アントニオ猪木は、日本の元プロレスラー選手であり実業家、政治家でもあります。本名は猪木寛至で、プロレス選手時代のキャッチフレーズは次のように名乗っていた。
「燃える闘魂」
「燃ゆる闘魂」
「若獅子」
他に、「アントン」「トーキョー・トム」など多くの愛称がある。
(出典:wikipedia)
次世代の党所属の参議院議員として政治家として活躍中です。
アントニオ猪木は、神奈川県横浜市鶴見区生麦町の出身で、実家は石炭問屋だったのですが、石炭から石油の時代に変わり倒産したとのことです。13歳のころ、一族でブラジルに渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごしました。
運動神経がだめで子供時代には「ドン寛(鈍感)」とか「運痴の寛ちゃん」などのニックネームで呼ばれるほどでしたが、陸上競技選手としてブラジル現地の大会の砲丸投げで優勝し、ようやく身体能力を発揮するようになります。そして、たまたまブラジル遠征中の力道山の目に留まりスカウトされたのでした。
日本に帰国後の1960年、日本プロレスに入団しました。アントニオ猪木は、力道山や先輩レスラーであった豊登の薫陶を受け、本格的なプロレスラーとして成長していきました。
力道山は、猪木を純粋な日経ブラジル人として売り出そうとしていたために、当初、猪木は片言交じりのたどたどしい日本語で話す真似をしていたという。
豊登とともに〔東京プロレス〕を旗揚げしたが、人気がでず、わずか3月破産した。〔日本プロレス〕に戻り、ジャイアント馬場とのタッグを組み人気となるが、いろいろな確執から追放処分を受ける。1971年には、女優の倍賞美津子と結婚し、16年後に離婚している。
1972年には〔新日本プロレス〕を旗揚げし、当時、ジャイアント馬場率いる〔全日本プロレス〕に邪魔されて有力な外国人レスラーの招へいができない時期もあったが、徐々にさまざまな外国のスタープロレスラーとの戦いが実現するようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築きました。中でもモハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼びました。
やがて、プロレスラーとしては引退の時を迎えますが、その後、政治家として活躍するようになります。北朝鮮訪問などでいろいろな話題を提供しています。
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