シートンは、1879年にオンタリオ美術学校を卒業し、絵の勉強のため単身イギリスに渡り、絵画の名門のロイヤル・アカデミー絵画彫刻学校に入学する。
この絵画彫刻学校で学ぶ中で、シートンは、イギリスで誉れ高い博物館である、大英博物館との出会うのである。それまで半ば諦めかけていた、博物学者になる夢を再びとり戻すことになる。
当初、シートンは、ロイヤル・アカデミー絵画彫刻学校の入学試験の課題として絵を描く必要があって名画を見る目的で、大英博物館へでかけたのだった。博物館へ出かけてみると、そこには図書館もあって、シートン好みの世界中の博物学書が沢山並べられていた。
しかし、図書館は21歳未満では入館できないという年齢制限の規則があって、当時19歳のシートンは入館することができなかった。これをどうしても諦められなかったシートンは、図書館長にどうすれば入館できるか教えてもらった。
図書館長は、イギリス王太子、イングランド国教会の大主教、首相のいずれかの許可があれば、21歳未満でも入館できると教えてくれた。
シートンは、念のために三者に手紙を書き、熱意が通じてか返事が来て、図書館長から一生涯使える館友券を手に入れることができた。
それからというもの、毎日、シートンは昼は博物館で絵を描き、夜は図書室が閉館する10時まで、博物学の本を読み漁った。しかし、無理をし過ぎて体調を壊し、トロントに帰郷することとなる。
体調が回復すると、シートンは、同じくカナダで農場経営をしている兄の元で農場の手伝いをするようになる。その傍ら、森林や草原に出現するいろいろな動物を観察し、その生態を細かく記録するようになる。
1883年にはニューヨークの出版社で動物の絵を描く仕事を始めたものの、大自然が恋しくなりカナダに戻る。1890年にも絵の勉強のためにパリに行くが、またしても大自然が忘れられずカナダへ戻る。
シートンは、1892年からの5年間、マニトバ州政府の博物学者となり、博物学の専門書を2冊刊行する。
1893年には、知人のアメリカ人実業家から、牧場の牛が狼に襲われて困っているので、動物に詳しいシートンに助けて欲しいとの手紙をもらう。ニューメキシコでこの狼、ロボを捕獲すると、またフランスに戻る。
1895年にはアメリカに戻り、グレース・ギャラトンと結婚する。1896年以降は、米国に永住しニューヨークで暮らすようになる。
シートンは、過去数年間に雑誌発表していた物語8編をまとめ、第1作品集『私の知る野生動物』を刊行すると大ヒットを博し、全米に名を轟かせる。そして、各地での講演を依頼されるようになる。
そのとき発表した8編の物語は、『ロボ』や『銀の星』『ギザ耳坊や』『ビンゴ』『スプリングフィールドの狐』『だく足のマスタング』『ワリー』『赤襟巻』である。
1902年、インディアンの生活を理想とした素朴な自然活動を志す少年キャンプをコネチカットで始めて、ウッドクラフト・インディアンズという少年団を創設する。シートンの提唱するウッドクラフトとは、日本語でいえば「森林生活法」である。
彼は、また、雑誌「レディーズ・ホーム・ジャーナル」誌に、ウッドクラフトとキャンプについての連載記事を寄せる。
1903年に『二人の小さな野蛮人』を出版、森林生活法の本格的な普及を目指す。この運動をイギリスでも普及させようと、軍人で青少年教育に関わりのある知人のロバート・ベーデン・パウエルに、著書に添えて手紙を出す。これが、後にパウエルがボーイスカウトを発足させる大きな起点となる。
1910年には、米国ボーイスカウト連盟の理事長に就任するが、1915年には他の指導者との折り合いが悪くなり、これを辞任する。シートンは、その後もウッドクラフト・インディアンズ活動を続け、子供達に自然活動のすばらしさを教える。
1930年にアメリカの市民権を取得する。1946年、ニューメキシコ州で生涯を閉じる。
<注>本項の記述は、その多くをウィキペディア「アーネスト・トンプソン・シートン」に依存している。
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