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〔り〕で始まる日本の偉人
力道山 李香蘭
良寛

良寛

良寛の肖像・写真
(出典:ウイキペディア)
 良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶であり歌人、漢詩人、書家でもあります。俗名は山本栄蔵または文孝で、号は大愚と称しました。
 良寛は、越後国出雲崎の名主・橘屋であり石井神社の祠職を務める俳人でもあった父親、山本左門泰雄の長子として生まれました。

 良寛は、長子であることから、父の後を継ぐ名主見習いを始めたのですが、2年目の18歳の時、突如出家してしまい、幼少時に勉学を積んだ曹洞宗光照寺にて修行をします。

 この時代、全国各地で天災・凶作・悪疫のために餓死者が多発、米騒動が頻発しました。これを目のあたりにした良寛は、人間の救いを求め、周囲の反対を押しのけて修行を続けます。

 出家後、現在の倉敷市の玉島の円通寺の国仙和尚に師事し、厳しい戒律を乗り越えながら人の道を学ぶこととなる。そこで学んだものは、単に経を学ぶことより、勤労に励むことであり、「一日作らざる者は、一日食わず」という師の言葉であった。

 12年後、無事修行を終えた良寛は、師が言い残した「好きなように旅をするが良い」という言葉に従って、諸国行脚を始める。良寛34歳であった。

 良寛は、子供たちとたわいなく遊んだ人として人々の記憶に残っているが、良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と考えていたからである。懐には常に手毬を抱いていたとされ、子供たちとは隠れんぼや手毬で遊んだという。


この偉人のプロフィール
プロフィール
〔通称名〕  良寛
〔本名〕  山本栄蔵(俗名)
〔別名・ペンネーム〕  文孝
〔称号〕  号は大愚
〔時代〕  江戸時代後期
〔生誕〕  宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕
〔死没〕  天保2年1月6日〔1831年2月18日〕
〔国籍〕  日本
〔言語〕  日本語
〔出生国:出身地〕  越後国出雲崎
〔居住国:居住地〕  全国各地行脚
〔出身校・最終学歴〕  玉島(岡山県倉敷市)の円通寺
〔職業〕  曹洞宗の僧侶
〔ジャンル・主題〕  歌人・漢詩人・書家
〔所属・党・派〕  曹洞宗
〔活動・業績〕  多数の和歌、書
〔処女作〕  
〔代表作〕  〔良寛の和歌〕

 ・あわ雪の中に顕(た)ちたる三千大千世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞ降る

 ・この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

 ・霞立つながき春日に子供らと手鞠つきつつこの日暮らしつ

 ・つきてみよひふみよいむなやここのとを十とをさめてまた始まるを

 ・世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれは勝れる

 ・道のべに菫つみつつ鉢の子を忘れてぞ来しあはれ鉢の子

 ・老が身のあはれを誰に語らまし杖を忘れて帰る夕暮

 ・秋の野にだれ聞けとてかよもすがら声ふり立てて鈴虫の鳴く

〔受賞歴〕  
〔残した言葉・名言〕  〔時世の句〕

  「散る桜 残る桜も 散る桜」

〔公式サイト〕  〔良寛記念館〕

  http://www8.ocn.ne.jp/~ryokan/index.html

〔その他の情報〕  


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