠璃を書いたが、その多くは時代物であったが、20曲ほどの世話物も残している。世話物というのは町人社会の義理や人情をテーマとした作品である。 近松門左衛門の作品には、近世浄瑠璃の始まりとされる『出世景清』や時代物の『国性爺合戦』『曽根崎心中』などがある。 |
千葉周作 |
千葉周作は、江戸時代後期の武士、剣術家であり、北辰一刀流の創始者である。千葉周作の遠い先祖は、桓武平氏良文流、板東八平氏の一つの名門千葉氏で、北辰流千葉常胤である。 幼少時に父親は周作を連れて家出し、宮城県栗原郡長岡村荒谷の斗瑩稲荷神社境内に居を構える。その後、周作は中西派一刀流などで剣術の腕を磨く。いろいろないきさつの末、古川荒谷で入門していた北辰夢想流と中西派一刀流とから新たに北辰一刀流を創始した。 その後は、武蔵や上野(群馬県)などでの他流試合で門弟数を増やすが、伊香保神社に奉納額を掲げる計画をしたが、地元の真庭念流との騒動(伊香保神社掲額事件)となり、結局上野からは撤退する。江戸に帰り、玄武館道場を開き多くの門人を抱える。門下から幕末の重要人物を多数輩出することとなる。 |
円谷英二 |
円谷英二は、特撮監督の専門家で、映画・特撮の監督・映画監督・撮影技師・発明家である。昭和期の特殊撮影技術に一風を吹き込み一世を風靡した。 戦後初期には「太平洋の鷲」などの戦争映画を残したほか、多くのゴジラシリーズ映画を作った。テレビ番組の「ウルトラQ」も大人気であった。 |
坪内逍遥 |
坪内逍遥は、尾張藩領美濃国加茂郡太田宿生まれで、主に明治時代に活躍した日本の小説家であり評論家、翻訳家、劇作家でもある。父から漢学書を読まされ、少年期には貸本屋に通って読本・草双紙などの江戸戯作や俳諧、和歌に親しみ、特に滝沢馬琴に心酔したという。 1883年、東京大学文学部政治科を卒業し文学士となる。在学中は西洋文学を学ぶ。1885年、26歳の時、評論『小説神髄』を発表し、小説を芸術にまで高めるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説は先ず人情を書くべきとした。これにより、近代文学の誕生に大きく貢献したとされる。 坪内逍遥の主な作品には、『小説神髄』『当世書生気質』『未来の夢』『妹と背鏡』『細君』『桐一葉』『牧の方』『役の行者』『新曲浦島』、そしてシェイクスピア全集の翻訳などがある。 |
壺井栄 |
壺井栄は、香川県小豆郡坂手村出身の小説家であり詩人である。1899年、醤油樽職人の岩井藤吉の五女として生まれ、貧困で苦労するが、坂手小学校、内海高等小学校を卒業する。その後、郵便局や役場で働き、1925年には上京、26歳のとき、プロレタリア作家・壺井繁治と結婚する。 1938年、処女作『大根の葉』を発表、その後も数多くの作品を執筆した。1952年には『二十四の瞳』を発表する。この作品は1954年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され、大好評を博し一世を風靡した。小豆島の名を全国に知らしめもした。 内海町名誉町民となったほか、芸術選奨文部大臣賞、新潮文芸賞、児童文学賞など多くの賞を受賞した。1979年には壺井栄賞が創設された。 |
堤義明 |
堤義明は、日本の実業家で西武鉄道グループの元オーナーである。東京に実業家の堤康次郎と内縁関係にある石塚恒子の間に生まれる。父は西武グループの基礎を一代で築き上げた堤康次郎であり、幼少時より父親からスパルタ教育により帝王学を教育されて育った。 一時は総資産額で世界一とも言われたが、西武グループの度重なる不祥事の責任を取り引退、インサイダー取引疑惑で有罪判決を受けている。堤義明に関しては多くのスキャンダルがあって、まっとうな人間で、この男を好きな者のは少ない。 |
土屋文明 |
土屋文明は、群馬県群馬郡群馬町上郊村出身の歌人であり国文学者である。幼少期に叔父から俳句の手ほどきを受け、旧制高崎中学在学中から俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿していた。 中学校卒業後には、伊藤左千夫を頼って上京、短歌の指導を受け『アララギ』に参加する。第一高等学校文科、東京帝国大学卒業後『アララギ』撰者などを経て1930年には、斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎアララギ派の指導的存在となる。 戦後、群馬吾妻に移り万葉集の研究に専念し、万葉集研究の第一人者となる。昭和38年より宮中歌会初召人となる。61年には、文化勲章を受章している。著書に『万葉集年表』・『万葉集私注』・『万葉集名歌評釈』などがある。 |
鶴田浩二 |
鶴田浩二は、日本の俳優であり歌手である。昭和時代を代表する映画スターとして活躍し、数多くの映画やドラマに主演した。歌手としても独特な歌い方で多くのヒットを残した。 19歳の時、関西大学専門部商科に入学するが学徒出陣命令により徴兵され、海軍航空隊へと配属される。特攻隊要員となるが終戦により出撃を免れる。抜群の甘いマスクと時にのぞかせる翳りの表情が素敵でトップスターとなる。任侠映画や戦争映画を中心に無数の映画に出演し、長いあいだ日本の映画界に君臨した。 代表曲に『好きだった』『傷だらけの人生』『赤と黒のブルース』『無情のブルース』『街のサンドイッチマン』などがある。 |
寺田寅彦 |
寺田寅彦は、高知県出身の戦前の日本の物理学者であり随筆家、俳人である。地球物理学関連で潮汐の副振動の観測などを行った。1913年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)により帝国学士院恩賜賞を受賞している。 寺田は自然科学者ながら文学などにも造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残した。「天災は忘れた頃にやってくる」という有名な言葉も残している。 |
手塚治虫 |
日本の漫画家でアニメーター、アニメーション監督、医学博士。戦後日本でのストーリー漫画の第一人者とされ、その後の日本漫画界発展の基礎を作った。『鉄腕アトム』や『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などの超ヒット作を残し、〔マンガノ神様〕と評された。 |
朝永振一郎 |
朝永振一郎は、東京生まれ京都育ちの日本の物理学者である。湯川秀樹とは中学校~大学卒業まで同級であった。京都帝国大学理学部物理学科を卒業、1931年にドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。 1947年、くりこみ理論を形成して水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を成功させた。この業績により、1965年、ノーベル物理学賞を受賞した。 |
東郷青児 |
東郷青児は日本の洋画家である。夢見るような甘い女性像に人気があり、昭和の美人画家として一世を風靡した。「二科会のドン」とも呼ばれていた。 社交的な性格で女性スキャンダルも多かった。 |
東郷平八郎 |
東郷平八郎は、日本の武士で薩摩藩士・軍人・元帥海軍大将である。明治時代、日本海軍の指揮官として日清戦争、日露戦争の大勝利を導いた。これら勝利により日本は〔世界の五大国〕の一員となるまでに存在感を示すようになった。 日露戦争における日本海海戦では、当時世界最強を誇ったロシア帝国のバルチック艦隊を殲滅し、その名を世界の知らしめた。旗艦三笠には「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」を意味するZ旗を掲げて士気を鼓舞した。大本営に対しては、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」と打電した。 |
東條英機 |
東條英機は、日本の政治家であり陸軍軍人、陸軍大臣である。内閣総理大臣、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣などを歴任している。 彼は、現役軍人のまま昭和16年10月18日に第40代内閣総理大臣に就任した。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃によりアメリカに宣戦布告し太平洋戦争に突入した。 敗戦時に拳銃自殺を図るも連合国軍により一命を取りとめた。その後、いわゆる東京裁判によってA級戦犯として起訴され、昭和23年12月23日に処刑された。満64歳であった。 |
徳川家康 |
徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり戦国大名である。江戸幕府の初代征夷大将軍となり、三英傑の一人と呼ばれる。。家系は三河国の国人土豪・松平氏であるが、本姓は源氏だとされる。 徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、15世紀の応仁の乱以降100年にも及んだ戦国時代に終止符を打った。江戸幕府を開き幕藩体制を敷いて17世紀から19世紀後半に至る264年間の江戸時代を画した。 |
徳川吉宗 |
徳川吉宗は、江戸幕府第8代将軍である。徳川家康の曾孫にあたる。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれ、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍家継の死により秀忠の系統の男系男子が途絶えたことで、御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。 紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、市民の意見を受ける目安箱の設置などの享保の改革を実行し、幕府財政の復興をなし、江戸時代を代表する名君の一人とされる。 |
徳川光圀 |
徳川光圀は、水戸藩初代藩主徳川頼房の三男であり徳川家康の孫に当たり、水戸藩2代目藩主であり『水戸黄門』として知られる。 藩主時代、寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地探検などを行う。儒学を奨励、彰考館を設け『大日本史』を編纂した。この書物編纂のために家臣を諸国に派遣したり、隠居後に水戸藩内を巡視したなどから、後世の『水戸黄門漫遊記』と呼ばれる逸話の主となった。 |
徳田秋声 |
徳田秋声は、現在の金沢市横山町出身の小説家である。幼少時は病弱で小学校へも遅れて入学するほどであった。高等中学校に入学のころから読書に目覚め小説家を目指すようになった。 1895年、尾崎紅葉の門下に入る。翌年、『薮かうじ』を「文芸倶楽部」発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、これが実質的処女作となる。1900年「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となる。 その後も多くの作品を残したが、彼の代表作には『黴』『あらくれ』『縮図』などがある。 |
徳富蘇峰 |
徳富蘇峰は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリストであり思想家、歴史家、評論家である。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られ、小説家徳冨蘆花の兄にあたる。 徳富蘇峰は、明治9年に上京し、同志社創設者の新島襄により洗礼を受けクリスチャンいなる。言論で身を立て、地上に「神の王国」を建設することを目指したという。 その後も多くの紆余曲折を経て、思想家、言論人として活動するが、その思想の揺れは大きく、行動も変化に富み、活動範囲も多岐にわたった。蘇峰が大正6年に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼるベストセラーになった。 |
豊臣秀吉 |
豐臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で天下人・関白・太閤であり、三英傑の一人とされる。尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。当初、織田信長に仕官し、逸話では草履取りなどをしながら次第に頭角を現し、出自より実力を重んじる信長に気に入られ目覚ましい勢いで出世していった。 本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、いわゆる「中国大返し」により急遽、京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。信忠の遺児三法師を擁して織田家内部で勢力争いを征し信長の後継の地位を得る。 大坂城を築城し、関白・太政大臣に就任し日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たす。太閤検地や刀狩などを行い、現代の平和な日本の礎を築いた。秀吉の死後、豊臣家は急速に勢力を弱め、やがて徳川家康により滅ぼされた。 |
豊田喜一郎 |
豊田喜一郎は、静岡県敷知郡吉津村山口生まれの経営者、技術者、トヨタ自動車創業者である。1920年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業し、経営者を志し、東京帝国大学法学部で学んだ。 その後、豊田紡織に入社し、サンフランシスコ、ロンドン、オールダムなどを視察した。碧海郡刈谷町に試験工場を作り、自動織機の開発を開始する。1926年には豊田自動織機製作所を設立し常務取締役に就任した。当時黎明期の自動車産業の将来を信じ、所内に自動車製作部門を新設している。 1937年にはトヨタ自動車工業株式会社として独立し、同年同社の副社長に就任した。その後、社長職を務め、世界に誇る自動車産業の礎となった。 |
豊田佐吉 |
