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〔千利休〕

 

 千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・茶人である。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも呼ばれる。今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠とされる。

 千利休には多くの弟子がいたが、その中で高弟7人は、「利休七哲」と称される。千利休の子孫は茶道の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)として続いている。

 蒲生氏郷、筆頭
 細川忠興(三斎)
 古田重然(織部)
 芝山宗綱(監物)
 瀬田正忠(掃部)
 高山長房(右近/南坊)
 牧村利貞(兵部)


あ行か行さ行た行な行
は行ま行や行ら行わ行
 
さしすせそ
 
〔せ〕で始まる日本の偉人

関孝和 世阿弥
清少納言 雪舟
千利休
 
〔千利休:珠玉の名言〕
 

・その道に入らむと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ。

・恥を捨て人に物とひ習ふべし 是ぞ上手の基なりける。

・釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な。

・茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて 飲むばかりなる本を知るべし。

 

 これら7人の高弟の他に、次の3名を加えて「利休十哲」と呼称することもある。

 織田長益(有楽斎)
 千道安(利休の実子)
 荒木村重(道薫)

 本能寺の変の後、千利休は豊臣秀吉に仕え重用される。3千石もの禄を賜り、茶人としての名声と権威を天下に示し、秀吉の政事にも影響を与えるようになる。しかし、天正19年、秀吉の逆鱗に触れ、切腹して果てる。


 千利休は、和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれで、家業は納屋衆(倉庫業)であった。彼の幼名は田中与四郎(與四郎)と称し、後に法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。

 利休は若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだとされる。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わったとされ、織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われている。

 本能寺の変で織田信長亡き後は、豊臣秀吉に仕えるようになる。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕するに際して、町人身分では宮中参内することはできないため、正親町天皇から居士号「利休」を勅賜される。

 秀吉の重い信任を受け、天正15年(1587年)の北野大茶湯を主管した。また、秀吉の黄金の茶室の設計などを行った。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わり茶人としての絶頂期を横臥した。

 更に、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用を始めるなど、わび茶の完成へと向かった。茶道として、簡素な芸術性を求めるわびさびへと変化を遂げた。

 秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に秀長から「公儀のことは自分に、内々のことは利休に」と耳打ちされたという。

 しかし天正19年(1591年)、一大異変が起こり、利休は突然秀吉の逆鱗に触れて、堺に蟄居を命じられる。

 利休が秀吉の逆鱗に触れた原因は、大徳寺三門改修に当たり増上慢(ぞうじょうまん)があったためとされる。増上慢とは、仏教用語で、「まだ悟ってもいないのに、悟ったと思って、おごり高ぶること」をいう。

 秀吉を怒らせた理由は、「自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」というものであった。秀吉が怒った真の理由として、これ以外にも多くの説が知られているが、真の理由は分かっていない。

 秀吉の家臣たちである前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興らが助命を懇願するも適わず、京都に呼び戻された利休は、聚楽屋敷内で切腹を命じられ果てる。享年70歳であった。

 利休の首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ)された。首は賜死の理由とされる大徳寺三門上の木像に踏みつけさせる形で晒されたという。

 利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。遺偈とは、高僧が死に臨んで、自己の感懐、弟子・後世への教訓などを記した句である。いわゆる「辞世の句」である。

 人生七十 力囲希咄
 吾這寶剣 祖佛共殺
 提ル我得具足の一ッ太刀
 今此時ぞ天に抛

(意味)
 わが人生七十年。えい!やぁ!とう!
 我がこの宝剣で、祖仏も我と共に殺してしまえ。
 上手く使えるこの太刀を引っさげて
 今まさに我が身を天に放つのだ。



偉人のプロフィール

〔千利休〕のプロフィール。

〔千利休〕

千利休の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)
プロフィール
通称

〔通称〕
・千利休(せんのりきゅう)

本名

〔本名〕
・千利休(せんのりきゅう)

別名

〔幼名〕田中与四郎(與四郎)
〔号〕
・宗易(そうえき)
・抛筌斎(ほうせんさい)

〔居士号〕
・利休
(天正13年(1585年)の禁中茶会のおり、町人は参内不可であり、正親町天皇から与えられた。)

