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〔れ〕で始まる日本の偉人
冷泉為相 蓮如

冷泉為相

冷泉為相の肖像・写真
(出典:ウイキペディア)
 冷泉為相は、鎌倉後期の歌人で、現在に続く冷泉家の始祖にあたります。
 為助は、鎌倉連歌の発展に尽くしたことで知られ、『新後撰和歌集』以下の勅撰集に六五首入集しています。

 その歌風は平明温雅であり『為相卿千首』、家集『権中納言為相卿集』があります。

 冷泉為相(れいぜいためすけ)は、御子左家(みこひだりけ)の父、藤原為家、母、阿仏尼の子として生まれ、二条為氏、京極為教、為子の兄弟ほかがいます。二男四女の子を残しました。

 御子左家における冷泉為相の先祖の系統は、藤原俊成→藤原定家→藤原為家であり、為相の祖父は、鎌倉時代初期の公家・歌人で小倉百人一首の撰者であり権中納言定家として知られるな藤原定家です。冷泉為相は、初名の為輔を後に為相に改名しています。

 この御子左家は、為相の代に、異母兄の二条為氏の二条家、京極為教の京極家、冷泉為相の冷泉家の三家に分かれています。

 1275年、為相十三歳の折り、父親の為家が死去すると、播磨国細川荘の領有や文書の相続で母阿仏尼と兄為氏の間で争いとなり、長期にわたって係争が続きました。直訴のため鎌倉に下向したりした母阿仏尼が1283年に亡くなる後も相続問題が未解決のまま続きました。1313年(正和二年)になって、ようやく為相側の勝訴が確定して、相続問題は決着しています。

 相続問題係争中に、為相は度々鎌倉に下向し鎌倉では藤谷(ふじたに)に在住して、武士たち相手に和歌連歌を指導し、『藤ケ谷式目』を作るなど、関東歌壇の指導者と仰がれるようになります。藤谷に在住したことから、藤谷(とうこく)殿と称されることもあります。

 1303年(嘉元元年)の嘉元百首、同年閏四月の伏見院仙洞歌合、同年か翌年の持明院殿における京極派の歌合、1319年(文保三年)頃の文保百首などに出詠しています。


この偉人のプロフィール
プロフィール
〔通称名〕  冷泉為相(れいぜいためすけ)
〔本名〕  冷泉為相(為輔(初名)→ 為相)
〔別名・ペンネーム〕  藤谷中納言、藤谷黄門、爲相(正字)
〔称号〕  官位:正二位、権中納言
〔時代〕  鎌倉時代中期~後期
〔生誕〕  弘長3年(1263年)
〔死没〕  嘉暦3年7月17日(1328年8月22日)(66歳)
 墓所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷の浄光明寺

浄光明寺写真
浄光明寺(出典:やまとうた)

〔国籍〕  日本
〔言語〕  日本語
〔出生国:出身地〕  日本国
〔居住国:居住地〕  
〔出身校・最終学歴〕  
〔職業〕  公卿、歌人
〔ジャンル・主題〕  和歌連歌
〔所属・党・派〕  冷泉家の祖
〔活動・業績〕  歌人として歌風は平明温雅であり鎌倉連歌の発展に尽くす。

 鎌倉で、執権北条貞時や娘婿にあたる将軍久明親王の開催した歌会にたびたび参加。

〔処女作〕  
〔代表作〕 〔勅撰入集〕
 『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に六五首入集。

〔編集〕
 私撰集『柳風和歌抄』『拾遺風体和歌集』を編者している。

〔家集〕
 『藤谷和歌集』『権中納言為相卿集』『為相百首』などが伝わる。

〔受賞歴〕  
〔残した言葉・名言〕
〔公式サイト〕
〔その他の情報〕  主君:亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇
 氏族:藤原北家御子左流冷泉家
 父母:父:藤原為家、母:阿仏尼(奥山度繁の養女)
 兄弟:二条為氏、京極為教、為相、為守
 子 :為成、為秀、娘(久明親王室)



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