幼少時より神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業、第一高校を経て東京帝国大学法学部へ進学した。
衆議院議員、農林大臣、大蔵大臣、外務大臣、行政管理庁長官、経済企画庁長官、内閣総理大臣などを歴任した。
昭和52年(1977年)に起きたダッカ日航機ハイジャック事件において「人命は地球より重い」という言葉を残して、人質解放のために身代金の支払いに応じた。
人質は救出したが、テロリストの脅迫に屈したとして国際的批判を甘んじた。その後、日中平和友好条約の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行い、アジア開発銀行の設立や福田ドクトリンへと結実した。
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