豊田佐吉は、日本の発明家で実業家である。豊田紡織、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所を創業し、トヨタグループの創始者である。 佐吉は小学校卒業後、大工の修業を始めたが、18歳のころ発明で社会に貢献したいと考えるようになり、手近な手機織機の改良を始めた。その後も、発明を続け、豊田式木鉄混製力織機や無停止杼換式自動織機を初めとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をしたという。 |
利根川進 |
利根川進は、愛知県名古屋市生まれの生物学者である。東京都立日比谷高等学校を卒業後、京都大学理学部化学科、同大学院理学研究科に進み、同大学ウイルス研究所の渡辺格に師事したが、渡辺の薦めにより分子生物学研究のためにカリフォルニア大学サンディエゴ校へと留学する。 カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了しPh.D.を取得、米ソーク研究所・ダルベッコ研究室でポスト・ドクター研究員になるなどして研究を重ねる。1987年、免疫グロブリンの特異な遺伝子構造を解明した功績によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。 現在、マサチューセッツ工科大学教授、ハワード・ヒューズ医学研究所研究員、理化学研究所脳科学総合研究センターセンター長、理研-MIT神経回路遺伝学研究センター長等も兼任している。 |
永井荷風 |
永井荷風は、出身の小説家である。荷風は、芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみがあるだけでなく、漢学や日本画や書にまで通じていた。 成人することには、江戸時代の名作である『水滸伝』や『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などを読み漁る生活をしていた。1897年に家族と上海旅行に行き、帰国後に処女作となる『上海紀行』を発表した。 永井荷風の代表作には『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』『腕くらべ』『墨東綺譚』『つゆのあとさき』等がある。 |
夏目漱石 |
夏目漱石は、日本の小説家・評論家・英文学者であり、俳号は愚陀仏。大学時代に正岡子規と出会い俳句を学んだ。 イギリスへ留学し、帰国後、東京帝大講師の傍ら『吾輩は猫である』を発表して有名となる。『坊ちゃん』や『虞美人草』『三四郎』『倫敦塔』などの作品がある。晩年は胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となった。 |
夏目雅子 |
夏目雅子は、1957年、六本木の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれた、日本の女優である。小学校3年生のとき、TVドラマ『チャ子ちゃんハーイ!』を見て女優を志すようになる。 1976年、日本テレビ・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか』のオーディションに挑戦し486人の中からヒロイン役に抜擢され女優デビューする。 その後、多くのCMなどに出演したほか、1978年には大河ドラマ『黄金の日日』に出演、日本テレビ系の『西遊記』では三蔵法師役を演じて人気を博す。1985年2月に急性骨髄性白血病を発病し9月に他界した。27歳の若さだった。 |
中臣鎌足 |
中臣鎌足は、飛鳥時代の政治家である。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖として知られる。鎌足は、後に天智天皇となる中大兄皇子の腹心として活躍し、大化の改新における中心人物である。 彼は、元々は中臣氏の出身であり、初期には中臣鎌子と名乗っていたが、後に中臣鎌足に改名した。彼の臨終に際し、大織冠とともに藤原姓を賜っている。これが、藤原氏の始祖とされる所以である。 このため、生存中の彼は中臣鎌足であり、死後の彼を指す場合には藤原鎌足と呼ぶ。『藤氏家伝』には、彼を称して「偉雅、風姿特秀」と記されているという。 |
中川一政 |
中川一政は、1893年生まれの、東京府東京市本郷生まれの洋画家であり、美術家・歌人・随筆家である。成人した頃、巽画会展への出品作品が岸田劉生に見出されて画家を志した。洋画を初め、水墨画・版画・陶芸・詩作・和歌・随筆・書と多彩な作品を残した。 全てが独学の画家であり、自らの画風を「在野派」と称していた。中川一政の代表作には『漁村凱風』や『薔薇』『箱根駒ケ岳』などの絵画作品がある。1975年、文化勲章を受章、文化功労者表彰を受賞している。 |
中曽根康弘 |
中曽根康弘は、群馬県高崎市生まれ、東京帝国大学(現・東京大学)出身の日本の大政治家である。長い期間にわたり、衆議院議員、科学技術庁長官、運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官、内閣総理大臣、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁などの要職を歴任した。特に3期にわたり内閣総理大臣として君臨し、世界にしられる政治家として活躍した。 冷戦時代、日米防衛協力体勢の議論に関する記者会見で、中曽根は「日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたが、通訳により「不沈空母:unsinkable aircraft carrier」と意訳されたことがあった。 中曽根は、極めて積極的に、日本への原子力発電導入を推進した。その評価は〔9.11大震災・大津波・原子力発電所事故〕で揺れているが、それが善であったか悪であったか、未来の歴史しか証明することはできない。 |
中村修二 |
中村修二は、日本の愛媛県西宇和郡出身であるが、後にアメリカ国籍を取得しアメリカ人となった技術者であり電子工学者である。2014年度、赤崎勇・天野浩とともに、ノーベル物理学賞受賞した。 日亜化学工業在籍時に、高輝度青色発光ダイオードの製造方法を発明・開発し、世界で初めて実用化に成功した。青色発光ダイオードは、赤崎勇・天野浩らの研究において基本技術が発明されたが、実用化には中村の技術が必要だった。2007年には、世界初となる無極性青紫半導体レーザーの開発に成功している。 |
中谷宇吉郎 |
中谷宇吉郎は、石川県江沼郡片山津町出身の物理学者であり随筆家である。大正11年(1922年)、東京帝国大学理学部物理学科に入学し寺田寅彦に教えを受ける。卒業後、理化学研究所で寺田研究室の助手となる。北海道帝国大学理学部教授、北海道大学理学部教授などを歴任した。 昭和7年(1932年)、雪の研究を始めて、昭和11年には、世界で初めて、大学の低温実験室で人工雪の製作に成功した。こうして、気象条件と結晶が形成されるメカニズムの解明を行った。著書に『冬の華』『立春の卵』などがある。 |
長岡半太郎 |
長岡半太郎は、慶応元年(1865年)生まれで長崎県大村市出身の物理学者である。明治15年(1882年)、東京大学理学部に進学し、教授山川健次郎や助教授田中舘愛橘、イギリス人教師ノットに学んだ。その後、大学院に進み、更に助教授に就任した。ドイツに留学し帰国後、教授に就任し多くの弟子たちを育てた。 長岡は、原子核の周囲には数百~数千個の電子が、まるで土星の周囲を回る多くの衛星のようだと考える〔土星型原子モデル〕を提唱した。 |
南部陽一郎 |
南部陽一郎は、明治54年(1921年)、福井県福井市出身で、1970年にアメリカに帰化した日系アメリカ人理論物理学者である。専門は素粒子理論で東京大学で理学博士を取得している。シカゴ大学名誉教授、大阪市立大学名誉教授、立命館アジア太平洋大学アカデミック・アドバイザーであり、 1960年代に量子色力学と自発的対称性の破れに関して先駆的研究を行った。また、弦理論の創始者の一人であり、宇宙誕生の謎解きを試みる現代最先端の理論物理学の基礎となる貢献をした。 |
似鳥昭雄 |
似鳥昭雄は、1944年、樺太生まれで終戦後は札幌市で育った、日本の実業家である。株式会社ニトリの創業者で同社代表取締役社長を務めている。北海道工業高等学校卒業後、札幌短期大学卒業、北海学園大学編入を経て、1966年に北海学園大学経済学部を卒業した。 1967年、23歳で札幌において似鳥家具店を創業する。1972年には、現在の株式会社ニトリホールディングスの前身となる株式会社ニトリを設立した。2005年には、秋の栄典で藍綬褒章を受章した。 |
新渡戸稲造 |
新渡戸稲造は、文久2年(1862年)盛岡藩の当時奥御勘定奉行であった家に出生した、日本の教育者であり思想家である。明治6年(1873年)に東京外国語学校英語科に入学し、札幌農学校を経て、東京大学選科入学する。 明治15年(1882年)には、農商務省御用掛となるが、2年後に渡米してジョンズ・ホプキンス大学に入学する。更に独ボン大学で農業経済学を研究する。大正9年(1920年)、国司連盟設立時には事務次長のひとりに選ばれた。教育者で『武士道』の著者として国際的に高名であったためとされる。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。 |
新島襄 |
新島襄は、天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で出生した、日本の宗教家であり教育者である。明治六大教育家の1人とされ、現在の同志社大学の前身である同志社英学校を興したことで知られる。 成人した頃、友人から貰ったアメリカの地図書を見てアメリカに憧れるようになり、渡米を念願するようになる。元治元年(1864年)、米船ベルリン号で密出国する。翌年、ボストンに到着し、フィリップス・アカデミーに入学する。明治5年(1872年)アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、語学力を認められて通訳として参加する。 明治8年、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任する。その後、八重と結婚する。明治10年(1877年)には同志社女学校を設立する。 |
西村京太郎 |
西村京太郎は、昭和5年(1930年)東京府荏原郡荏原町生まれの日本の推理作家である。トラベルミステリーの第一人者で、十津川警部の生みの親として知られている。現在の東京都立産業技術高等専門学校卒業後、臨時人事委員会に就職するが、11年後に退職して私立探偵、警備員などを経て作家生活を始める。 初期には社会派推理小説を書いたが、やがてスパイ小説やパロディ小説、歴史小説などへと作品の範囲を広げる。代表作には、『天使の傷痕』『七人の証人』『終着駅殺人事件』『ミステリー列車が消えた』『十津川警部・怒りの追跡』『十津川警部 愛と死の伝説』などがある。 |
西田幾多郎 |
西田幾多郎は、明治3年(1870年)、石川県宇ノ気町森で出生した、日本を代表する哲学者である。幾多郎は江戸時代には大庄屋を務めた豪農の家に生まれた。石川県専門学校に学んだころ、哲学へ関心を持つようになる。 大学卒業頃には、幾多の困難に遭遇するが思索に耽るようになり『善の研究』を著わしている。京都大学教授を務め、名誉教授となった。西田の代表作には『アブセンス・オブ・マインド』『国語の自在性』『世界新秩序の原理』『絶対矛盾的自己同一』『デカルト哲学について』『フランス哲学についての感想』などがある。 |
西澤潤一 |
西澤潤一は、昭和元年(1926年)宮城県仙台市で出生した、日本の工学者である。専門分野は電子工学・通信工学で、半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の開発で独創的な業績を挙げる。上智大学特任教授、東北大学総長、岩手県立大学学長、首都大学東京学長を歴任した。半導体研究の黎明期から従事し数多くの成果を上げ、「ミスター半導体」とも呼ばれる。 |
二宮尊徳 |
江戸時代後期の農政家・思想家。「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した思想家である。戦前から戦後しばらくの間は道徳教育の絶好の教材として広く国民に親しまれた。 |
日親 |
日親は、応永14年(1407年)上総国で出生した、室町時代の日蓮宗の僧である。「不受不施義」を初めて唱えたとされる。父親の実弟である日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427年)には上洛して、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。著作に『折伏正義抄』『立正治国論』『埴谷抄』『伝燈抄』『本法寺縁起』がある。 |
日蓮 |
日蓮は、貞応元年(1222年)、現在の千葉県鴨川市で出生した鎌倉時代の仏教の僧であり、鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖である。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。 |
額田王 |
額田王は、飛鳥時代の日本の皇族・歌人で、天武天皇の妃とされています。万葉集や日本書紀などの史料により「額田女王王」や「額田姫王」「額田部姫王」とも記されています。 日本書紀によれば、額田王は鏡王の娘とされています。 俗説では、額田王が絶世の美人であったとされているが、確かな話ではありません。 |
根岸英一 |
根岸英一は、日本の化学者である。1935年、満州国新京で誕生し日本統治時代の朝鮮京城府城東区で育った。 1953年、湘南高等学校を卒業後17歳で東京大学に入学、1958年、東京大学工学部応用化学科を卒業し帝人へ入社した。その後、帝人を休職してフルブライト奨学生としてペンシルベニア大学博士課程へ留学しPh.D.を取得する。パデュー大学、シラキュース大学で教鞭をとる。 有機亜鉛化合物と有機ハロゲン化物とをパラジウムまたはニッケル触媒のもとに縮合させ、〔C-C結合生成物〕を得る根岸カップリングを発見する。この業績で2010年、ノーベル化学賞を受賞した。 |
根津嘉一郎 |