称号

時代

〔時代〕
・戦国時代~安土桃山時代

生誕

〔生誕〕1522年
〔生誕地〕大阪府 堺市

死没

〔死没〕1591年4月21日(享年70歳)
〔没地〕京都府 京都市
〔墓所〕

国籍 日本国
言語 日本語
居住地

〔居住地〕
・和泉国・堺
・京都

学歴

〔修行〕
・17歳時、北向道陳、武野紹鴎に師事し茶の湯の改革に取り組んだ。

職業

〔職業〕
・商人
・茶人

分野

〔ジャンル〕
・茶道

所属

〔主君〕
・織田信長
・豊臣秀吉

業績

〔業績〕
・茶道としてのわび茶(草庵の茶)を完成させた。
・多くの茶道弟子を育てた。
・豊臣秀吉の側近として一時代活躍した。

作品

〔作品〕
・茶室・待庵 : 京都府大山崎町所在。国宝。

・黄金の茶室 : 豊臣秀吉の命により製作。

・書状
「武蔵あぶみの書(織部あて)」
「末吉勘兵衛宛書状」
「松井佐渡守宛書状」など

・書状
「寄進状」

・書
「孤舟載月」

・竹花入
「園城寺」
「尺八」
「夜長」

・茶杓
「なみだ」
「面影」

受賞歴

名言

〔千利休の名言〕

・この事に関しては私が弟子になりましょう。
(弟子の古田織部の茶席で籠の花入の下に薄板を敷いていないのを見て感じ入り述べた言葉。『茶話指月集』)

・こゝろざし深き人にはいくたびも あはれみ深く奥ぞ教ふる。

・その道に入らむと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ。

・とにかくに服の加減を覚ゆるは 濃茶たびたび点てゝ能く知れ。

・ともしびに陰と陽との二つあり あかつき陰に宵は陽なり。

(暁の茶事は、夜明けに近くなって、あたりが陽になるので陰の灯火である行灯を用い、夜咄の茶事は、あたりが陰であるため、陽の灯火である短檠(たんけい)を用いるものである。)

・なまるとは手つゞき早く又おそく所々のそろはぬをいふ。

・まず炭火はお湯の沸く程度にしなさい。
  お湯は飲みやすいように熱からず、ぬるからず、
   夏は涼しげに、冬はいかにも暖かく、
    花は野の花のごとく生け、
     刻限は早め、早めにして、
      雨降らずとも雨具の用意をし、
       お客の心を心とするのです。

