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アマゾン〔日本の偉人〕〔し〕で始まる日本の偉人ジャイアント馬場(ジャイアント ばば) |
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日本のプロレスラー・プロ野球選手・タレントで、全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。 (出典:Yahoo Japan)
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人並み外れた体躯を活かして、ジャイアント馬場には、相手のロープの反動を利用したカウンターキックである「16文キック」や長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した得意技があった。
・「16文キック」 |
プロフィール |
通称 |
〔通称〕 ・ジャイアント馬場(ジャイアントばば) |
本名 |
〔本名〕 ・馬場 正平(ばば しょうへい) |
別名 |
〔リングネーム〕 ・ジャイアント馬場 ・馬場 正平 ・ショーヘイ・ビッグ・ババ ・ババ・ザ・ジャイアント etc. 〔ニックネーム〕 ・世界の巨人 ・東洋の巨人 ・御大 ・王者の魂 ・王道 ・東洋の悪魔 ・馬場ちゃん 〔野球選手時代登録名〕 ・馬場正平 |
受賞歴 | |
時代 |
〔時代〕 ・昭和時代~平成時代 |
生誕 |
〔生誕〕1938年1月23日 〔生誕地〕新潟県三条市 |
死没 |
〔死没〕1999年1月31日(61歳没) 〔死没地〕東京医科大学病院で 〔戒名〕顕峰院法正日剛大居士 〔墓所〕兵庫県明石市本松寺。 |
国籍 | 日本国 |
言語 | 日本語 |
居住地 | |
学歴 |
〔学歴〕 ・新潟県三条市四日町国民学校 ・三条実業高校機械科中退 |
職業 |
〔職業〕 ・プロレスラー ・プロ野球選手 ・タレント 〔活躍時期〕 ・プロレスデビュー~引退 1960年9月30日~1998年12月5日 |
分野 |
〔分野〕 ・プロレスリング ・プロ野球 ・タレント業 |
所属 |
〔所属〕 ・全日本プロレス代表取締役社長・会長 ・NWA第一副会長 |
業績 |
〔業績〕 ・日本プロレス界史上最大の巨体の持ちぬしである。 ・現役時代は、当時の世界最高峰の王座NWA世界ヘビー級王座に3度輝いた。 ・そのじだい、力道山やアントニオ猪木と並ぶビッグネームとして、プロレスリングばかりか各種コマーシャルやテレビ番組などでも大人気を博した。 ・1964年には、アメリカで、NWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であった。その後、アメリカマット界の伝説として馬場の世界的名声を決定づけた。 |
作品 |
〔得意技〕 ・16文キック ・空手チョップ ・河津落とし(ジャイアント・バスター) ・ヤシの実割り(ココナッツ・クラッシュ) ・32文人間ロケット砲 ・脳天唐竹割り ・股割き(レッグスプリット) ・首折り落とし(ランニング・ネックブリーカー・ドロップ) ・尾?骨砕き(アトミック・ドロップ) ・シュミット式背骨折り(シュミット式バックブリーカー) ・腕折落とし(アームブリーカードロップ) ・波乗り固め(サーフボード・ストレッチ) ・コブラツイスト(グレープバイン・ホールド) ・脳天杭打ち(ドリル・ア・ホール・パイルドライバー) ・巨人式背骨折り(ジャイアント・バックブリーカー) ・ジャイアント・ニー・ドロップ ・ジャイアント・ギロチン・ドロップ(レッグ・ドロップ) ・ジャイアント・コンビネーション・A ・ジャイアント・コンビネーション・B |
受賞歴 |
〔獲得タイトル〕 ・NWA世界ヘビー級王座(第49代・第55代・第57代) ・インターナショナル・ヘビー級王座(第3代・第5代・第7代) ・PWFヘビー級王座(初代・第5代・第7代・第9代) ・アジアヘビー級王座(第6代) ・インターナショナル・タッグ王座(第7代・第9代・第10代・第12代・第14代・第16代・第23代・第25代・第27代・第29代・第31代・第33代) ・アジアタッグ王座3度獲得(第11代・第13代・第17代) ・NWA世界タッグ(デトロイト版) ・チャンピオン・カーニバル優勝(1973年、1974年、1975年、1977年、1978年、1981年、1982年) |
名言 |
〔@@@の名言〕
・こんな簡単な技があるとは知らなかったよ。 |
サイト | |
その他 |
〔体格〕 ・身長209cm ・体重135kg 〔リングネーム〕 ・リングネームは、1961年、初渡米武者修行中、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)」と命名したことに由来する。 ・2016年9月5日、故郷である新潟県三条市議会の9月定例会に於いて『ジャイアント馬場(馬場正平)を三条市名誉市民に決定する議案』が市議会本会議にて全会一致で承認され、10月15日に三条市役所で名誉市民顕彰が執り行われた。 ・馬場は生前、明石市の本松寺境内にある元子夫人の実父の墓の隣に馬場家の墓を建立していた。馬場の死後、遺骨は元子婦人が納骨しないまま自宅に保管していた。馬場の死から19年後、婦人が亡くなり、四十九日に合わせて納骨されたが、馬場が墓を建てる際に「一緒に墓に入ろう」と約束をしていたためであった。二人の約束はようやく果たされることとなったのである。 |