根津嘉一郎は、甲斐国山梨郡正徳寺村生まれの日本の政治家であり実業家である。東武鉄道や南海鉄道など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わり、「鉄道王」とも呼ばれる。 1889年に村会議員となり、東京へ進出する。若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成する。1891年には鉄道期成同盟会を結成し、中央線の敷設運動を行う。1905年には、東武鉄道の社長に就任し経営再建する。以降、政界にも進出して憲政会所属の衆議院議員4期務めた。後に勅選貴族院議員となっている。 |
乃木希典 |
乃木希典は、日本の武士、長府藩士であり軍人、教育者である。軍人の階級としては陸軍大将であったため「乃木大将」または「乃木将軍」などと呼ばれることも多い。。出雲源氏佐々木氏の子孫と称し源希典との署名もよく用いた。 乃木は日清戦争に出征したが、乃木率いる歩兵第1旅団は、破頭山、金州、産国及び和尚島において戦い旅順要塞をわずか1日で陥落させた。乃木は、日露戦争でも戦ったが、中でも203高地の攻略、旅順要塞の陥落には多大な犠牲を伴った。乃木は長男、次男の二名を戦死させ、長い戦いの末ようやく旅順要塞は陥落した。 旅順要塞陥落後、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した、いわゆる水師営の会見である。明治天皇は山縣有朋を通じ、乃木に対しステッセリが祖国のために頑張ったことを讃え、武人としての名誉を与えることを指示した。乃木はステッセリを極めて紳士的に扱い世界から賞賛を浴びた。 |
野依良治 |
野依良治は、日本の化学者である。専門分野は有機化学で、学位は工学博士である。2001年に「キラル触媒による不斉反応の研究」によりノーベル化学賞を受賞している。 独立行政法人理化学研究所理事長、名古屋大学特別教授、名城大学客員教授、高砂香料工業株式会社取締役。名古屋大学大学院理学研究科研究科長、理学部学部長、物質科学国際研究センターセンター長などを歴任した。 |
野口英世 |
野口英世は、福島県出身の細菌学者である。現在の日本医科大学修了後、ペンシルベニア大学医学部を経てロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に専念し黄熱病や梅毒等の研究で知られる。黄熱病の研究中に自身も罹患していしまいガーナのアクラ死去した。51歳であった。 ノーベル生理学・医学賞に三度ノミネートされるも黄熱病の研究中に罹患し他界したてめ受賞実現はしなかった。 |
野村胡堂 |
野村胡堂は、岩手県紫波郡彦部村の農家の次男として生まれた小説家である。また、作家、音楽評論家でもある。小学校時代より『絵本太閤記』や『水滸伝』を熱心に読んだという。 1896年に盛岡中学校に入学するが同窓生に金田一京助がいて、付き合いは一生涯続いた。下級生にいた石川啄木には俳句や短歌の手ほどきをしたとされる。 1931年、『文藝春秋オール讀物號』創刊号に捕物帳の執筆を依頼され『金色の処女』を発表した。銭形平次が主人公であり、『銭形平次捕物控』の第1作目となった。これはその後も1957年まで26年間連載され、長編・短編あわせて383編を数えた。 |
華岡青洲 |
華岡青洲は、宝暦10年(1760年)華岡直道の長男として紀伊国那賀郡名手荘西野山村で生まれた、江戸時代の外科医である。世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させたことで知られている。 彼は、手術の際に苦しむ患者の苦痛を和らげ、人名を救いたいと麻酔薬の開発を志した。そして、幾多の研究の結果、曼陀羅華という植物の実や草烏頭(トリカブト)を主成分としたいくつかの薬草に麻酔作用を発見する。 動物実験の後に、人体実験を考えるも実現できずにいたところ、実母と妻とが実験台になると申し出て、母の死、妻の失明という大きな犠牲の上で、全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功したのだった。 |
原敬 |
原敬は、安政3年(1856年)現在の盛岡市本宮で盛岡藩士の次男として生まれた、日本の外交官であり政治家である。原敬は、後の時代には「平民宰相」と呼ばれ親しまれてきたが、原家は上級武士の家柄であった。 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省し、農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得る。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されるが、陸奥の死後には退官した。その後、政界入りし、外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣、衆議院議員、内務大臣、立憲政友会総裁、内閣総理大臣、司法大臣などを歴任した。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と渾名された。 大正10年(1921年)、東京駅丸の内南口コンコースで右翼青年に襲撃され暗殺された。満65歳だった。 |
長谷川町子 |
長谷川町子は、大正9年(1920年)佐賀県小城郡東多久村で生まれた、日本初の女性プロ漫画家である。そのユーモラスの中に温かみと楽しさ、時に涙を誘うその作品は、戦前戦後、そして現在まで、多くの子供たちや大人たちに夢を与え続けている。 代表作に『サザエさん』『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』などの漫画がある。これらの漫画は昭和時代、平成時代を通して現在でも絶大な人気を博している。 |
萩原朔太郎 |
萩原朔太郎は、明治19年(1886年)群馬県東群馬郡北曲輪町で生まれた、日本の詩人である。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。 幼少時代は、神経質で病弱な子で孤独を好み、学校ではひとり除け者にされていたという。明治33年(1900年)、旧制県立前橋中学校に入学し、従兄弟の萩原栄次に短歌手ほどきをうける。在学中に級友と共に『野守』という回覧雑誌を出して短歌を発表する。明治36年には、与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首掲載され、「新詩社」の同人となる。 萩原朔太郎の主な詩集には、『月に吠える』『蝶を夢む』『青猫』『純情小曲集』『氷島』『定本青猫』『宿命』などがある。 |
浜田広介 |
浜田広介は、明治26年(1893年)山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた、日本の童話作家である。日本児童文芸家協会初代理事長を務めた。また、坪田譲治、小川未明とともに児童文学界の三種の神器と呼ばれた。 彼は、米沢中学を経て早稲田大学英文科を卒業しているが、大学入学の年に、『萬朝報』の懸賞小説に投稿し、短編小説『零落』が入選した。そして、これ以降何作かの小説を著した。また、大正13年(1917年)には、『黄金の稲束』が大阪朝日新聞の懸賞新作お伽話一等に入選し、それ以降、コドモ社の児童雑誌『良友』から童話を発表するようになり、本格的に童話作家を目指すようになる。 代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、現在でも幼稚園などの卒業遊戯に演じられることが多い。 |
林忠彦 |
林忠彦は、大正7年(1918年)山口県で出生した日本の写真家である。木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人とされ、終戦後の日本の風俗や風景など多くの写真を残した。また、多くの文士の写真も残している。 銀座のバー「ルパン」で坂口安吾や太宰治らと知り合いになり、彼らの酒場での姿や仕事場での風景を撮った写真が有名である。晩年には癌のために半身不随となりながらも東海道の風景写真を撮り続けた。平成3年に、郷里の徳山市(現・周南市)と徳山市文化振興財団により「林忠彦賞」が創設されている。 |
林芙美子 |
林芙美子は、明治36年(1903年)門司市小森江で生まれた、日本の小説家である。幼少時代は貧しい育ちだったためか、社会の底辺に生きる庶民を慈しむような名作を残した。 初期には貧しさを売り物にする作家、戦時中は軍国主義政府お抱えの小説家などの批判を受ける存在だったが、戦後は普通の日本人の姿を描き出す作家だった。 林芙美子の書いた作品数は非常に多いが、代表作には 『浮雲』『放浪記』『下駄で歩いた巴里』『晩菊』『戦線』『屋久島紀行』『美しい犬』『風琴と魚の町』『晩菊・水仙・白鷺』『下町』などがある。 |
濱口雄幸 |
濱口雄幸は、明治3年(1870年)土佐国長岡郡五台山で生まれた、日本の大蔵官僚であり政治家である。出生時に「幸雄」と命名されたのだが、出生届けを出しに行った父親が酒を飲み酩酊していて、誤って「雄幸」と記入したため、このような名前になった。 明治28年(1895年)、現在の東京大学の前身となる、帝国大学法科を卒業した。同窓会に「二八会」があり、この会は後に政治ネットワークへと発展した。大蔵省に入省後、大蔵次官などを務め、立憲同志会入党を経て衆議院議員に当選する。 大蔵大臣、内務大臣、内閣総理大臣、立憲民政党総裁などを歴任した。総理大臣として、緊縮政策を断行したり、野党である立憲政友会の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。 |
広瀬宰平 |
広瀬宰平は、文政11年(1828年)近江国野洲郡八夫村出身の明治期の大阪財界の大立者であり、初代住友総代理人である。広瀬は幼名を幼名駒之助と言ったが明治維新後宰平と改名した。 11歳のとき、別子銅山に奉公にあがり、安政2年(1855年)元住友江戸店の支配方の伊予国新居郡金子村久保田の広瀬義右衛門の養子となる。そして38歳のとき、別子銅山の総支配人となる。明治維新時、別子銅山を接収しようとした新政府に対して経営を引き続き任せるよう説得し認めさせた。技術の近代化を達成し住友の基盤を確実なものとした。広瀬の独裁体制に反対する内部勢力もあり、明治27年(1894年)総理人を辞任した。 |
広瀬武夫 |
広瀬武夫は、明治元年(1868年)豊後国竹田で出生した、日本の海軍軍人である。日露戦争時に有名なエピソードがあり、戦前は軍神として神格化される存在であった。 成人すると一時期は小学校教師を務めたが、明治18年(1885年)退職し、攻玉社を経て海軍兵学校入校する。卒業後、明治23年まで軍艦「比叡」に乗船し、少尉に任官される。明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し翌年には大尉に昇進する。明治30年にはロシアへ留学して、旅順港などの軍事施設も見学、その後はロシア駐在武官となり、明治33年には少佐に昇進する。明治37年(1904年)からの日露戦争では旅順港閉塞作戦に参戦する。 第2回の閉塞作戦時、閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受け撤退しようとした。しかし、部下の杉野孫七上等兵曹がいないことに気づき、広瀬は杉野を助けようと船内を探索したが見つからず、救命ボートに移乗せんとした際、ロシア軍砲撃を受け戦死した。36歳の壮絶な死であった。 |
広中平祐 |
広中平祐は、昭和6年(1931年)山口県玖珂郡由宇町生まれの日本の数学者である。日本人で2人目のフィールズ賞受賞者として知られる。フィールズ賞は、数学分野の有名な賞であり、数学のノーベル賞と称される。 専門分野は代数幾何学で、フィールズ賞受賞対象となった研究は「標数0の体上の代数多様体の特異点の解消および解析多様体の特異点の解消」というものであった。ハーバード大学元教授、京都大学数理解析研究所元所長であり日本学士院会員である。 |
土方歳三 |
幕末期の幕臣・新選組副長。新選組時代、局長近藤勇の補佐役として数々の事件で武名を轟かせる。新選組では鬼の副長と称された。旧幕軍側指揮官の一人として転戦し、戊辰戦争最後の戦場、箱館五稜郭防衛戦にて戦死。 |
東山魁夷 |
東山魁夷は、明治41年(1908年)横浜市出生の日本の画家であり著述家である。昭和を代表する日本画家の一人とされ、文化勲章受章者、千葉県市川市名誉市民である。 兵庫県立第二神戸中学校在学中から画家を志し、東京美術学校日本画科へ進学し、結城素明に師事する。1929年、在学中に第10回帝展に「山国の秋」で初入選を果たす。戦後の1947年、第3回日展で『残照』が特選となり、以降は風景を題材にした名作を残すようになる。 彼の主な作品には、『残照』『道』『光昏』『青響』『曙』『年暮る』『花明り』『白馬の森』『濤声』『山雲』『黄山暁雲』『朝明けの潮』『夕星』などがある。 |
日野富子 |
日野富子は、永享12年(1440年)山城(京都府)生まれの室町時代後期から戦国時代前期の女性であり、室町幕府8代将軍足利義政の正室である。 富子は、室町幕府足利将軍家と姻戚関係の日野家の出身で、16歳のとき義正の正室となる。何人かの子供を産むが、長い間、男子に恵まれることがなかった。そのため、義正は寛正5年(1464年)に仏門にいた実弟の義視を還俗させ、将軍後継者とする。 しかし、翌年に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。当初は軍事衝突はなかったが、やがて衝突するようになる。世にいう応仁の乱である。これは10年ほど続き、戦国時代の前触れとなった。 |
卑弥呼 |
中国の史書『魏志倭人伝』などに記されている倭国の王(女王)であり、都を邪馬台国においたとされる。封号は親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。邪馬台国の存在地には諸説あり、詳しいことは現在でもわかっていない。 |
樋口一葉 |
