民は重税に苦しみ、世は乱れ、後醍醐天皇が幕府打倒を目指し京都で挙兵する。これを支援した数少ない武将のひとりが楠木正成であった。
正成はわずか500の普段は百姓をしている地侍で挙兵し、数万の幕府軍と戦うことになる。正成軍に兜などあろう筈もない惨めな軍勢だったし、山城も粗末なものであったため、幕府軍は「1日くらい持ちこたえてくれねば恩賞がもらえぬ」と罵声を浴びせた。
幕府軍が城を取り囲み斜面を埋め尽くした瞬間、それは起こった。城の外壁が崩れ落ち幕府軍は一気に700名もの兵を失ってしまったのだ。様々な奇策で翻弄したのである。幕府軍にいた足利尊氏は、正成は只者ではないと感心したという。
兵糧攻めが始まり、正成軍は20日で食糧が尽き、城に火を放つが、抜け道から脱出して行方をくらましてしまう。その後も奇策による戦が続き、結局、140年続いた鎌倉幕府滅亡へと続くのである。
しかし、勝利した後醍醐天皇は、公家を重んじ武家を軽んじたり、民衆に厳しい税を課したために信望を失い、足利尊氏たちが反旗を翻すことになる。圧倒的多数の敵と対決した楠木正成は自害して果てることとなる。(ここには、余白がなくこれ以上、書けないのが残念である。)
|