青木昆陽は、江戸時代中期の儒学者であり蘭学者でもある。京都の儒学者伊藤東涯に学び、江戸に帰府して開塾している。
評定所儒者、書物奉行であり、救荒食物としてサツマイモの栽培を推進した。一般には〔甘藷先生〕と称されている。
青木昆陽は、江戸日本橋小田原町の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学ぶ。 懇意だった江戸町奉行所与力・加藤枝直の推挙を得て、享保18年(1733年)南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。 江戸幕府8代将軍の徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷栽培を昆陽に命じる。 小石川薬園、下総国千葉郡馬加村、および上総国山辺郡不動堂村の三場所で試作、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及した。天明の大飢饉では多くの人命を救ったとされる。 昆陽は、元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛を拝命、元文4年(1739年)には御書物御用達を拝命し、幕臣となる。当時、寺社奉行となっていた大岡忠相の配下となり、甲斐・信濃・三河など徳川家旧領の古文書を収集、調査、分類し、『諸州古文書』として集約する。 後には、オランダ語を習得し、弟子として『解体新書』で知られる前野良沢を指導した。明和4年(1767年)には書物奉行となっている。