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〔日本の偉人〕

近衛文麿

 

 近衞文麿は、日本の政治家である。後陽成天皇の12世孫にあたり、五摂家の近衞家の第30代目当主である。

 貴族院議員になった後、火曜会を結成し、大政翼賛会を設立もした。貴族院副議長、貴族院議長、内閣総理大臣、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣、国務大臣などの要職を歴任した。三度にわたり内閣総理大臣として国政にあたった。外交政策では大東亜共栄圏建設を掲げ、日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。

近衛文麿の肖像・写真 
(出典:wikipedia)



偉人のプロフィール

プロフィール
通称 近衞 文麿(このえ ふみまろ)
本名 近衞 文麿(このえ ふみまろ)
別名

称号 〔位階〕
・従二位

〔勲章等〕
・大礼記念章
・帝都復興記念章
・勲一等瑞宝章
・旭日大綬章

〔外国勲章佩用允許〕
・千九百二十五年聖年祭記念布教博覧会功労章
・イタリア王国イタリア王冠勲章
・タイ王国レレファンブラン勲章

時代 明治時代~昭和時代(終戦後)
生誕

〔生誕〕1891年(明治24年)10月12日
〔生誕地〕東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)

死没 〔死没〕1945年(昭和20年)12月16日(54歳没)
〔死没地〕東京都杉並区
〔墓所〕京都市北区の大徳寺に「近衛家廟所」

国籍 日本国
言語 日本語
居住地
学歴 〔学歴〕
・京都帝国大学法科大学卒業
・法学士

職業 〔職業〕日本の政治家
・貴族院議員
・貴族院副議長(第10代)
・貴族院議長(第9代)
・内閣総理大臣(第34・38・39代)
・外務大臣(第57代)
・拓務大臣(第13代)
・班列
・農林大臣(臨時代理)
・司法大臣(第43代)
・国務大臣
・大政翼賛会総裁(初代)

分野 日本の政治
所属 〔所属政党〕研究会 → 火曜会

業績 〔業績〕
・支那事変不拡大方針(実際には拡大)
(7月7日発生の盧溝橋事件に対し、不拡大の方針を閣議で確認した。しかし8日後には1,000万円の予備費支出を決定。更に9,700万円のシナ事変予算を閣議決定。更に4億円を追加。不拡大方針どころか、シナ事変を拡大させた。)

・トラウトマン工作の打ち切り、「爾後国民政府を相手とせず」
(駐日独大使ディルクセンと、駐支独大使トラウトマンの仲介で日支間の和平工作が進み、近衛ばかりか陸海軍や国民党政府側も異論は無く、昭和12年12月には支那事変は無事終結する筈であった。しかし、ひとり内相の末次信正が強硬に反対したのを近衛は抑えられず、トラウトマン工作を中止してしまう。)

・日独伊三国軍事同盟の締結
(近衛はドイツとの同盟には対米関係の悪化を恐れ慎重派だったが、松岡洋右の強硬主張により同盟を結ぶ。)

・南部仏印進駐
(陸軍の強硬主張、海軍も賛成、松岡が反対したが近衛はあっさり賛成して決定)

・帝国国策遂行要領決定(S16年9月6日)
(近衛は戦争反対派で英米協調路線を考えていたが、東條陸相および陸軍の強硬主張で対米開戦を決定。一旦はこの決定は白紙となるも、11月5日の御前会議で対米開戦が正式決定した。)

・日米諒解案に合意せず条件の吊り上げ
(昭和15年の日本軍の北部仏領インドシナ進駐と、日独伊三国同盟の締結などで冷え込んだ日米関係を打開するため、「野村・ハル会談」で作成された日米諒解案に近衛は賛成だったが、松岡の強硬な反対で無となった。)

・北部仏印進駐の際の武力行使容認
(第二次近衛内閣組閣後わずか4日目、シナ事変の徹底遂行と仏印(南方進出)武力行使の容認を決定。以降これを根拠に北部仏印の際の武力行使が正当化されていく。)

・興亜院設立→長崎会談の中止
(近衛は支那事変終息を図るべく宇垣一成を外相になってもらうよう懇請、これを受けた宇垣は、孔祥熙との和平交渉を進め交渉成立の一歩手前まできたが、宇垣に出世されると困る石原莞爾一派の強硬な反対にあって、近衛は長崎会談の直前になって宇垣から外交権を取り上げてしまい、和平のチャンスを逃した。)

・大政翼賛会の結成
(近衛自身は新体制により軍部の暴走を抑えたいとしていたが、現実には軍部方針を支援する役目を果たしてしまう。)

作品
名言 〔@@@の名言〕

・陸軍がそんなにやりたいならいいんじゃない。(南部仏印進駐決定時)

・今から考へると、我々は三国条約の締結に際し今少しく慎重の態度を採るべきであったと思う。

・僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。

 殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。

 その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が在することを確信する。

 戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂輿論なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。(遺書)

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