幼少時より歌手として数々のヒット曲を歌い歌謡界の女王として君臨しただけでなく、映画女優としても活躍しました。
女性として初の国民栄誉賞を受賞しています。
美空ひばりは、魚屋の長女として生まれ、幼少時より家にあったレコードで歌謡曲や流行歌の楽しさ習得しました。1943年6月、父親の出征の壮行会で、彼女は『九段の母』を歌って多くの人々を感動と感銘を与えました。これを見た母親は、ひばりの歌唱力を認識し、地元近郊からひばりの歌による慰問活動を始めたのでした。
戦後の1945年、母親は私財を投じて〔青空楽団〕を設立します。ひばりが8歳の時、近所の公民館などに舞台を作り「美空和枝」の芸名で初舞台を踏んだのでした。
1946年、NHK「素人のど自慢」に出場したものの「上手だが子供らしくない」などの理由で合格はしませんでした。その翌年、横浜でののど自慢大会終了後に審査員の古賀政男のもとに母子で駆けつけ『悲しき竹笛』を聴いてもらいました。古賀は「君はもうのど自慢のレベルじゃない。もう立派にできあがっている」とコメントし歌手への道に進みました。
1949年3月東横映画「喉自慢狂時代」でブギウギを歌う少女として映画初出演、7月には主題歌『河童ブギウギ』を歌って11歳でレコードデビューを果たしました。12歳の時、主演映画『悲しき口笛』が大ヒット、レコードも45万枚の売上を記録します。
1954年にはNHK紅白歌合戦に初出場、1955年には、江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画「ジャンケン娘」への出演を契機に「三人娘」として人気を博す。
通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲という超絶な記録を残した美空ひばりだったが、これほど多くの曲を発表していても真にヒットした曲数は僅か十数曲に過ぎないことを考えると、歌手という仕事も大変な苦労があるものなのだと考えてします。
美空ひばりは、1989年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全のため52歳の若さで他界しました。
彼女が残した主なヒット曲には次のものなどがあります。
『愛燦燦』
『みだれ髪』
『お祭りマンボ』
『柔』
『人生一路』
『川の流れのように』
『東京キッド』
『悲しい酒』
『港町十三番地』
『花笠道中』
『関東春雨傘』
『おまえに惚れた』
『芸道一代』
『真赤な太陽』
『ひばりのマドロスさん』
|