樋口一葉は、明治5年(1872年)東京生まれの小説家である。中島歌子に歌や古典を学び、半井桃水に小説を学んだ。 元々、樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原の長百姓であったが、祖父は俳諧や狂歌、漢詩などに親しむ家風の家であった。父親も農業より学問を好む人物であった。このような環境下で一葉は、幼少時代から読書を好み育った。7歳の時には『南総里見八犬伝』を読破した。父親は娘の文才を見抜き和歌を習わせたという。 樋口一葉の代表作には『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』『一葉日記』などがある。 |
菱川師宣 |
菱川師宣は、元和4年(1618年)安房国平郡保田本郷で出生した、近世日本の画家である。江戸初期に活動した浮世絵師の一人であり、しかも、浮世絵を確立した人物、最初の浮世絵師である。しばしば「浮世絵の祖」と称される。 師宣は、それ以前には絵入本の単なる挿絵的存在にすぎなかった浮世絵を、本格的な鑑賞にたえる芸術作品、絵画作品に高める役割を果たした。初期には無記名で作品を描いていたが徐々に人気がでて、名前を明らかにするようになる。 彼の代表的作品には、『見返り美人図』『歌舞伎図屏風』『浮世人物図巻』『大江山鬼退治絵巻』『虫籠美人図』『見立石山寺紫式部図』『遊里風俗図』『江戸風俗図巻』など多数がある。 |
平賀源内 |
平賀源内は、享保13年(1728年)讃岐国寒川郡志度浦出生の江戸時代中頃に活躍した本草学者であり地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家である。 幼少時より多才であり、儒学を学び、俳諧なども行うほか、宝暦2年(1752年)頃に長崎に遊学して、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。2度目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学んだという。 安永5年(1776年)には、長崎でエレキテル(静電気発生機)を入手し、修理して復元した。 |
平櫛田中 |
平櫛田中は、明治5年(1872年)岡山県後月郡の田中家に生まれた、日本の彫刻家である。井原市名誉市民、福山市名誉市民、小平市名誉市民となっている。 明治15年(1882年)に現在の福山市今津町の平櫛家の養子になる。明治26年(1893年)に大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし木彫を修行する。明治末期~大正初期に東京美術学校を創立した岡倉天心に師事する。昭和12年(1937年)には帝国芸術院会員となる。昭和19年以降、現在の東京藝術大学の教授として戦後も教壇に立つ。 平櫛田中の主な作品には、『鏡獅子』『尋牛』『気楽坊』『郭子儀』『東方朔』『かがみ』『岡倉天心胸像』『福は内』『良寛上人 』『薬師如来』『玉錦』『釣隠』『新春』『雲林先生』など多数がある。 |
平山郁夫 |
平山郁夫は、昭和5年(1930年)広島県豊田郡瀬戸田町生まれの日本画家であり教育者である。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者である。 旧制広島修道中学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下に被爆した。戦後、現在の東京藝術大学に入学し前田青邨に師事する。1959年ころ三蔵法師を主題とする絵画『仏教伝来』を描き、院展に入選する。その後もシルクロードの遺跡などを訪ねた絵画を残している。 主な作品には、『仏教伝来』や『入涅槃幻想』『大唐西域壁画』などがあり、多数の著書がある。 |
フランク永井 |
フランク永井は、昭和時代中期を代表するムード歌謡歌手である。当時の歌謡は、流行歌と呼ばれた時代だったが、フランクは、独特の低音の魅力で視聴者を魅惑し、当時の歌謡界に極めて大きな足跡を残した。 幼少時に父親を亡くしたが、裕福な母親のもとで育てられた。母親は映画館を経営していたので、頃から歌手への強い憧れを抱いていたといわれる。戦後の混乱期に上京しアメリカ進駐軍キャンプ地でトレーラーの運転手などしながら、アメリカ軍のクラブ歌手として小遣い稼ぎをしていた。「素人のど自慢」年間ベストワンを獲得して歌手となる。 フランク永井のヒット曲には、『西銀座駅前』『東京午前三時』『有楽町で逢いましょう』『君恋し』『羽田発7時50分』『おまえに』『霧子のタンゴ』『夜霧に消えたチャコ』『夜霧の第二国道』『俺は淋しいんだ』『東京ナイト・クラブ』など多数がある。彼に魅了された隠れファンは、今なお多数存在し、カラオケでは必ず誰かが歌うほどである。 |
福田赳夫 |
福田赳夫は、明治38年(1905年)群馬県群馬郡金古町足門出身の大蔵官僚であり政治家である。幼少時より神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業、第一高校を経て東京帝国大学法学部へ進学した。 衆議院議員、農林大臣、大蔵大臣、外務大臣、行政管理庁長官、経済企画庁長官、内閣総理大臣などを歴任した。昭和52年(1977年)に起きたダッカ日航機ハイジャック事件において「人命は地球より重い」という言葉を残して、人質解放のために身代金の支払いに応じた。人質は救出したが、テロリストの脅迫に屈したとして国際的批判を甘んじた。その後、日中平和友好条約の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行い、アジア開発銀行の設立や福田ドクトリンへと結実した。 |
藤原定家 |
藤原定家は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家であり歌人である。激動の時代に生きながら、藤原氏一族の御子左家の歌道の絶対的地位を確立した。 18歳~74歳までの56年間、克明な日記『明月記』を残している。安倍晴明一族が克明に観察し伝承された〔かに星雲〕での超新星爆発を記録していて、近年天文学における貴重な資料となっている。孫の一人、冷泉為相は現存する冷泉家の始祖となる。 |
藤原不比等 |
藤原不比等は、斉明天皇5年(659年)生まれの、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿である。不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜わり藤原氏の始祖となった藤原鎌足の次男である。 文武天皇2年(698年)以降、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くようになる。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。大宝律令の編纂に関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に施行を前に病死した。 それ以外の鎌足の子孫は鎌足の元の性である中臣中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを行うこととなった。 |
藤原鎌足 |
藤原鎌足は、生前には中臣鎌足と呼ばれた飛鳥時代の政治家であり、日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖として知られる。鎌足は、後に天智天皇となる中大兄皇子の腹心として活躍した大化の改新における中心人物である。 彼は、元々は中臣氏の出身であり、初期には中臣鎌子と名乗っていたが、後に中臣鎌足に改名した。彼の臨終に際し、大織冠とともに藤原姓を賜っている。これが、藤原氏の始祖とされる所以である。 このため、生存中の彼は中臣鎌足であり、死後の彼を指す場合には藤原鎌足と呼ぶ。『藤氏家伝』には、彼を称して「偉雅、風姿特秀」と記されているという。 |
藤原啓 |
藤原啓は、明治32年(1899年)岡山県備前市穂浪に生まれた日本の陶芸家である。1970年に人間国宝に認定された。少年期から俳句や小説の才を発揮し、1915年に『文学世界』に応募した短編が1等を獲得する。 その後、『文学世界』の編集者などを経て、一時は作家を目指すが、1937年には自分の文学才能に見切りをつけ、翌年には40歳にして三村梅景に師事し備前陶芸の道を歩み始める。1970年、重要無形文化財「備前焼」保持者に認定され、1972年、勲四等旭日章を受章した。 |
藤子不二雄 |
藤子不二雄は、日本の漫画家ユニットである。本名では、藤本弘と安孫子素雄という二人の漫画家がコンビを組み、結成したユニットである。どちらが描いた作品でも作者としては「藤子不二雄」のペンネームを用いていた。 しかし、互いの作風に変化もあり、ユニットを解消した後は、「藤本→藤子・F・不二雄」と「安孫子→藤子不二雄(〇内にAを書く)」のペンネームを用いている。 代表作には、『オバケのQ太郎』(共作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)など多数がある。 |
藤城清治 |
藤城清治は、大正13年(1924年)東京府生まれの影絵作家である。キャラクター「ケロヨン」の原作者として知られる。藤城は、幼少時より画才を認められ、12歳の時には、仙波均平に水彩画、エッチング、油絵の指導を受ける。また、慶應の児童文化研究会にて人形劇と出会っている。昭和19年には海軍予備学生になり、翌年には少尉任官する。指人形を使い慰問演芸会を行ったという。 昭和21年(1946年)に小澤愛圀より人形劇・影絵の手ほどきを受ける。その後、人形劇と影絵の劇場「ジュヌ・パントル(後に木馬座)」を結成し、活躍を始める。『暮らしの手帖』で長期にわたる影絵連載開始をしたほか、多くの絵本や作品を出している。 |
藤沢周平 |
藤沢周平は、山形県鶴岡市出身の日本の小説家である。江戸時代の下級武士層や庶民層の機微や哀歓を描く小説が得意であった。特に〔海坂藩(うなさかはん)〕という架空の藩を舞台にして多くの作品を残している。 代表作には『暗殺の年輪』や『海鳴り』『白き瓶』『蝉しぐれ』などがある。また、オール讀物新人賞や直木三十五賞、吉川英治文学賞など多くの文学賞を受賞している。 |
蕗谷紅児 |
蕗谷虹児は、大正~昭和時代の挿絵画家であり詩人である。誕生は明治31年で、尾竹竹坡(ちくは)に日本画を学び、後に竹久夢二の紹介により『少女画報』に連載された『花物語』の挿絵を担当したのを最初に、それ以降は少女雑誌や婦人雑誌の挿絵を描いた。 抒情詩や小説も発表していて、童謡の『花嫁人形』の作詞をして知られている。 |
福井謙一 |
福井謙一は、明治51年(1918年)奈良県生駒郡平城村生まれの日本の化学者である。1941年、京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、その後も京都大学工学部燃料化学科教授などを経て、1980年には京都大学を退官し京都大学名誉教授となっている。 1952年に、〔フロンティア軌道理論〕を発表して世界の化学界に大きな衝撃を与えた。この理論は、フロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相により分子の反応性が支配されることを解明した理論である。この業績により1981年にノーベル化学賞を受賞した。 |
福沢諭吉 |
福澤諭吉は、日本の武士であり蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者でもある。慶應義塾を創設し専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。 これらの業績により、明治六大教育家として知られている。また、1984年からは彼の肖像が一万円紙幣の表面に採用されている。 |
平和勝次 |
平和勝次は、竹原中学校卒業後には大阪に出て、浪曲師冨士月子に弟子入りし、〔若葉トリオ〕に参加していた。その後は漫才師として松竹芸能に所属しお笑い歌謡ショーなどを演じていた。 1972年、彼にとって記念すべきバンドグループ〔平和勝次とダークホース〕を結成している。バンド結成の翌年に発表したデビュー曲『宗右衛門町ブルース』が200万枚を売り上げる空前の大ヒットとなり、一躍その名を世に知らしめた。それ以外のヒットはないが、最近でも時々、演歌懐メロ番組、名曲ベストヒット歌謡番組などに出場して『宗右衛門町ブルース』を披露している。 |
弁慶 |
弁慶こと武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧兵であり、源義経の郎党である。怪力無双の荒法師として名高く、京都、五条の大橋で源義経と出会い家来となった。 義経と共に源平合戦では勇猛果敢に戦い、平家滅亡に貢献するが、義経が源頼朝に追われ都落ちする際にも、従者として従った忠臣であった。源頼朝側の追手に対し孤軍奮闘し、多数の弓矢を受けても倒れることなく立往生して果てたとされている。 |
遍照 |
遍昭は、平安時代前期の僧侶であり、歌人で六歌仙および三十六歌仙の一人となっている。小倉百人一首などでは僧正遍昭と称されている。 遍昭は、『古今和歌集』仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げた六歌仙の一人であった。 |
細井平洲 |
細井平洲は、享保13年(1728年)現在の愛知県東海市の農家に生まれた江戸時代の儒学者である。幼少時より学問に親しみ、一時期京都や長崎に遊学する。宝暦元年(1751年)24歳のとき、江戸で私塾、嚶鳴館を開き、武士や町民、農民に学問を広めた。 宝暦13年(1763年)には後の上杉鷹山の師となる。後に鷹山は米沢藩主として米沢藩の財政再建を成功させた人物である。米沢市の松岬神社に、上杉鷹山と共に祀られている。 |
細川ガラシャ |
