1957年、六本木の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれ、一時は250坪もある豪邸に住むほどの裕福な家庭環境で育ちました。
小学校3年生の時、当時の人気テレビドラマ『チャコちゃんハーイ!』を見て、女優を目指すようになりました。
その時点では母親の反対もあって断念しますが、17歳の時、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画 『ひまわり』 を見てソフィア・ローレンに憧れ、女優への夢が蘇ります。
1976年、東京女学館短期大学に進学した直後にタオルメーカーである現在の〔UCHINO〕のCMに出演することとなり、短大は中退します。その年、日本TV・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか』のオーディションに応募し、盲目のヒロイン役に選ばれて本名の〔小達雅子〕名で女優デビューを果たします。しかし、お嬢さん育ちだったためか、演技は57回もNGを出されるほどの拙いものだったといいます。
1977年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり注目を集めます。「夏」の「目玉商品」を目指すことから、芸名を本名の〔小達雅子〕から〔夏目雅子〕に改名します。このCMを担当したディレクターが後の直木賞作家であり、夫となる伊集院静でした。
その年、東映『トラック野郎』に6代目マドンナとして抜擢されたり、数々のTVドラマに出演します。翌1978年にはNHK大河ドラマ『黄金の日々』に出演したり、日本テレビ系の『西遊記』で三蔵法師役を見事に演じて絶大な人気となり、夏目雅子の名を世に知らしめます。
人気の高まりにより、バラレエティー番組などでタレントとしての出演が多くなってきますが、本人は本格的な女優を目指したいとして、その後は女優業中心の活動をするようになります。
1980年、演出家和田勉により女優としての実力を認められ『ザ・商社』のヒロインとして大抜擢されます。ドラマでの迫真の演技により、それまでのお嬢さん女優から脱皮して本格的女優のイメージを定着させます。1982年、『鬼龍院花子の生涯』ではヌードとなり迫真の演技を披露してブルーリボン賞を獲得します。演技派女優としての地位が確立します。この映画での台詞「なめたらいかんぜよ!」は当時の流行語となりました。
1985年2月14日、急性骨髄性白血病が発症し緊急入院します。半年ほどの闘病生活の末、9月8日に死去しました。満27歳の若さでした。その後も彼女の人気は伝説化され、彼女をモデルにしたTVドラマも数多く作られました。彼女の人気は現在までも衰えることはありません。
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