後に家老職をしている。崋山の幼年期は藩士の生まれとはいえ極貧に喘ぐものであり、日々の食事にも事欠き有様だったという。
崋山は、生計を助けるために得意な絵を描き得るようになる。谷文晁に弟子入りし絵の才能を大きく開花させ20代半ばには既に有名な画家となった。また、儒学(朱子学)も学んだ。
天保7年から翌年にかけての天保の大飢饉の際、報民倉と称する食料備蓄庫をあらかじめ準備したり、家中での綱紀粛正や倹約の徹底により貧しい藩内にも関わらずひとりも餓死者も出さなかったことで、全国で唯一幕府から表彰を受けている。
このように勉学に励み頑張る姿は、太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。
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