・一期一会。

・一生に一度しかない、今この時の出会いを大切にしようとする「一期一会の精神」が大切なのではないでしょうか。

・右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありと知るべし。

・何にても 道具扱ふたびごとに 取る手は軽く 置く手重かれ。

・何にても置き付けかへる手離れは 恋しき人にわかるゝと知れ。

・夏は涼しいように、冬は暖かなように。

・家は洩らぬほど、食事は飢えぬほどにてたる事なり。

・花入の折釘打つは地敷居より三尺三寸五分余もあり。

・掛物をかけて置くには壁付を三四分すかしおくことゝきく。

・叶うはよし、叶いたがるは悪しし。

・釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な。

・乾きたる茶巾使はば湯をすこしこぼし残してあしらふぞよき。

・規矩作法(茶道における式法) 守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな。

・暁は数寄屋のうちも行灯に 夜会などには短檠を置け。

・稽古とは、一よりならい十を知り、十よりかえる、もとのその一。

・肩衝は中次とまた同じこと 底に指をばかけぬとぞ知れ。

・幸せになりたいのなら、幸せとの出会いに気づけないのも、幸せとの出会いを幸せに感じられないのも、もったいないでしょう。

・習ひつつ見てこそ習へ習はずに よしあしいふは愚かなりけり。

・小さな出会いを大切に育てていくことで、人生の中での大きな出会いになることもあります。

・床に又和歌の類をばかけるなら外に歌書をば飾らぬと知れ。

・上手にはすきと器用と功積むと この三つそろふ人ぞ能くしる。

・常の茶湯なりとも、路地に入るより出るまで、一期に一度の会のように亭主に敬畏すべきし。

・心の師とはなれ、心を師とせざれ。

・人の行く 裏に道あり 花の山、 いずれを行くも 散らぬ間に行け。

・水指に手桶出さば手は横に前の蓋とりさきに重ねよ。

・数多くある道具を押しかくし無きがまねする人も愚な。

・炭置くも習ひばかりに拘はりて湯のたぎらざる炭は消え炭。

・恥をすて人にもの問い習うべしこれぞ上手の基なりける。

・茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて 飲むばかりなる本を知るべし。

・茶はさびて心はあつくもてなせよ道具はいつも有合にせよ。

・茶を振るは手先をふると思ふなよ臂よりふれよそれが秘事なり。

・中継は胴を横手にかきて取れ 茶杓は直におくものぞかし。

・壷などを床に飾らん心あらば花より上にかざりおくべし。

・点前こそ薄茶にあれと聞くものを そそうになせし人はあやまり。

・点前には強みばかりを思ふなよ 強きは弱く軽く重かれ。

・点前には弱みをすてゝただ強く されど風俗いやしきを去れ。

・当たり前のことが、いつでもどこでもできるならば、私があなた方の弟子になりましょう。

・頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもある。

・濃茶には点前をすてゝ一筋に 服の加減と息をもらすな。

・濃茶には湯加減あつく服は尚ほ 泡なきやうにかたまりもなく。

・薄茶入蒔絵彫りもの文字あらば 順逆覚え扱ふと知れ。

・文琳や茄子丸壷大海は底に指をばかけてこそ持て。

・余所にては茶を汲みて後茶杓にて茶碗(ちゃしゃく)のふちを心して打て。

(他人の茶室で茶をいれて茶杓を打つときは、茶碗や茶杓を壊すことのないよう心して打て)

・棗(なつめ)には蓋半月に手をかけて 茶杓を円く置くとこそしれ。
(なつめとは茶器の一種で、抹茶を入れるのに用いる木製漆塗りの蓋物容器)

サイト

その他

〔三千家〕

 茶道の流派は、細かく分ければ、500以上もあるとされるが、三千家とは、千利休を祖とする茶道の宗家である三家(表千家、裏千家、武者小路千家)を総称していう呼称である。

 千利休の孫、千宗旦(せんのそうたん)が、千利休のわび茶の道を極めながら、千家を復興させ、3人の息子にそれぞれ宗家を興させた。経済的基盤を固めるために、それぞれ大名に出仕させ、三千家の礎を確立させた。

 千宗旦には4人の息子がいたが、長男は勘当されたため、次男、三男、四男が三家の宗家となり、それぞれに家元制度を確立していき、現在に至っている。

 それぞれの宗家により、茶の淹れ方や作法に若干の違いはあるが、その本質は千利休が確立した「わび茶」の心にあることに違いはない。

〔ふくさの色〕

 お客様におもてなしをする亭主や半東が腰に身につける帛紗(ふくさ)の色や柄が違う。

(裏千家)
 男性:紫色
 女性:赤色

(表千家・武者小路千家)
 男性:紫色
 女性:朱色

〔お抹茶(薄茶の場合)〕

(裏千家)
 よく泡立てる。

(表千家・武者小路千家)
 あまり泡立てない。

〔正座の仕方〕

(裏千家)
 男性:こぶし2つ分両膝をあけて座る。
 女性:こぶし1つ分あけて座る。

(表千家)
 男性:安定する広さに両膝をあける。
 女性:こぶし1つ分くらいに膝をあけて座る。

(武者小路千家)
 男性:こぶし1つ分あけて座る。
 女性:膝を開かずに正座する。

〔お辞儀の仕方〕

(裏千家)
 お辞儀をする方法に、真(しん)、行(ぎょう)、草(そう)と呼ばれる3種類があり、場面により使い分けられる。

 真:おなかが膝につくほどの丁寧なお辞儀。
 行:前に身体をかがめるほどのお辞儀。
 草:軽くするお辞儀。

(表千家)
 八の字に両手をつき、横からみて30度くらいの角度までお辞儀をする。
 男性:両手を20cm位あける。。
 女性:両手を7~8cm位あける。。

(武者小路千家)
 男女とも左手が前になるように両手を膝の前で軽く合わせてから、軽く指先を畳につけて背筋を伸ばしてお辞儀をする。