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〔日本の偉人〕

田山花袋 (たやま かたい)

 

 田山花袋は、当時の栃木県邑楽郡館林町生れの小説家である。この地は現在は群馬県になっている。

 田山花袋は12歳から漢学塾で漢詩文を学びはじめ2年後には漢詩集を編み、桂園派の和歌や西洋文学にも親しむ。後に尾崎紅葉のもとへ入門、国木田独歩、島崎藤村と知り合いとなり、『抒情詩』を刊行し、ここに40編の詩を収めている。1904年に勃発した日露戦争時に従軍記者となり、そこで軍医部長の森鴎外と知り合いになる。

 『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、読者や文壇に衝撃を与えた。これらの作品により島崎藤村と並ぶ代表的な自然主義作家となった。他の代表作には『生』『時は過ぎゆく』『百夜(ももよ)』などがある。


 12歳から漢学塾(藩儒吉田陋軒の休々塾)で漢詩文を学ぶ。14歳の時には漢詩集を編んだ。また桂園派の和歌や西洋文学にも親しむ。1891年(明治24年)、尾崎紅葉門下となり、その指示で江見水蔭の指導を受ける。



 国木田独歩、島崎藤村と知り合い、1897年(明治30年)、彼らと『抒情詩』を刊行、ここに40編の詩を収める。その後、モーパッサンに感化され『アカツキ叢書』に書き下ろした『重右衛門の最後』を発表し、作家としての力量を認められる。

 1906年(明治39年)博文館から『文章世界』が創刊されると編集主任となる。田山らの影響で、自然主義文学の拠点となる。田山花袋は、紀行文も得意で、日本全国の温泉関係の本も多く残している。


偉人のプロフィール

〔田山花袋〕のプロフィール。

〔田山花袋〕

田山花袋の肖像・写真 
(出典:ウイキペディア)
プロフィール
通称 〔通称〕
・田山 花袋(たやま かたい)

本名 〔本名〕
・田山 録弥(たやま ろくや)

別名
称号
時代 〔時代〕
・明治時代~昭和時代初期

生誕 〔生誕〕1872年1月22日(明治4年12月13日)
〔生誕地〕群馬県(当時は栃木県)

死没 〔死没〕1930年(昭和5年)5月13日)(享年59歳没)
〔没地〕東京府豊多摩郡代々幡町(現・東京都渋谷区代々木)
〔墓所〕多磨霊園

国籍 日本国
言語 日本語
居住地
学歴
職業 〔職業〕
・日本の小説家

分野 〔ジャンル〕
・小説

所属 〔文学活動〕
・自然主義派

業績 〔業績〕
・自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人であり、紀行文にも優れたものを残した。

作品 〔作品〕
 『瓜畑』
 『ふる郷』
 『重右衛門の最期』
 『少女病』
 『蒲団』
 『土手の家』
 『生』
 『妻』
 『田舎教師』
 『縁』
 『時は過ぎ行く』
 『一兵卒の銃殺』
 『河ぞひの家』
 『残雪』
 『河ぞひの春』
 『新しい芽』
 『源義朝』
 『百夜』
 『源義経』
 『通盛の妻』
 『再び草の野に』
 『東京震災記』
 『温泉めぐり』

〔従軍記〕
 『第二軍従征日記』

〔評論〕
 『露骨なる描写』

〔紀行文〕
 『日本一周』
 『山水小話』

〔回想集〕
 『東京の三十年』

受賞歴
名言 〔田山花袋の名言〕



サイト
その他  渋谷区代々木3-49に田山花袋終焉の碑が建てられている。明治39年から死去まで過ごした地である。

 出生地の館林市には、田山花袋記念文学館がある。同市第二資料館内には「田山花袋旧居」もある。

 群馬県で有名な「上毛かるた」の「ほ」の札は「誇る文豪 田山花袋」となっている。