勝五郎は、天然理心流剣術道場・試衛館に入門し腕前を認められ、流派一門の宗家を継ぐこととなりました。
勝五郎は、嘉永元年(1849年)に江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場(試衛館)に入門しました。
翌嘉永2年6月には、目録を受けます。同年10月19日には近藤周助(近藤周斎)の養子となります。そして、周助の実家である嶋崎家の養子となり、嶋崎勝太と名乗ります。更に時を経て、近藤家と正式に養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗るようになります。
万延元年(1860年)に御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女、松井つねと結婚、翌年には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎます。
文久3年(1863年)正月、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募ったが、近藤ら試衛館の8人が参加する。
2月8日、浪士組一行と共に京都に向けて出発。2月23日に京都に到着し、壬生村(京都府京都市中京区)の民家や寺社に分宿する。
3月10日、二条城で京都守護職を務める会津藩主・松平容保は、幕府老中から京都の治安維持のため浪士を差配することを命じられ、会津藩預かりとして、将軍在京中の市中警護を担う「壬生浪士組」を結成する。浪士組24名中、8名が近藤ら試衛場出身者であった。
壬生浪士組は当初から不協和音があり、幾多の暗殺劇などを経て、近藤派と芹沢派の二派閥体制となる。その後、幾多の騒動を経て、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜される。やがて、近藤らは隊内で敵対していた芹沢一派を暗殺し、新選組の全権を手中に収める。
元治元年6月5日(1864年7月8日)、いわゆる池田屋事件を起こす。京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏中の長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士たちを襲撃した。池田屋事変、池田屋騒動とも呼ばれる。この働きで新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。
慶応4年(明治元年、1868年)1月3日、旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが発生し、新選組は会津兵らと伏見奉行所におり、近藤負傷のため土方歳三が隊を指揮するが、この戦いに敗れ、新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。その後、いくたの経緯を経て後、慶応4年4月25日(1868年5月17日)、斬首され果てる。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首(きょうしゅ)された。その後の首の行方は不明である。
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