家は元々は諏訪藩士であったが、父親は明治維新後には教員をしていた。赤彦は貧しいながらも自然や優しい家族のもとで伸び伸びと育った。
赤彦は祖母から百人一首を教えられ、5歳で暗唱するほどであった。諏訪小学校高等科を卒業し諏訪育英会に入り、泉野小学校、玉川小学校の代用教員を務めた、和歌や俳句をたしなむようになる。赤彦の代表歌には次のものがある。
・月の下の光さびしみ踊り子のからだくるりとまはりけるかも (『切火』)
・ひたぶるに我を見たまふみ顔より涎を垂らし給ふ尊さ(『氷魚』)
・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ (『柿蔭集』)
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