〔島木赤彦の名歌〕
「氷魚」掲載歌
・ひたぶるに我を見たまふみ顔より涎を垂らし給ふ尊さ
・人に告ぐる悲しみならず秋草に息を白じろと吐(つ)きにけるかも
・日の下に妻が立つとき咽喉(のど)長く家のくだかけは鳴きゐたりけり
・雪残る土のくぼみの一ところここを通りてなほ遠ゆくか
・昔見て今もこもらふ歯朶(しだ)の葉の暗がりふかく釣瓶を吊るも
「柿蔭集」掲載歌
・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ
・隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
・信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる漬菜(つけな)の色は
「馬鈴薯の花」掲載歌
・げんげ田に寝ころぶしつつ行く雲のとほちの人を思ひたのしむ
・妻も我も生きの心の疲れはてて朝けの床に眼ざめけるかも
・日の下に妻が立つとき咽喉(のど)長く家のくだかけは鳴きゐたりけり
・夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ
・昔見て今もこもらふ歯朶(しだ)の葉の暗がりふかく釣瓶を吊るも
・雪のこる土のくぼみの一ところここを通りてなほ遠ゆくか
「切火」掲載歌
・雪深き街に日てればきはやかに店ぬち暗くこもる人見ゆ
・子をまもる夜のあかときは静かなればものを言ひたりわが妻とわれと
・むらぎもの心しずまりて聞くものかわれの子供の息終るおとを
・雪はれし夜(よ)の街の上を流るるは山よりくだる霧にしあるらし
・母一人臥(こや)りいませり庭のうへに胡桃の青き花落つるころ
・大き炉にわが焚きつけし日は燃えてものの音せぬ昼のさびしさ
・うどん売る声たちまちに遠くなりて我が家の路地に霙ふる音
・冬の日の光とほれる池の底に泥をかうむりて動かぬうろくづ
・ひたぶるに我を見たまふみ顔より涎を垂らし給ふ尊さ
・窓の外に白き八つ手の花咲きてこころ寂しき冬は来にけり
・わが家に月にひとたび帰りゆくよろこび心寂しくなりぬ
・月の下の光さびしみ踊り子のからだくるりとまはりけるかも
・雪あれの風にかじけたる手を入るる懐の中に木の位牌あり
・山門に向ひてのぼる大どほり雪厚くして黒土を見ず
・土荒れて石ころおほきこの村の坂に向かひて入る日のはやさ
「太虚集」掲載歌
・栂の木の木立出づればとみに明し山をこぞりてただに岩むら
・久しくも夕顔の花の咲きつぎて棚にあまれる蔓伸びにけり
・谷かげに苔むせりける仆(たふ)れ木を息づき踰ゆる我老いにけり
・亡がらを一夜抱きて寝しこともなほ飽き足らず永久に思はむ
・岩あひにたたへ静もる青淀のおもむろにして瀬に移るなり
・石楠の花にしまらく照れる日は向うの谷に入りにけるかな
・或る日わが庭のくるみに囀りし小雀(こがら)来たらず冴え返りつつ
・信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ
・魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思い居り
・箸を持て我妻(あづま)は我を育くめり仔とりの如く口開く吾は
・山道に日は暮れゆきて栂の葉に音する雲は過ぎ行きにけり
・みづうみの氷をわりて獲し魚を日ごとに食らふ命生きむため
・行き乍ら痩せはてにえるみ仏を己自ら拝(をろがみ)まをす
・やまのべに家居し得居れば時雨のあめやはやすく来て音立つるなり
・福寿草の鉢を置きおきかふる幼子や縁がはのうへに移る日を追ひて
・たえまなく鳥なきかはす松原に足をとどめて心静けき
・山道に昨夜の雨の流したる松の落ち葉はかたよりにけり
・野分すぎてとみにすずしくなれりとぞ思ふ夜半に起きゐたりける
・つぎつぎに過ぎ西人を思ふさえはるけくなりぬ我のこよひは
・湖つ風あたる障子のすきま貼り籠りてあらむ冬は来にけり
・空すみて寒きひと日やみづうみの氷の裂くる音ひびくなり
・高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも
・ここにして遙けくもあるか夕ぐれてなほひかりある遠山の雪
・あからひく光は満てりわたつみの海をくぼめてわが船とほる
・やまさへも見えずなりつる海なかに心こほしく雁の行く見ゆ
・隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり
・はひ松の陰深みつつなほ照れる光寂しも入日のなごり
・みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
・我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひ出でて眠れる
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