細川ガラシャは、永禄6年(1563年)明智光秀と妻・煕子の間に三女として生まれ、珠と呼ばれた、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性である。細川忠興の正室であり、キリシタンとして知られる。明治期以降、キリスト教徒たちが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれている。 15歳のとき、父親光秀の主君である織田信長のすすめで細川忠興に嫁ぎ長男、長女をもうけた。しかし、本能寺の変で彼女は「逆臣の娘」となり、忠興は彼女を丹後国に隔離し幽閉する。その後、羽柴秀吉のとりなしで細川家の大坂屋敷に戻され監視された。そのころからキリスト教に惹かれるようになり洗礼を受ける。その後、忠興が徳川家康に従い、上杉征伐に出陣した際、西軍の石田三成に細川屋敷が襲われ、彼女は壮絶な最期を遂げる。 |
細川たかし |
細川 たかしは、北海道虻田郡真狩村の出身の演歌歌手である。彼は、井沢八郎の『北海の満月』を聴き歌手を目指すようになる。初期には札幌すすきのクラブで歌うところを芸能プロダクションに見いだされた。 1975年に『心のこり』で歌手デビューし大ヒットとなり、第6回日本歌謡大賞で放送音楽新人賞、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞する。その後は三橋美智也に師事して、1982年以降『北酒場』『矢切の渡し』をヒットさせ人気を得る。 このほか、細川たかしのヒット曲には、『心のこり』『浪花節だよ人生は』『望郷じょんから』などがある。 |
法然 |
法然は、長承2年(1133年)現在の岡山県久米郡久米南町に生まれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。 初期には、比叡山で天台宗の教学を学び、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた。後に浄土宗の開祖と仰がれるようになる。浄土宗では、善導を高祖、法然を元祖と崇めている。『選択本願念仏集』を著し、念仏を体系化したことで日本での称名念仏の元祖と称されている。 |
北条時宗 |
北条時宗は、1251年、鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれた、鎌倉時代中期の武将であり政治家である。その時代は、世界帝国を誇ったモンゴル帝国が日本国に圧力を掛ける時代であり、鎌倉幕府第8代執権に就任した。 内政では得宗権力の強化を図ったが、最大の事態はモンゴル帝国の来襲に対応することであった。二度にわたる元寇の侵攻を受けたが、幸いに発生した台風によりモンゴル軍が壊滅した。後世、この台風は〔神風〕と呼ばれ、時宗は日本の国難を救った英雄と崇められるようになる。 しかし、神風の名称は、太平洋戦争末期の特攻隊に名付けられた悲しい物語が続く。 |
北条政子 |
北条政子は、保元2年(1157年)伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。頼朝が鎌倉に武家政権を樹立した以降は御台所と呼ばれた。 頼朝亡きあと、征夷大将軍となった嫡男の頼家、次男の実朝が相次いで暗殺されてしまう。源氏の将軍は3代の源実朝で途絶えることとなる。その後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経が第4代征夷大将軍となるが、その後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称される。 |
北条早雲 |
北条早雲は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将であり、戦国大名となった後北条氏の祖である。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒となった。 1495年、山内上杉顕定の圧迫を受けた扇谷上杉氏から、その家臣大森藤頼の居城だった相模国小田原城を謀略を使って攻め盗る。1504年、扇谷上杉家への援軍として今川氏親とともに武蔵国に出陣、立河原の戦で、山内上杉顕定に勝利する。 1516年、三浦氏の救援に駆けつけた上杉朝興に玉縄城を攻められるが撃退し、その勢いに乗り新井城へ退却していた三浦道寸、三浦義意父子を攻め滅亡させ、相模国一国を平定する。 |
堀越二郎 |
堀越二郎は、1903年群馬県藤岡市に生まれた日本の航空技術者である。新三菱重工業株式会社参与、東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。 第一高等学校を経て東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業し、現在の三菱重工業に入社する。戦前には複葉機が主流であったが、単葉機の七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機の開発を担当することとなる。 その後、歴史に残る名機である、いわゆる〔ゼロ戦〕零式艦上戦闘機の設計を行い、世界にその名を轟かせた。ゼロ戦は真珠湾攻撃で大戦果を挙げたほか、太平洋戦争終結までの間、活躍した。 |
堀江貴文 |
堀江貴文は、日本の実業家である。堀江は小学校時代に家にあった百科事典を読み漁り多くの知識を習得したという。そのためか小学校時代は学業成績は優秀であったが、いわゆる優等生ではなかった。彼は、偉人ではなかったかも知れないが、時代の寵児であった。 小学4年生のころから学習塾に通うようになり、高校時代には当時注目を集め始めたコンピュータに興味を抱き、親から20万円を借金してNECのパソコンPC8801を購入した。 やがて、アップル関連の仕事などを行うベンチャー企業を経てインターネットに出会い、1996年に、有限会社オン・ザ・エッヂを設立し成長させた。2002年、経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得する。その後、ニッポン放送買収の買収問題など複雑なことがあり、証券取引法違反容疑で有罪となり服役した。 |
堀江謙一 |
堀江謙一は、1938年、大阪市生まれの海洋冒険家(ソロセーラー・ヨットマン)である。コールサイン〔JR3JJE〕を持つアマチュア無線家でもある。1962年、小型ヨット「マーメイド号」により西宮~サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海に成功したことで知られる。 西宮出港時には、水20リッターと米40kg、缶詰200個を積んで出航したが、航海中は甲板に降った雨水を蓄えてしのいだという。 その時代、ヨットでの出国は不法であり形としては密出国となった。国内では問題となり身柄を拘束され日本へ強制送還される可能性もあったが、当時のサンフランシスコ市長が「コロンブスもパスポートは省略した」という名言を残し、名誉市民として受け入れたことで、1ヶ月間の米国滞在を認めると報道された。堀江の行動は日本でも偉業として認められることになった。 |
堀辰雄 |
堀辰雄は、明治37年(1904年)、東京府東京市麹町区生まれの日本の小説家である。それまでの日本の小説がとかく私小説的であったものを、西洋流の創作としてのロマン小説という文学形式を確立しようとした作家である。 堀辰雄のおもな作品には、『風立ちぬ』『冬』『死のかげの谷』『ルウベンスの偽画』『不器用な天使』『聖家族』『燃ゆる頬』『麦藁帽子』『美しい村』『鳥料理』『物語の女』『更級日記など』『ヴェランダにて』『かげろふの日記』『幼年時代』『菜穂子』『曠野』『花を持てる女』『ふるさとびと』『大和路・信濃路』『雪の上の足跡』などがある。 |
本多光太郎 |
本多光太郎は、明治3年(1870年)、愛知県碧海郡矢作町生まれの物理学者、金属工学者(冶金学者)である。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、世界に先駆けて創始した。鉄鋼の世界的権威者であり「鉄の神様」「鉄鋼の父」などと呼ばれる。 明治30年(1897年)東京帝国大学理科大学物理学科卒業すると、ドイツおよびイギリス留学する。明治44年(1911年)には東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となり、1917年には歴史的な強力磁石であり、当時世界最強の永久磁石鋼となる〔KS鋼〕を発明する。更に昭和9年(1934年)には〔新KS鋼〕を発明した。1951年に文化功労者に選ばれる。 |
本田宗一郎 |
本田宗一郎は、日本の実業家・技術者・本田技研工業の創業者(HONDAの創設者)である。尋常高等小学校を卒業すると自動車修理工場のアート商会へ丁稚奉公に入り、修行して自動車修理と運転技術を体得する。 その後、暖簾分けしてもらい「アート商会浜松支店」の名で独立する。終戦直後、妻が自転車で買い出しに苦労する姿を見て、自転車にエンジンをつけたら買い出しが楽になると考え、オートバイの研究を始める。 昭和21年、本田技術研究所設立、旧陸軍無線機用の小型発電機を自転車用補助エンジンに転用して売り出し大ヒットとなる。やがてオートバイ生産に着手し昭和24年にドリームD型を発表する。昭和30年には2輪車生産台数日本一達成する。昭和37年には自動車産業に進出、軽自動車から普通車へと進出して世界に知られるようになる。中でも、低公害のCVCCエンジンにより、アメリカの排ガス規制法、マスキー法規制に世界ではじめて合格する。 |
本田美奈子 |
本田美奈子は、日本の歌手で女優である。2000年代にはクラシックとのクロスオーバーにも挑んだ。歌手を夢見ていた母親の影響で、幼い頃からいつも歌が好きだった。 中学校時代『スター誕生』のオーディションを受け決勝に進出するもスカウトはされなかった。1983年、少女隊のメンバー探し中のボンド企画スタッフにスカウトされ芸能界に入る。1985年、『殺意のバカンス』でデビューする。 4枚目のシングル『Temptation(誘惑)』を大ヒットさせ多くの新人賞を獲得した。1990年代以降は主にミュージカルで活動した。2005年1月、急性骨髄性白血病を発病、闘病の末、11月に死去した。38歳だった。 |
益川敏英 |
益川敏英は、愛知県名古屋市中川区生まれの理論物理学者で、専門は素粒子理論である。益川敏英は、名古屋大学で坂田昌一研究室に所属し「粒子と共鳴準位の混合効果について」という博士論文で理学博士号を取得した。 京都大学理学部で助手をしていた時代の1973年に、坂田研究室の後輩である小林誠と共に〔ウィーク・ボゾンとクォークの弱い相互作用に関するカビボ・小林・益川行列〕という概念を発表した。世にいう〔小林・益川理論〕である。2008年、この功績により小林誠とともにノーベル物理学賞を受賞した。 京都大学名誉教授を授与され、名古屋大学特別教授・素粒子宇宙起源研究機構長、京都大学基礎物理学研究所所長、日本学術会議会員を歴任した。 |
間宮林蔵 |
間宮林蔵は、江戸時代後期の幕府隠密をつとめた役人であり探検家でもある。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」とも呼ばれている。 間宮は農民の子として生まれたが、当時幕府が行っていた利根川東遷事業に参加し幕臣の村上島之丞に地理や算術の才能を見込まれ幕府の下役人となった。寛政11年、南千島に派遣され伊能忠敬より測量技術を学び、後に西蝦夷地を測量した。 伊能忠敬が全ての蝦夷地を測量できなかったが、残りを蝦夷地測量は間宮が行い、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図が完成している。 |
松井秀喜 |
松井秀喜は、石川県能美郡根上町出身の元プロ野球選手で外野手である。愛称の「ゴジラ」で知られる選手で日本だけでなく、アメリカメジャーリーグでも大活躍した。 日本プロ野球時代は読売ジャイアンツ所属で、1990年代から2000年代に最も輝いた長距離打者である。巨人時代の10年間で332本の本塁打を放った。アメリカ、メジャーリーグでは、ニューヨークヤンキースなどいくつかの球団で活躍した。2013年に国民栄誉賞を受賞している。 |
松下幸之助 |
松下幸之助は、日本の実業家で発明家である。現在のパナソニック(旧:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた創設者・経営者として知られる。 |
松田優作 |
山口県下関市生まれの俳優・歌手。刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。その後、東映セントラルフィルム作品や角川映画作品でアクションスターとして人気を得て、演技はとして知られるようになる。卓越した演技力だけでなく、勇敢で人情に厚い人間性にカリスマを発揮した。主演ドラマ『探偵物語』は続く人たちに多くの影響を与えたとされる。アメリカ映画『ブラック・レイン』への出演で念願のハリウッドデビューを飾ったが、がんが発覚、延命治療を拒み病死した。40歳だった。 |
松尾芭蕉 |
江戸時代前期の俳諧師・歌人で蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立。東北、北陸地方を旅して、多くの印象的な俳句を残し、後世では俳聖として世界的にも知られるようになる。紀行文に『おくのほそ道』がある。 |
松尾和子 |
松尾和子は、東京都大田区蒲田に生まれ、箱根で育った女性歌謡曲・演歌歌手である。戦後、ジャズに興味を抱き、あるバンドの専属歌手として進駐軍キャンプやナイトクラブで歌っていた。赤坂のクラブで歌っているところをフランク永井にスカウトされ歌手となった。 1959年に『グッド・ナイト/東京ナイトクラブ』でレコードデビューを果たし、大ヒットとなり一躍有名となった。彼女のヒット曲には、『再会』『夜がわるい』『お座敷小唄』『再会の朝』『銀座ブルース』『銀座の恋の物語』などがある。 |
松平定信 |
