蘇我馬子は、飛鳥時代の貴族で政治家である。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣(しまのおおきみ)とも呼ばれた。その後の時代、大化の改新の前夜〔乙巳の変(いっしのへん)〕において討たれることになる蘇我入鹿は孫である。 |
蘇我馬子は、飛鳥時代の貴族で政治家である。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣(しまのおおきみ)とも呼ばれた。その後の時代、大化の改新の前夜〔乙巳の変(いっしのへん)〕において討たれることになる蘇我入鹿は孫である。 |
敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。馬子はそれらをもらい受け、司馬達等と池邊氷田に修行者を探させ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。 |
馬子は、とてつもない策略家であり、長年の宿敵である排仏派の物部守屋と凄まじい抗争を続けることになる。
・守屋「(長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子へ)まるで矢に射られた雀のようだ」 程なくして用明天皇が崩御すると、守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと計ったが、馬子はこれを暗殺してしまう。馬子は群臣にはかり守屋を滅ぼすことを決意し、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。 守屋の軍事氏族の物部氏の兵は頑強に抵抗し馬子軍を三度も撃退する。厩戸皇子(後の聖徳太子)が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建て仏法を広めることを宣言、大攻勢をかけて、ようやく守屋を射殺し勝利する。 馬子は泊瀬部皇子(はつせべのおうじ:母は蘇我稲目の娘)を即位させ、崇峻天皇を擁立する。政治の実験は馬子にあり、崇峻天皇は馬子を殺害することを計画し兵を招集したが、逆にそれを知った馬子に暗殺されてしまう。 馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇を擁立、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子となり、摂政となる。 馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進める。更に、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を導入する。 絶大なる政治権力を誇った蘇我馬子は、推古天皇34年(626年)死去した。馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説が有力である。 |
◆〔蘇我馬子〕のプロフィール。 |