1927年には働いていた電機会社を辞め、オートバイ学校に通ったりしたが、在学中にチェコスロバキア陸軍に徴兵され第31歩兵連隊に所属した。1年半でその勤務は終了したが、予備役として軍籍に残り、予備役下級伍長となった。
1927年、ツヴィッタウ近辺にある裕福な農場経営者の娘、エミーリエ・ペルツルという女性と知り合い、1928年3月6日に挙式した。彼女との間に子供はなかったが、シンドラーは父親の秘書だった女性との間に私生児2人をもうけている。
1935年、シンドラーは、ドイツ系ズデーテン住民によるドイツ民族主義的な政党に入党した。そして、ヴィルヘルム・カナリス提督率いるドイツ国防軍諜報部「アプヴェーア」の諜報員として活動することになる。
彼の諜報活動が露見し、チェコの鉄道内部の秘密情報を漏えいした罪で、大叛逆罪として死刑判決を受ける。しかし、運よく1938年10月にドイツのズデーテン併合があり、ドイツによって刑の執行は中止された。
1939年2月10日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に志願して入党する。ドイツのポーランド侵攻に合わせ、ポーランドに移動し一儲けを狙い、もともとはユダヤ人所有のホーロー工場を買い取る。彼は、一種の闇商売を続け、やがてドイツ軍の厨房用品を製造するようになり急激な成長を遂げた。工場は3か月の間に、250人ものポーランド人労働者を雇うようになる。その中には7人のユダヤ人もいた。そして、1942年までには、巨大な軍需工場として、ユダヤ人370人を含む800人ほどの労働者が働らく、ホーロー容器生産をするまでに成長する。
シンドラーは上流社会の御曹司のように振るまい、女性たちからの憧れの的となり、お金を湯水のように使うような快楽主義者で遊び人として過ごすようになる。楽天的人物であったシンドラーだったが、やがて、ナチス政権による、無力なユダヤ人住民たちに対する扱いに、抵抗するようになる。
当初は金儲け主眼だった彼の気持ちは、出来るだけ多くのユダヤ人を救済したいという願望に変わっていく。最後には、そのためなら全財産ばかりか、自分の命まで賭けようとしたのである。
彼の工場が、ポーランド占領のドイツ軍の重要な軍需工場であったことから、ドイツ軍司令部からも特別の格付けを受けていたことが幸いして、彼は大きな契約を締結もできたし、当時親衛隊の監督下にあったユダヤ人労働者を要求できたのである。ユダヤ人労働者が、強制収容所・絶滅収容所へ移送される危険がせまった時、これらの労働者が工場の生産に不可欠だと主張して、特例措置を受けることが出来たのだった。
シンドラーは、特例措置を申請する際にも、虚偽を記載したり、偽ったりはしなかったが、子供や大学生を金属加工の熟練工と称したりはした。シンドラーは、かの有名な〔シンドラーのリスト〕を秘書のミミ・ラインハルトに口述筆記させ、彼女もまた数名の名前をそれに書き足した。
シンドラーは、ユダヤ人への優遇の嫌疑により、しばしばゲシュタポに連行され事情聴取を受けた。1943年、シンドラーは、ユダヤ人組織の招待でブダペストに行きハンガリーのユダヤ人たちと会い、ポーランドでのユダヤ人たちの絶望的な状況を詳細に語り、救出の可能性を議論した。
1943年3月、ユダヤ人隔離居住区であったクラクフのゲットーが解体されてしまい、ユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送される。
シンドラーは、強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートとは、飲み仲間であったことから、彼の工場にユダヤ人労働者用の小屋の設置をせてくれと説得する。この結果、ユダヤ人労働者に少しはましな生活条件や栄養補充が出来るようになる。食料などは、闇市場からシンドラーがすべて調達していた。
1944年末、プワシュフは、ソ連赤軍侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。
このとき、シンドラーは、ドイツ軍の司令官と交渉し、彼とその妻がズデーテン地方のブリュンリッツで新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続するために労働者を連れていくという許可を得る。