松平定信は、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる、江戸時代中期の大名で老中職を務めた。陸奥白河藩第3代藩主、定綱系久松松平家第9代当主でもある。 幼少期より聡明であり、いずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたがそれが叶うことはなかった。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民救済のため、自らが倹約に努め、領民への食料救済措置により、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったという。 天明6年に田沼意次が失脚した後、徳川御三家の推挙により、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となった。祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。やがて失脚するも、定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持された。 |
松本清張 |
松本清張は、日本の小説家である。松本清張の作風は、犯罪を引き起こす動機を重視する推理小説として知られる。 1953年『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞し、1958年には記念すべき『点と線』『眼の壁』を発表して一躍有名となった。以降、『ゼロの焦点』『砂の器』などの代表作を執筆している。その他の主な作品には『黒い樹海』『波の塔』『わるいやつら』『深層海流』『けものみち』『黒革の手帖』などがある。 |
正岡子規 |
正岡子規は、明治時代を代表する文学者の一人であり俳人、歌人、国語学研究家として知られる。「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句の作者として有名である。俳句や短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面での創作活動により、日本の近代文学に多大な影響を与えたとされる。 |
前田青邨 |
前田青邨は、岐阜県中津川市出身の日本画家である。彼は、歴史画が得意で古来からの大和絵の伝統を引き継いだ武者絵や肖像画、花鳥画の作品も残した。特に鎧兜の精密な描写による武者絵は見事だとされる。 1955年(昭和30年)には、文化勲章を受章し、院展を代表する画家として活躍した。晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写に代表される文化財保護事業に携わった。弟子の平山郁夫がいる。 |
宮崎駿 |
宮﨑駿はアニメーション作家で映画監督・漫画家でもあります。スタジオジブリに映画監督としていくつかの人気アニメ映画を作成しました。主な作品には、『ルパン三世 カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『紅の豚』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』などがあります。 |
宮沢賢治 |
日本の詩人・童話作家。郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、エスペラント語で岩手を意味する言葉として、イーハトーブと名付けた言葉を創作した。生前は無名であったが、没後に草野心平らにより作品群が紹介され国民的作家となった。『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『ポラーノの広場』『グスコーブドリの伝記』などの作品を残した。 |
宮本武蔵 |
江戸時代初期の剣術家・兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。また、重要文化財指定の水墨画や工芸品を残している。自筆とされる有馬直純宛書状・長岡佐渡守宛書状には「宮本武蔵玄信」と記している。 |
源義経 |
平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經。河内源氏の源義朝の九男で、幼名を牛若丸と呼ばれた。兄・頼朝が平氏打倒の挙兵すると参戦し、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅亡させる。その後、頼朝の許可なく官位を得たりして逆鱗に触れ、逃亡先の藤原泰衡のもとで追い詰められ衣川館で自刃。この悲劇の故に多くの伝説や物語が残る。 |
源頼朝 |
源頼朝は平安時代末期~鎌倉時代初期の武将でる。平氏打倒の兵を挙げ鎌倉を本拠として関東を制圧する。源義仲や平氏を滅ぼし、芸詩討伐に活躍した源義経をも追放、最終的に全国を平定しました。1192年には征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開き、その後江戸幕府崩壊までの680年間にわたる武家政権の時代を築きました |
御木本幸吉 |
御木本幸吉は、日本の実業家で、真珠の養殖技術を開発し、真珠産業の基礎をつくりました。世界に絶大なブランド力を誇る御木本真珠店の創業者となり、真珠王と呼ばれました。 |
三橋美智也 |
三橋美智也は、日本の民謡歌手・演歌歌手で、民謡で鍛え上げられた艶やかで伸びのある美声で戦後日本の歌謡史に燦然と輝きました。伸びやかな高音の魅力は今なお絶大な人気を誇っています。彼のヒット曲には、『哀愁列車』『おさらば東京』『古城』『リンゴ村から』『星屑の町』『武田節』『達者でナ』『母恋吹雪』『おんな船頭唄』『あゝ新撰組』『一本刀土俵入り』『お花ちゃん』『夕焼けとんび』『ご機嫌さんよ達者かね』『あの娘が泣いてる波止場』など多数があります。 |
三船久蔵 |
三船久蔵は、日本の柔道家で講道館柔道十段となり、しばしば三船十段と尊称されます。大日本武徳会柔道範士であり、小柄ながら〔空気投げ〕などの新技を編み出し〔名人〕の称を受けました。〔柔道の神様〕と崇められることもあります。 |
三島由紀夫 |
三島由紀夫は、日本の小説家であり、劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者です。戦後の日本文学界を代表する作家の一人で、代表作に小説の『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』、戯曲の『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがあります。晩年には民兵組織〔楯の会〕を結成し、会員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを起こし、切腹して果てました。世間に大きな衝撃を残しました。 |
三波春夫 |
三波春夫は、新潟県三島郡越路町出身の日本の演歌歌手である。彼の歌唱の雰囲気は長編歌謡浪曲と呼ばれる類の歌謡曲で、朗々と歌う姿が印象深い。 三波春夫は当初、浪曲師をめざしたが、時代が歌謡曲に移りつつあるのを実感して歌謡浪曲の道へと転進した。歌謡界へのデビュー盤『チャンチキおけさ/船方さんよ』を出し大ヒットして人気を博します。第9回NHK紅白歌合戦に初出場を果たし、人気歌手の座を確たるものとしました。 彼のヒット曲には、『大利根無情』『チャンチキおけさ』『船方さんよ』『元禄名槍譜 俵星玄蕃』『おまんた囃子』『豪商一代 紀伊國屋文左衛門』『東京五輪音頭』『世界の国からこんにちは』『沓掛時次郎』『一本刀土俵入り』などがある。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞などを受賞している。 |
三木谷浩史 |
三木谷浩史は、兵庫県神戸市出身の実業家である。楽天株式会社の創業者で代表取締役会長兼社長、コボ社取締役、楽天ブックス会長など多くの企業の会長などを務めている。 1993年にハーバード大学経営大学院を修了しMBAを取得、楽天を創業し会長に就任した。2008年以降、フォーブス誌の日本人富豪ランキング上位にランクインし数千億円の資産を持っているという。 |
水戸黄門 |
徳川光圀は、水戸藩初代藩主徳川頼房の三男であり徳川家康の孫に当たり、水戸藩2代目藩主。『水戸黄門』として知られる。藩主時代、寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地探検などを行う。儒学を奨励、彰考館を設け『大日本史』を編纂した。この書物編纂のために家臣を諸国に派遣したり、隠居後に水戸藩内を巡視したなどから、後世の『水戸黄門漫遊記』と呼ばれる逸話の主となった。 |
水木しげる |
水木しげるは、鳥取県境港市出身の漫画家である。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさに可愛がられ、彼女が語り聞かせた妖怪話の強い影響を受けたという。 戦時中、兵役検査で乙種合格し、1943年に帝国陸軍軍人となり、ニューギニア戦線、ラバウル方面に出征して過酷な戦争体験をし、爆撃で左腕を失う。復員後に上京し1958年に貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビューする。その後も様々な漫画を出していたが、『週刊少年マガジン』で連載した『ゲゲゲの鬼太郎』が大ヒットし偉大な漫画家としての地位を固めた。妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章を受賞している。 水木しげるの代表作には『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』『悪魔くん』などがある。 |
水野忠邦 |
水野忠邦は、江戸時代後期の大名で老中職を務めた。いわゆる賄賂作戦で幕府の重臣にまで上り詰めた人物である。将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年に大坂城代となり、西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。最終的には本丸老中、勝手御用掛を兼ねて老中首座となった。 忠邦は異国船が日本近海出没や幕府財政の危機に際して、家斉旧側近を罷免し、実力者を登用して、世にいう天保の改革を成し遂げた。しかし、後に腹心の寝返りによって老中職を罷免された。 |
都はるみ |
都はるみは、日本の歌謡界を代表する女性演歌歌手である。幼少時より芸能好きの母親から浪曲と民謡の特訓を受け育ち、繊細で唸るようなこぶし回しという特有な歌唱法を身につけた。 1964年『困るのことヨ』で歌手デビューし、『アンコ椿は恋の花』を大ヒットさせ〔第6回日本レコード大賞最優秀新人賞〕を獲得、1976年には『北の宿から』が大ヒットし、多くの音楽大賞を受賞した。 都はるみのヒット曲には『北の宿から』『大阪しぐれ』『好きになった人』『夫婦坂』『涙の連絡船』『アンコ椿は恋の花』『浪花恋しぐれ』『ふたりの大阪』などがある。 |
南方熊楠 |
南方熊楠は、日本の博物学者、生物学者、民俗学者である。彼は18言語を操り〔歩く百科事典〕と称されるほどの特異な人物であった。その言動は奇抜で人並み外れていたため多くの逸話を残している。 菌類学者としては粘菌の研究で知られ、菌類の研究では新しい種70種を発見したとされる。主著に『十二支考』『南方随筆』などがある。 |
美空ひばり |
昭和の歌謡界を代表する日本の歌手で女優。女性として初の国民栄誉賞を受賞。代表曲に『柔』『川の流れのように』『悲しい酒』『真赤な太陽』『リンゴ追分』『みだれ髪』『港町十三番地』など多数がある。 |
向井千秋 |
向井千秋は、群馬県館林市出身で日本人女性初の宇宙飛行士である。彼女は慶應義塾大学医学部卒、医学博士、外科医である。1985年8月10日、NASAより宇宙飛行士3人の発表があり、向井は、実験担当のペイロードスペシャリスト(PS:搭乗科学技術者)に任命された。 1994年になってようやくスペースシャトル・コロンビア号のペイロードスペシャリストとして搭乗し、7月8日~23日のあいだ宇宙に滞在した。この時、金魚の宇宙酔い実験もしている。 そして、1998年にはスペースシャトル・ディスカバリー号で二度目の飛行を行った。 |
紫式部 |
平安時代中期の女性作家で歌人で、『源氏物語』の作者とされる。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選している。 |
室生犀星 |
室生犀星は、石川県金沢市生まれの詩人で小説家である。彼は私生児として生まれ、生後間もなく生家近くの真言宗寺院に引き取られ、実の両親に会ううこともなく成長した。 1902年、高等小学校を中退し金沢地方裁判所の給仕として就職し、上司から俳句の手ほどきを受ける。1904年に新聞へ投句を始め、『北國新聞』に初掲載される。 1913年、北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿するようになる。1916年には萩原朔太郎と同人誌『感情』を発行し、中央公論などから注文がくるようになる。1929年には初の句集『魚眠洞発句集』を刊行している。戦後は小説家として活躍した。 |
村岡花子 |
村岡花子は、誕生名を安中はなという日本の翻訳家で児童文学者である。児童文学の翻訳を得意とし、『赤毛のアン』の翻訳で知られる。 村岡花子は、山梨県甲府市の決して豊かでない家に生まれたが、クリスチャンの父親逸平の願いで2歳のときカナダ・メソジスト派の甲府教会で幼児洗礼を受ける。10歳のときはなは、東洋英和女学校に給費生として編入学する。 村岡花子は、『アン』シリーズ、『エミリー』シリーズ、『丘の家のジェーン』『果樹園のセレナーデ』『パットお嬢さん』などのモンゴメリーの作品の翻訳を手掛けた。 |
村山定男 |
村山定男は、東京府出身の天文学者である。火星の観測や、隕石の研究を専門分野としていた。小惑星3220番の〔村山〕は、彼に因んで命名されている。 国立科学博物館理化学研究部長や天文博物館五島プラネタリウムの館長等を歴任した。またテレビ出演や公演、文筆などを通して天文普及につとめるとともに多くの書籍を書いている。 著作には、『天体観測入門・惑星と月の観測』『太陽系・隕石』『日本アマチュア天文史・惑星』『星座・隕石をさがす』『天文学のあゆみ』『太陽・月・惑星』『宇宙旅行の話』『惑星とその観測』などがある。 |
村上鬼城 |
