・満ち足りた人生とは 自分に正直に生きる事である。
安倍晴明は、平安時代の陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。 安倍晴明一族が非常に克明に星の観察をして天喜2年(1054年)の〔かに星雲〕での〔超新星爆発〕を発見している。その他にも二つの超新星爆発の発見もし、世界でも唯一の天文学における貴重な資料となっている。これらの記録は、後に藤原定家によって記録に残されている。
安倍晴明の系譜は、極めて多くの諸説があり確かなものはないが、大膳大夫・安倍益材、あるいは淡路守・安倍春材の子とされている。 彼は、921年(延喜21年)に摂津国阿倍野で生誕したとされる。現在の大阪市阿倍野区である。奈良県桜井市安倍とする伝承もあるが定かではない。
948年(天暦2年)には、宮中で宿直,供奉 (ぐぶ) などを司さどる下級官人である大舎人(おおとねり)となり、960年(天徳4年)40歳のときには、陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職である天文得業生となる。 50歳ころ、天文博士に任ぜられ、貞元2年(977年)頃から陰陽道内で頭角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上位にあった。 安晴が59歳となる、979年(天元2年)には当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命により那智山の天狗を封ずる儀式を行ったとされるほか、彼がしばしば陰陽道の儀式を行った記録が残っている。 一条天皇が急な病に臥せった折り、晴明が禊(みそぎ)を奉仕すると、たちまち病から回復したことで、正五位上に叙されている。更に、1004年(寛弘元年)7月に発生した大干ばつに際して、晴明が雨乞いの五龍祭を行うと見事に雨が降りはじめた。 、このことで、一条天皇は晴明の力と認め被物(かずけもの)を与えたという。こうして、安倍晴明は、陰陽師としての名声を極めた。 その後は、天文道で培った優れた計算能力を買われて、彼は主計寮に異動し主計権助を務める。更に、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下にまで昇りつめたのである。 晴明の2人の息子、安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられ、安倍氏は陰陽道の家としての地位を確立する。
平安時代
921年
1005年(83~84歳) 墓所は京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。
〔宗教〕陰陽道