その労働力には、プワシュフの収容所から多くが選ばれ、総数で800人となった。内、700人がユダヤ人、300人が女性だった。そして、ブリュンリッツ労働収容所への移送は、1944年10月15日に行われた。
別の収容所に移される囚人たちは男女を問わず、すべて検疫所、身体検査施設へ行くようにとの親衛隊の指令書が届いていた。
これらの指令が女性囚人たちに実施される間、グロース・ローゼン強制収容所には、シンドラーの女性労働者たちを収容するにはまだ充分な人員も施設もなかった。そのため、女性たちは、そこから60km離れたアウシュヴィッツ強制収容所に行くというはめになったのであった。
シンドラーは、グロース・ローゼン強制収容所から人々を助け出しに駆けつけ、ゲシュタポに対し、ユダヤ人1人当たり1日につき7マルク支払う条件で交渉し、彼らを助け出すことに成功した。
更に、シンドラー夫妻は、親衛隊のドイツ石炭鉱業で働かされていた120人のユダヤ人を、アウシュヴィッツの収容施設から救出した。
1945年1月、彼らはソ連軍侵攻により、強制疎開を余儀なくされ、2台の鍵をかけられた家畜貨車で西方に荷送された。極寒の中、全くの飲食物もなく7日間かけて、親衛隊は、この貨車をシンドラーの工場の門まで運んできた。
妻のエミーリエ・シンドラーは、親衛隊の輸送部隊を阻止し、貨物車だけを工場の中に引き入れた。シンドラーは、貨物車の乗客が工場にとって急ぎ必要なのだと説いて聞かせた。
貨物車の中には生き延びた107人と凍死者13人がいた。生存者は懸命な介護で何とか一命を取り留めた。親衛隊は誰一人シンドラーの工場には立ち入りを許されなかったし、凍死したユダヤ人たちを親衛隊が焼却処分することも許さなかった。シンドラーは、ユダヤ教のしきたりに則って彼らをそこに埋葬した。
それ以来、彼の労働者の誰一人として、収容所で残酷な思いをしなかったし、不審な死をとげた者もなく、絶滅収容所に送られた者もいなかった。戦争終盤、シンドラーは、ドイツに移るが、彼はその時1ペニヒすら持っていなかったという。
戦後のシンドラーは、多くの事業を手掛けたりしたが、失敗続きで不運に見舞われた。資金繰りで奔走するシンドラーの噂が、彼に救われたユダヤ人たちにも伝わり、シンドラーはイスラエルに招待される。
この時から、シンドラーの「二重生活」が始まり、1974年に死去するまで続いた。年の半分はフランクフルトで隠居生活を楽しみ、他の半分を彼が救ったユダヤ人たちの下でエルサレムで過ごしたのである。
シンドラーは、1974年10月9日ドイツのヒルデスハイムで死去した。没年満66歳であった。彼自身の希望により、墓はエルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。
シンドラーと妻のエミーリエとは、1957年以来疎遠となり、再び相見えることはなかったが、シンドラーの死後20年して、彼女は夫の墓前で次のように胸中を明かした。
「やっと会えたのね…。何も答えを聞いてないわ、ねえ、どうしてわたしを見捨てたのかしら…。でもね、あなたが亡くなっても、わたしが老いても、ふたりが結婚したままなのは変わらないし、そうやってふたりは神さまの御前にいるの。あなたのことは全部許してあげたわ、全部…」(出典:ウイキペディア)
エミーリエは、2001年10月、ベルリン市内の病院で亡くなった。没年93歳だった。ミュンヘンから1時間ほどの場所、ヴァルトクライブルクにある彼女の墓には、ドイツ語で次のような言葉が刻まれている。
「Wer einen Menschen rettet, rettet die Ganze Welt.」(ドイツ語)
「一人の人間を救う者は、全世界を救う。」(日本語訳)
時が経つにつれて、彼の名は薄れたいったが、再び彼の名が知られるようになったのは、1982年にオーストラリアの作家トーマス・キニーリーが著したノンフィクション小説からである。
『シンドラーの箱船』(原題 Schindler's Ark)
『シンドラーのリスト』(米題 Schindler's List)
『シンドラーズ・リスト 1200人のユダヤ人を救ったドイツ人』(日本)
『シンドラーのリスト』(スティーヴン・スピルバーグ監督が映画化)
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