村上鬼城は、日本の俳人え司法代書人でもある。鳥取藩士、小原平之進の長男として生まれる。11歳の時に母方の村上家の養子となり村上姓を名乗るようになる。 軍人を志し上京するが、耳の疾患のため断念し、明治法律学校で法学を学び司法代書人となる。一方で俳句への造詣が深く、正岡子規に教えを請い幾度となく『ホトトギス』に俳句の投稿をしている。その作風は、自らの困窮生活経験もあり、弱者の苦しみなど哀れみを詠った句が多い。 |
村上春樹 |
村上春樹は、京都府京都市伏見区生まれで、現代の日本を代表する小説家でありアメリカ文学翻訳家でもある。早稲田大学第一文学部演劇科卒業後、1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞し作家デビューを果たした。 1987年に発表した『ノルウェイの森』が上下巻で430万部のベストセラーとなり村上春樹ブームを起こすこととなる。彼の名は海外でも大人気であり、やがてノーベル文学賞の最有力候補とされている。 村上春樹の代表作には『ノルウェイの森』のほか、『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』などがある。 |
村田清風 |
村田清風は、長門国大津郡三隅村沢江生まれの武士で長州藩士家老である。藩校明倫館で優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となる。その後、藩主毛利斉房の小姓として仕え、斉房から5代毛利敬親の代まで藩の要職を歴任する。 天保9年には藩政の実権を掌握し、藩主毛利敬親のもとで天保の改革に取り組み手腕を振るった。清風の財政改革は苦しかった長州藩の財政を再建させた。清風はまた教育普及においても力を注ぎ、庶民層に対しても教育を薦めた。その後、中風などの病もあり退陣する。彼には『海防糸口』『病翁寝言』『遼東の以農古』などの著作がある。 |
村田英雄 |
村田英雄は、演歌歌手であり俳優である。浪曲師雲井式部一座の浪曲師であった両親から生まれ、幼少時4歳にして浪曲師の卵となり、『中山安兵衛婿入り』で初舞台を踏んでいる。 13歳で真打まで昇進、14歳では酒井雲坊一座の座長にまでなり、日本一の浪曲師を目指して九州を巡業した。1958年に古賀政男に見いだされ、古賀政男が歌謡浪曲に編曲した『無法松の一生』を歌って歌手へと転向しデビューを果たした。1961年には『王将』を発表しミリオンセラーとなり、第4回日本レコード大賞特別賞を受賞した。 村田英雄の主なヒット曲には、『王将』『皆の衆』『人生劇場』『無法松の一生』などがある。 |
棟方志功 |
棟方志功は、青森県出身の板画家であり、20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人とされる。彼は版画を「板画」と称し木版の特徴を生かす作品を作成している。 少年時代にゴッホの絵画に感動して「ゴッホになる」といっていた。1924年に上京し帝展や白日会展などに油絵を出品するも入選はしていない。しかし、1928年の第9回帝展に油絵『雑園』を出品し初入選を果たす。以降、多くの作品を残すようになる。 棟方志功の版画作品には『釈迦十大弟子』『御鷹揚げの妃々達々』『大和し美し』などがある。また、著書には『わだばゴッホになる』などがある。 |
武者小路実篤 |
武者小路実篤は、日本の小説家であり詩人・劇作家・画家でもある。学習院高等学科卒業後、1906年に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学、翌年には同級生の志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。更に翌1908年、回覧雑誌『望野』を創刊、1910年には文学雑誌『白樺』を創刊し、白樺派を名乗った。 武者小路実篤の代表作には、『お目出たき人』『世間知らず』『その妹』『幸福者』『友情』『愛慾』『棘まで美し』『愛と死』『馬鹿一』などがある。 |
陸奥宗光 |
陸奥宗光は、日本の政治家であり外交官、武士(紀州藩藩士)である。明治初期の版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えたとされ、伊藤内閣の外務大臣時、不平等条約の改正に辣腕を振るったことでも知られる。 陸奥宗光は天保15年、紀伊国和歌山で紀州藩士の子として生まれる。国学者・歴史家で名高い父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。そして、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。 |
明治天皇 |
明治天皇は、日本の第122代天皇です。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者と仰がれ、江戸時代の終焉にともなう明治時代の日本を指導しました。戦前・戦中においては〔明治大帝〕や〔明治聖帝〕〔睦仁大帝〕とも称されていました。 |
最上義光 |
最上義光は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名で最上氏第11代当主で、出羽山形藩の初代藩主である。伊達政宗の伯父にあたり、関ヶ原の戦いでは東軍で戦い、最上家を57万石の大大名に成長させた。 |
森鴎外 |
森鴎外は、石見国津和野出身の明治・大正期の小説家であり評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚である。大学卒業後、陸軍軍医になり陸軍省派遣留学生としてドイツに4年間留学した。帰国後には小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表、文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動を始めた。 彼の代表作には、『ヰタ・セクスアリス』『雁』『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『高瀬舟』『澁江抽斎」』『山椒大夫』『寒山拾得』など多数がある。 |
森田昭夫 |
盛田昭夫は、日本の技術者、実業家である。大阪帝国大学理学部物理学科卒業し、太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に戦時科学技術研究会で後に盟友となる井深大と知り合う。終戦後の1946年年(昭和21年)に、井深大らとソニーの前身となる東京通信工業株式会社を設立して取締役に就任した。 1950年、日本初のテープレコーダー「G型」を発売し、その後のソニーの繁栄に寄与した。1992年には名誉大英帝国勲章を受勲している。 |
本居宣長 |
本居宣長は、江戸時代の国学者・文献学者・医師である。自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに〔国学の四大人(しうし)〕の一人と称されている。 本居宣長は、当時解読不能に陥っていた『古事記』を研究して解読に成功し35年もの歳月を費やし『古事記伝』を著すなど、国学の発展に多大な貢献をした。彼の代表作には他にも『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『馭戎慨言』などがある。 |
毛利元就 |
毛利元就は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名である。 毛利元就は、戦国時代に小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を伸ばした。「戦国最高の知将」「謀神」などと呼ばれる。 |
毛利衛 |
毛利衛は、北海道出身の宇宙飛行士で、専門は真空表面科学、核融合炉壁材料、宇宙実験である。1992年には、スペースシャトルエンデバー号にペイロードスペシャリスト(搭乗科学技術者)として搭乗した。更に2002年には二度目の宇宙飛行に参加した。ミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)として、レーダーによる地球地形の精密な観測を行った。 宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙環境利用システム本部有人宇宙活動推進室長、日本科学未来館館長、財団法人日本宇宙少年団団長、東京工業大学大学院総合理工学研究科連携教授である。 |
やなせたかし |
やなせたかしは、日本の漫画家で絵本作家、詩人である。官立旧制東京高等工芸学校図案科卒業後、田辺製薬で働いていたが、戦時中は日中戦争に出征したり、陸軍軍曹として暗号の解読に携わった経験がある。 漫画家としては『ボオ氏』や『リトル・ボオ』『キャラ子さん』『おれは孫悟空』など多くの作品があるが、中でも『アンパンマン』の作者として有名である。 有限会社やなせスタジオ社長であり、社団法人日本漫画家協会代表理事理事長、社団法人日本漫画家協会代表理事会長を歴任した。 |
山岡鉄舟 |
山岡鉄舟は、幕末から明治時代の幕臣であり政治家、思想家である。剣・禅・書の達人としても知られる。明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。 武芸を重んじる家柄から、幼少時より神陰流や樫原流槍術、北辰一刀流を学び、武術に天賦の才能を示した。明治維新後には〔一刀正伝無刀流(無刀流)〕の開祖となる。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府に行き、単身で西郷と面会する。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。 |
山下清 |
山下清は、日本中を放浪しながら絵画を描いたことで知られる日本の画家である。山下清は、幼少時に重篤な消化不良で生命の危機にあい、その後遺症として軽い言語障害や知的障害を受けることになった。 清は普通の学校での勉強にはついていくことができず、千葉県にある知的障害児施設「八幡学園」へ預けられるが、ここで「ちぎり紙細工」に出会い、没頭してその類まれな才能を開花させる。やがて多くの人々から賛嘆を浴び個展が開催されるようになる。 彼には兵役免除のための放浪など幾多の物語があるが、戦後は「日本のゴッホ」とか「裸の大将」と呼ばれ親しまれた。代表作には、『長岡の花火』『エッフェル塔』などがある。 |
山中伸弥 |
山中伸弥は、1993年大阪市立大学大学院医学研究科修了、医学博士である日本の医学者であり〔iPS細胞〕の発明者として知られる天才である。京都市名誉市民、東大阪市名誉市民などの称号が与えられている。 山中伸弥は、「成熟細胞が初期化され多能性をもつことの発見」により2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。この発明は人類の未来に対して極めて偉大な発明である。 20世紀がアインシュタインに代表されるとするなら、山中伸弥は21世紀の発明家の中で100年後に記憶に残される第一人者となるに違いない。 |
山田耕筰 |
山田耕筰は、日本の作曲家で指揮者で、山田耕作とも書かれる。日本初の管弦楽団を造るなど日本における西洋音楽の普及に努めた。国際的な音楽家で、日本だけでなく欧米でもよく知られている。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで、歌曲や童謡、オペラなど非常に多くの作品を残した。よく知られた代表作には、『野薔薇』『からたちの花』『この道』『鐘が鳴ります』『中国地方の子守謡』『赤とんぼ』『兎のダンス』『お山の大将』『七夕』『砂山』『かえろかえろと』『ペチカ』『待ちぼうけ』『あわて床屋』などがある。 |
山田風太郎 |
山田風太郎は、日本の小説家である。戦後日本を代表する娯楽小説家の一人とされ、伝奇小説、推理小説、時代小説の三分野で非常に多くの作品を残した。 奇想天外な漫画が多く、シリーズものも多い。代表的な作品には、『魔界転生』や『南総里見八犬伝』『水滸伝』、そして『甲賀忍法帖』や『柳生忍法帖』などのような『忍法帖』シリーズなど現在も人気がある。 |
山田方谷 |
山田方谷は、幕末期の儒家で陽明学者である。陽明学と朱子学を学び、それぞれの利点と欠点を会得したとされる。 山田家は元は清和源氏ゆかりの武家なるも、彼の出生の時代には百姓として生計をたてていた。5歳にして新見藩の儒学者、丸川松隠に学び20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授となる。藩政に参加し、幕末期に滅亡寸前の藩を立て直した。方谷は「理財論」および「擬対策」を唱え藩政改革を成功させたのである。 |
山本五十六 |
日本の海軍軍人で第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。1943年、前線視察の際、日本軍の暗号を分析・解読した米軍機により攻撃されブーゲンビル島上空で戦死した。米軍が解読した暗号電報は「武蔵」から発信された電文であった。 |
山縣有朋 |
山縣有朋は、日本の武士、長州藩士であり陸軍軍人、政治家である。内務大臣、内閣総理大臣、元老、司法大臣、枢密院議長、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長、陸軍大将などを歴任した。 高杉晋作が創設した奇兵隊で頭角を現し奇兵隊の軍監となる。明治政府では日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」「日本軍閥の祖」とも称された。伊藤博文と同様、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。 |
八木秀次 |
八木秀次は、日本の電気工学者で実業家である。通称、八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。この発明により〔八木アンテナ社〕を創業し初代社長となった。八木アンテナは現在でもTV受信用アンテナとして使用されている。 戦時中は内閣技術院総裁、戦後は右派社会党や日本社会党に所属し参議院議員を務めた。東京工業大学学長、千葉工業大学顧問、大阪帝国大学総長、武蔵工業大学学長なども歴任した。 |
柳田国男 |
柳田國男は、日本の民俗学者である。日本民俗学の開拓者で、現在の兵庫県神崎郡福崎町の医者の家に出生した。民俗学の多数の著作があり現在でも愛読される。 幼少時より非凡な才能を発揮し、自家のみならず近隣家が所蔵する無数の蔵書を読破したという。東京帝国大学法科大学政治科卒業後には農商務省に入り東北地方の農村の実態を調査・研究する。森鴎外や田山花袋、国木田独歩、島崎藤村とも親交があり、『しらがみ草紙』や『文学界』『国民之友』『帝国文学』などに投稿している。 農商務省の高等官僚となり、東北地方の民族学に傾注するようになり、当時新進作家の佐々木喜善と知り合い『遠野物語』を執筆した。雑誌「郷土研究」を創刊する。以降、「日本人とは何か」を求め続け、日本民俗学を確立した。 |
湯川秀樹 |
湯川秀樹は、京都府京都市出身の日本の理論物理学者である。1935年に、原子核内部では、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子が存在すべきだと理論的に予言した。 その後、1947年にイギリスの物理学者セシル・パウエルが、宇宙線の中からパイ中間子を発見し湯川の理論の正しさを証明した。これにより、1949年(昭和24年)湯川秀樹は、日本人初めてとなるノーベル賞を受賞した。当時の日本人は、この快挙に大興奮して喜んだのも記憶に新しい。 |
由井正雪 |
由井正雪は、江戸時代前期の日本の軍学者である。由井正雪は17歳にして江戸の親類のもとに奉公へ出るが、楠木正成の子孫を称する軍学者の楠木正辰の弟子となり、その娘と結婚して婿養子となる。そして、神田連雀町で楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。 慶安4年(1651年)、3代将軍徳川家光の死後、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥ら浪人を集めて幕府転覆を計画する。決起直前に計画を密告され、正雪は自刃して果てた。世にいう〔慶安の変(由井正雪の乱)〕である。 |
横井庄一 |
横井庄一は、日本の陸軍軍人であり評論家である。彼の最終階級は陸軍軍曹であり、勲七等青色桐葉章の栄典を授与されている。戦時中、グアム島で戦っていたが太平洋戦争の終結を知らず、終戦から28年目に、アメリカ領グアム島において地元猟師により発見された残留日本兵である。 横井は厳しい軍事教育を受けた影響で、「生きて本土へは戻らぬ」という決意があった。帰国に際しては、羽田空港で出迎えた斎藤邦吉厚生大臣に「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰ってまいりました」と伝えたと言う。 また、記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど」と発言し、「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。 |
横溝正史 |
横溝正史は、現在の兵庫県神戸市中央区東川崎町生まれの日本の小説家で推理作家である。大正9年、神戸二中を卒業後、第一銀行神戸支店に勤務したが、翌年に雑誌『新青年』の懸賞に応募した『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』が入選作となった。 その後、1926年に江戸川乱歩に招かれ上京、博文館に入社し編集長に就任する。『文芸倶楽部』『探偵小説』などの編集長などをしたが、1932年に専業作家となる。戦時中は自由な作品が書けない時代が続いたが、戦後になると本格的な推理小説が書けるようになり、1948年に『本陣殺人事件』により第1回日本探偵作家クラブ賞などを受賞し、日本探偵小説界の主役となった。 横溝正史の代表作には『鬼火』『本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』『幽霊座』『三つ首塔』『悪魔の手毬唄』『仮面舞踏会』『悪霊島』『人形佐七捕物帳』などがある。 |
吉川英治 |
吉川英治は、神奈川県生まれの日本の小説家である。幅広い読者層を有したことから「国民文学作家」といわれる作家である。 10歳頃から雑誌に投稿するようになり、少年雑誌に作文が入選したことがある。大正3年『江の島物語』が『講談倶楽部』誌に3等当選する。関東大震災後『剣魔侠菩薩』を『面白倶楽部』誌に連載して、ようやく作家として一本立ち、その後、次々と作品を発表する。 吉川英治の代表作には、『鳴門秘帖』『宮本武蔵』『新・平家物語』『私本太平記』『新・水滸伝』など多数がある。 |
吉村作治 |
吉村作治は日本の工学博士であり考古学者、早稲田大学名誉教授である。サイバー大学客員教授、東日本国際大学専任教授副学長などを歴任した。日本でのエジプト考古学の第一人者であり、衛星写真分析などを駆使するハイテク技術により遺跡発掘を行う手法を用いて活躍している。 大変なアラブ通であり、留学や発掘調査などでエジプトでの生活も長い。最初の妻はエジプト人であった。NHKやTBSなどのTVではドキュメンタリー番組のコメンテーターとして出演することが多い。 2003年にはピラミッドのプロトタイプとされるエジプト最古級の大型石造建造物を発見している。代表的著作には『アラブ・ゲリラ』『エジプト史を掘る』『ヒエログリフで学ぼう!』『ピラミッドの謎』などがある。 |
吉田兼好 |
吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人であり遁世者、歌人、随筆家である。出家したことから兼好法師とも呼ばれる。 治部少輔卜部兼顕の子として生まれたが、卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれた。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者としてあまりにも有名である。また私家集『兼好法師家集』がある。 |
吉田松陰 |
幕末の思想家。日本の武士・長州藩士・思想家・教育者・兵学者・地域研究家。一君万民論で、「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と唱え、国家は天皇が支配するものとした。万民は天皇の下に平等であるが、万民は天皇のために死に物狂いで尽くさなければならないと説いた。これは幕府の権威を否定する過激な思想であった。 |
吉田正 |
吉田正は、茨城県日立市出身の国民歌謡作曲家であり、生涯にわたって作曲を続け作曲数は2400曲を越えるとされる。 鶴田浩二や三浦洸一、フランク永井、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど、その時代を代表する多くの歌手を育て上げ、日本歌謡史の黎明期を創りだした。哀愁を帯びたメロディー、ムード歌謡、青春歌謡など幅広い歌曲を残している。 吉田正の代表曲には『異国の丘』『落葉しぐれ』『街のサンドイッチマン』『赤と黒のブルース』『好きだった』『有楽町で逢いましょう』『夜霧の第二国道』『東京午前三時』『グッド・ナイト』『東京ナイト・クラブ』『誰よりも君を愛す』『潮来笠』『再会』『夜がわるい』『いつでも夢を』『江梨子』『恋をするなら』『おまえに』『傷だらけの人生』などがある。死後、1998年に国民栄誉賞を受賞している。 |
吉田茂 |
日本の外交官・政治家で、第45・48~51代総理大臣、多くの大臣議席などを歴任した。第二次大戦後の混乱期に日本の政治を指導し、戦後日本の礎を築いた。1953年2月28日の衆議院予算委員会において、吉田茂首相は社会党右派の西村栄一議員に対して「バカヤロー」との暴言を吐き、3月14日の衆議院解散となった。この解散は俗に「バカヤロー解散」と呼ばれる。 |
与謝野晶子 |
日本の歌人・作家・思想家で、夫は与謝野鉄幹であり、共に文化学院創設。1901年、女性が性愛をあからさまに表現するなどあり得ない時代に、官能をおおらかに詠いあげるような情熱的作品が多い歌集『みだれ髪』を発表した。日露戦争期には、『君死にたまふことなかれ』を歌っている。『源氏物語』の現代語訳でも知られている。 |
与謝蕪村 |
与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津国東成郡毛馬村で出生の江戸時代中期の日本の俳人であり画家である。摂津国東成郡毛馬村は現在の大阪市都島区毛馬町だが、それ以上の詳しい出自は分かっていない。 20歳の頃、江戸で早野巴人に師事して俳諧を学んだ。27歳の時、師が没すると下総国結城の砂岡雁宕のもとに寄寓し、尊敬する松尾芭蕉に憧れて、僧の姿で芭蕉の足跡を行脚した。持ち前の絵の特技を活かして、宿代を絵で賄っていた。 |
頼山陽 |
頼山陽は、江戸時代後期の歴史家であり思想家、漢詩人、文人でもある。頼山陽もまた幼少時より詩文の才能を発揮し歴史に深い興味を抱いた。突如脱藩を企てたりして一時的に廃嫡のうえ蟄居幽閉されたが、その間、学問に専念することとなり、彼の名を世に残すことになる著作『日本外史』を著わした。簡明な記述と情熱的な文章で幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えた。 |
力道山 |
力道山は、日本のプロレスラーである。もともとは大相撲の力士出身で、戦後の日本のプロレス界の礎を築き、プロレス界に燦然と輝いたレスラーで、日本プロレス界の父と呼ばれている。その時代、日本ではTV放送がようやく民間でも見られるようになった時代で、ラジオ屋さんの店頭には大勢の人が集まりプロレスを観戦したものである。 プロレス界に君臨する絶頂期であった力道山は、通りすがりの暴力団員といざこざとなったが、この際、暴力団員に下腹部をナイフで刺され、7日後に穿孔性化膿性腹膜炎を発症し死去した。 |
李香蘭 |
李香蘭は、戦時中の中国と満州国、日本、そして戦後の香港で俳優・歌手として活躍した日本人である。終戦後には山口淑子の芸名で芸能活動を再開し日本や米国、香港で活躍した。 代表曲に『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』『萬世流芳』『暁の脱走』『白夫人の妖戀』『醜聞』『金瓶梅』『神秘美人』などがある。 |
良寛 |
良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶であり歌人、漢詩人、書家です。良寛は、全国各地で天災・凶作・悪疫のために餓死者が多発、米騒動が頻発したのを目のあたりにして、人間の救いを求めて出家します。 倉敷市の円通寺の国仙和尚に師事し、厳しい戒律を乗り越えながら学んだのは「一日作らざる者は、一日食わず」という師の言葉であった。「好きなように旅をするが良い」との師の言葉に従い諸国行脚をし、子供たちと遊びました。時世の句が有名です。
『散る桜 残る桜も 散る桜』 |
留守政景 |
留守政景は、伊達晴宗の三男、伊達政景として誕生し、父親である晴宗の政略により、奥州の名族である留守氏の養子となり留守政景と名乗りました。戦国時代~江戸時代初期の武将であり、留守氏第18代当主となり、実家である伊達家の勢力拡大に貢献しました。 |
冷泉為相 |
冷泉為相は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿であり歌人です。所領をめぐる争いがあり鎌倉幕府に訴えるなどした際、鎌倉における歌壇を指導し「藤ヶ谷式目」を作るなど鎌倉連歌の発展に貢献したという。『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。 |
蓮如 |
蓮如は室町時代の浄土真宗の僧侶で本願寺第8世です。本願寺中興の祖と呼ばれ、蓮如上人と尊称されることも多い人です。その時代、本願寺は親鸞直系の寺院ながら衰退著しく滅亡寸前だったのを、蓮如が再興し現在の本願寺教団の礎を築きました。 |
魯山人 |
魯山人は、日本の芸術家で、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていました。多くの分野で活躍した中でも、美食家としての腕前は格別で、日本の料理史に名を残しました。 |
渡部潤一 |
渡部潤一は、日本の天文学者で太陽系天文学を専門とする理学博士であうる。国立天文台副台長、総合研究大学院大学物理科学研究科天文科学専攻教授を歴任している。2006年、国際天文学連合の「惑星の定義委員会」が冥王星を惑星から除外する決定を下した時の最終メンバーの1人となった。 一般向けの天文関連の多くの著作をもつほか、天文学に関連するテレビ等への出演も多く、日本の天文学者の中では最も有名ともいえる。主な著書には『図説新・天体カタログ 銀河系内編』『ヘール・ボップ彗星がやってくる』『しし座流星雨がやってくる』『星空を歩く : 巨大望遠鏡が見た宇宙』などがある。 |
渡辺崋山 |
渡辺崋山は、江戸時代後期、三河国田原藩の藩士の武士であり画家である。後に家老職をしている。崋山の幼年期は藩士の生まれとはいえ極貧に喘ぐものであり、日々の食事にも事欠き有様だったという。 崋山は、生計を助けるために得意な絵を描き得るようになる。谷文晁に弟子入りし絵の才能を大きく開花させ20代半ばには既に有名な画家となった。また、儒学(朱子学)も学んだ。 天保7年から翌年にかけての天保の大飢饉の際、報民倉と称する食料備蓄庫をあらかじめ準備したり、家中での綱紀粛正や倹約の徹底により貧しい藩内にも関わらずひとりも餓死者も出さなかったことで、全国で唯一幕府から表彰を受けている。このように勉学に励み頑張る姿は、太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。 |
ヲノサトル |
ヲノサトルは、秋田県出身の作曲家でミュージシャンである。東京学芸大学大学院修了後、現代音楽作曲家として活動を開始した。 コンピュータやサンプラーを用いたノイズ即興演奏や、電子音響作品、更には美術や演劇、映像とのコラボなどを行う。ゲーム音楽やCM音楽なども手掛け、様々な分野で幅広く活躍している。J-POP分野でも、様々なアーティストに楽曲を提供している。 『ヲノサトルの甘い作曲講座』などの著書がある。 |